■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2014

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。

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12月14日(日)晴/賤機山城江尻城横山城小島陣屋(駿河)

 快晴の今日は静岡周辺の城址めぐりに出かけた。本年最後の訪城である。

 自宅を5時半発。夜明け前の空は満点の星空である。静岡方面は今日一日快晴の予報である。絶好の訪城日和である。気温は3℃。かなり冷え込んでいる。

 快調に東名を疾走。7時半前には駿府城近くの浅間神社駐車場に到着した。本日最初の登城先は賤機山城である。この浅間神社に隣接する八干戈神社西横の100段の石段が登城開始口である。

 賤機山は安倍川右岸に南北細長く連なる山で浅間神社から鯨ヶ池までの約7kmの尾根道がハイキングコースとなっている。賤機山城の本丸は浅間神社から約1.5kmの山頂部にある。平面上の距離と違って山道のこの距離は思った以上に時間がかかるものである。

 100段の石段をクリアすると賤機山古墳の石碑がある。ここから整備された尾根道を登り進むと展望台やら慰霊碑やらが尾根に沿って設けられている。その慰霊碑まで20分かかってしまった。本丸はここからさらに15分、尾根道を進まねばならない。

 本丸に到達する前に突如堀切に出くわす。この堀切を過ぎると城本体部分の二の曲輪である。土塁状の高まりが見受けられたが遊歩道以外の部分は藪化して立入がためらわれるので遠目に眺めるだけである。遊歩道は城の西淵を北上している。本丸に至る約200mの間は土塁状の高まりに沿って路が続く。本丸には石碑と説明板が建っている。そんなに広くはない。周囲は土塁に囲まれているようで、かなり狭く感じる。駿府今川氏館の戦時詰の城という見方もあるが、大名の立て籠る山城にしてはあまりに簡素であり過ぎる。安倍川対岸に対する物見程度の砦であったとするのが妥当かもしれない。

 再び来た道を取って返す。山城に登って人と行き交うのは滅多にないが、ここはハイキングコースだけあってトレッキング中の人と何人もすれ違った。

 浅間神社の駐車場を出発して駿府城の堀端を素通りして清水の江尻城へ向かう。駿府城の堀と石垣を目にすると「やっぱりお城はいいなぁ」と理屈抜きで口から出てしまう。

 江尻は巴川河口に開けた湊で、古くから駿府の物資集散地であった。武田氏時代に城が築かれ、穴山梅雪が駿河支配の担当者として江尻城主となった。歴史的には重要な役目を担った城であったが、現在では跡形もなくなってしまっている。本丸跡には小学校が建ち、かつての堀や二の丸などは宅地化されて字名にその名残を留めている程度である。

 清水江尻小学校の南側を流れる巴川の堤に城の復元縄張図と説明板がはめ込まれている。とりあえず、小学校の周囲を散策してみる。小学校の南西にはかつての外堀の外側にあった稲荷神社がある。穴山梅雪が建てたと言われている。そこから小学校の東側の道路を北に向かう。この道はかつての内堀であったようだ。学校のフェンス脇に江尻城の説明板が建っていた。そして小学校の校門は「本丸門」と呼ばれているようだ。

 江尻城主穴山梅雪は武田滅亡時に徳川家康に降り、家康とともに安土を訪問した。ところが本能寺の変に遭遇して急遽帰国の途についたのであるが途中で一揆に襲われ逢えない最期を遂げてしまった。家康も命からがら伊賀を抜けて帰国したことは有名な話である。

 江尻城を後にして国道1号を興津へと向かい、そこから国道25号を北上する。国道25号は身延街道と呼ばれ、山梨県へと続いている。この25号を3kmほど北上した所に横山城がある。

 横山城は今川重臣興津氏の居城である。武田氏が駿河を蹂躙した後にはこの城も武田氏によって改修を受けたと言われる。現在は城の登城口に石碑と説明板が立っているが、城址そのものは藪化が激しくて登城はままならない有様らしい。二三十代の若い頃ならば藪をかき分けてでも登城を果たすのであるが、還暦を迎えた身としては無理をする気にもなれず、残念ではあるが遠目にカメラのシャッターを切って良しとした。いつの日か登城路の整備されることを期待することにしたい。

 この横山城の北西1km足らずの所に小島陣屋がある。この陣屋は滝脇松平氏が江戸期に1万石の大名となった際に構えられたものである。家格が無城主格であったため陣屋となったが、遺された石垣や枡形などを見ると城の体裁を保っており、国史跡に指定されたのもうなずける。

 これで、本日の予定は終了ということで新清水ICから新東名にて帰路についた。今年最後の訪城でもあった。今年は42ヵ所の城、古戦場をまわった。

↑賤機山から見た富士山

↑賤機山城 本丸

↑江尻城 巴川

↑江尻小学校本丸門

↑横山城 城址碑

↑小島陣屋

↑小島陣屋 石垣
11月30日(日)晴/岡崎城明大寺城本郷城大草城(西三河)

 久々の三河城址めぐりに出かけた。

 明大寺城は岡崎城の前身となる城で、守護代西郷氏によって築かれたものである。松平氏が岡崎に進出する以前のことである。この西郷氏が松平氏の進出に備えて菅生川(乙川)北岸の高台に築いた砦が現在の岡崎城に発展するのである。したがって西郷氏の居城とした明大寺城は菅生川の南岸にあった。

 しかし、現在では都市化して遺構は消滅、その場所を特定することは難しくなってしまったようだ。古図によると川沿いにあったように見えるが、治水の発達していない時代のことであるから、水害に備えて、ある程度は高台にあったはずである。となると現在の六所神社や龍海院のあたりであったかと思われる。多くの城郭ファンの方々のサイトを見ると六所神社の写真を掲載している方が多い。宮城谷昌光氏の「古城の風景」では龍海院の裏山が城跡だとしている。城館資料では川沿いの字川端や上郷中となっている。いずれにしても、名鉄東岡崎駅の周辺であったということであろう。

 六所神社とその周辺を散策した後、岡崎城公園に行こうとしたが、まだ7時半頃であったために駐車場が開いておらず、矢作川を渡ったところにある本郷城跡に向かった。

 本郷城主は遠江出身の植村