■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2020

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。

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11月14日(土)晴/仏坂古戦場(浜松市)

 快晴の今日、引佐町(浜松市北区)へと車を走らせた。東名三ケ日JCTから新東名浜松いなさJCTに至る手前に浜松いなさICがある。このICを出て数分のところに仏坂古戦場跡に至る林道の入口がある。

 ここも2004年以来の再訪地であるが、古戦場跡として新規追加のページにするつもりで立ち寄ることにしたのである。

 元亀三年(1572)、武田信玄は大軍をもって青崩峠を越え、遠江へ雪崩れ込んだ。いわゆる一般的にいうところの西上作戦である。武田軍は天竜川沿いに南下して徳川方の諸城を落としつつ二俣城を囲んだ。

 他方、山県昌景率いる五千の別動隊が三河路を南下して柿本城(新城市)を落とし、三遠国境を越えて二俣城攻囲の本軍に合流しようとしていた。

 この柿本城を脱した城兵らも国境を越えて引佐の井平城に入り、追跡してくる山県勢を迎え撃ったのがこの仏坂の戦いなのである。戦いは柿本城の鈴木氏と井平城の井平氏の抵抗も空しく、山県勢に圧倒されて壊滅した。

 現地には戦死者を埋葬したという墓塔が残され、「ふろんぼ様」と呼ばれて今も香華が絶えることはない。

↑仏坂古戦場

↑ふろんぼ様
11月25日(日)晴/天方城(周智郡森町)

 二日目。旅館からさほど遠くもない森町の天方城に立ち寄った。天方城は16年ぶりの再訪である。相変わらず城址への林道は狭い。対向車があれば万事休すの状態だ。

 城址は城ヶ平公園として整備され、植木が綺麗に植栽されている。それがかえって古城の雰囲気を消しているようで、自分としてはあまり面白くない。それでも、空堀と土塁の一部がダイナミックに残されているので救われる。

 永禄12年(1569)、今川氏の凋落によって遠江は徳川家康の席巻するところとなり、城主天方氏は徳川氏に降った。その後、武田信玄の遠江侵攻によって天方氏は城を離れ、徳川に身を寄せた。城は武田方に接収され、改修されたものと思われる。天正元年(1573)、武田信玄亡き後、家康は失地回復に動き、天方城を奪回して天方氏に渡した。

↑城ヶ平公園入口の城址碑

↑空堀と土塁
11月24日(土)晴/大宮城(富士宮市)

 GOTOトラベルを利用して県内一泊の旅に出た。旅館は掛川市内であるが時間的に余裕があるため、富士宮方面まで足を延ばした。

 富士山本宮浅間大社をお参りした際に隣接する大宮城跡を訪ねた。現在では保育園や小学校となり、城跡を感じさせるものは何もない。主郭とされるグランドと二の郭とされる校舎の区域に多少の高低差が感じられる程度である。

 大宮城の築城時期は明確ではないが、桶狭間合戦の翌年に今川氏真の命を受けた富士信忠が普請して城代に任じられたとされる。義元亡き後斜陽の一途をたどる今川に見切りをつけた武田はついに駿河侵攻に踏み切るに至る。大宮城は二度の武田の攻撃に耐え、信玄自ら陣頭に立った三度目の攻撃で開城した。

 度重なる武田の攻撃に耐えた大宮城でるが、要害堅固な城というわけでもない。平場に堀を穿ち、郭も三つほど構えた程度の城である。「人は城、人は石垣」と言われるように富士氏をはじめとする城兵の士気の高さが城を守り続けたものと言わねばなるまい。

 富士氏は最終的に武田氏に仕え、武家としてではなく神職のみを司る宮司としての道を歩むことになった。

↑大宮城主郭跡

↑富士氏が宮司を勤めた浅間大社
10月11日(日)晴/佐久城(浜松市)

 台風一過の晴天。大気は澄み渡り、秋空に太陽が輝いていた。城跡探訪日和である。

 車を浜名湖北部の三ケ日へと進めた。かねてより気になっていた中千頭砦を確認しようと思ったのである。砦跡の近くに展望台が設けられており、そこから望見できるのではないかと期待していたのである。

 浜名湖とその周辺の眺望は絶景であったが、砦跡は樹木に遮られて視認はできなかった。残念ではあったが次回は砦近くまで歩くことにして展望台から降りた。

 帰路、猪鼻湖畔に築かれた浜名氏の佐久城跡に寄った。16年ぶりの再訪である。猪鼻湖に突き出た半島の突端に築かれた城である。馬出と土橋が鮮やかに残り、小規模ながらも楽しませてくれる城跡でもある。
 

↑佐久城本丸の城址碑

↑本丸と馬出を繋ぐ土橋
8月12日(水)晴/森平城岡津砦本郷城高山城(掛川市)

 久方ぶりに中遠(遠州中部)の城めぐりに出掛けた。原野谷川流域の四城である。猛暑のなか汗だくで歩きまわったが、やはり城めぐりは気分がいい。

 天竜浜名湖鉄道の桜木駅の北北東約900mに白泉寺がある。開基はここ森平城の城主久貝正勝である。今川氏に仕え、後に息正俊は徳川氏に仕えて旗本として続いた。正勝は天正15年(1587)に没した。天正18年(1590)、正俊は家康の関東移封に従いここを去り、城は廃されたものと思われる。

 白泉寺の西側は急峻な丘陵が迫っており、その山頂に稲荷社が建っている。長い階段を登りきると、そこから居館跡とされる舌状台地が確認できる。現在では宅地化、農地化して遺構の確認は難しくなっているが地形だけはその名残をとどめている。

 天竜浜名湖鉄道富部駅の西方に南北1kmほどの台地がある。永禄11年(1568)に徳川家康が今川氏真の逃げ込んだ掛川城を攻めるために築いた附城群のひとつがこの台地上にある。岡津砦である。現在は茶園、畑地となり、遺構の確認は難しい。各和城攻めの拠点にもなったかもしれない。

 岡津砦から北上して天竜浜名湖鉄道原谷駅の北東に長福寺がある。この寺一帯が原氏累代の古城跡とされる。寺の東側の谷を隔てた高台が居館跡とみられている。鎌倉期に本郷の地頭となって以来、当地を拠点に周辺地域に勢力を張った。南北朝期には南朝に付いて今川氏と争い、戦国期には武田氏の侵攻を受けてこれに従う。終には徳川家康の攻撃を受けて西国に落ち延び、原氏五百年の歴史に幕を下ろした。

 長福寺に車を置いて、居館跡の方へ向かった。真夏の日差しがじりじりと腕を焼き、熱い空気が身体を覆い、汗が噴き出す。谷を隔てた東側の丘が居館跡である。現在では数軒の住宅が立ち並んでおり、遺構の確認は難しい。ただ、丘の地形だけが当時を物語っているに過ぎない。

 本郷城からさらに3kmほど北上すると原里というところに至る。原野谷川とその支流に挟まれた地域の高台に小学校が建っている。この学校の高台一帯が高山城と呼ばれる城跡なのである。この辺りも原氏の領域であったようで高山城は原氏によって築かれたとされている。

 主郭部に校舎が建ち、居館部は校庭となっているようだ。ここも、遺構の確認は難しい。というより、消滅といった方がよいだろう。


↑森平城 白泉寺裏の山上が主郭

↑岡津砦 北からの遠望

↑本郷城 長福寺

↑高山城 城跡に建つ校舎
8月1日(土)晴/志都呂陣屋(浜松市)

 十四松平氏のひとつ五井松平氏の陣屋が浜松市西区志都呂にある。五井松平氏は愛知県蒲郡市の五井を拠点にして代々松平宗家に近侍して戦陣を共にした一族である。

 元禄期に十代松平忠明が下総国から当地に移封されたことにはじまる。その後、断絶の危機もなく明治に至っている。

 現在ではその跡地に幼稚園が建っているが、陣屋跡の石垣の一部が正門付近に見られる。

↑志都呂陣屋の石垣
5月30日(土)晴/大久保陣屋(浜松市)

 緊急事態は解除されたとはいえ、県外への行動は自粛が要請されている。おかげで、周辺(浜松市内)の城跡を見直す日々が続いている。そんな中で自宅から15分の所に陣屋跡を見つけた。大久保陣屋である。

 陣屋の主は旗本服部政信四千石である。正信が元和五年(1619)に浜名湖今切口の新居関所の関所奉行になったことで当地に陣屋を設けたことに始まる。正信の後、政久が継ぎ、嗣子無く断絶とされる。

 現在は大窪神社の境内地となっており、鳥居の南面の石垣が陣屋の遺構と伝えられている。

↑大久保陣屋の石垣
5月8日(金)晴/井平城(浜松市)

 井平城は井伊氏の本拠井伊谷から少し山間に入った所にある。井伊氏から分家した井平氏の居城である。今回は再訪となるが、城跡が整備されているようなので出かけてみた。

 2004年の訪城当時、情報量の少ないこともあり、また説明板の設置位置などから松山観音堂の山が城跡であると判断してしまっていた。実際にそこを城跡とする資料もあり、サイトもあったのである。

 大河ドラマの関連で井伊氏関係の史跡が整備されたなかでここ井平城も案内板などが設置されて迷うことなく訪れることができるようになっていた。

↑本丸跡の城址碑
4月4日(土)晴/浜松城(浜松市)

 コロナショックで外出自粛ということで訪城活動もままならぬ状況が続いている。それでも四季はめぐり、桜の時期となった。

 感染対策を万全にして浜松城へと脚を運んだ。例年ならさくら祭りということでイベントや出店が並び、花見客で賑わうのだが、今年は静かだ。

 浜松城は地元ということもあって毎年のようにこの時期には訪れている。本丸跡に若き日の徳川家康像が建っているが、その裏側に土塁があり、その東端が富士見櫓跡となっている。

 今回はじめてそちらに行ってみた。そこから天守方向を見ると復元された天守門と天守が並んで見えるのである。浜松城の定番ショットになりうる絶景であった。

↑浜松城天守と天守門

↑模擬天守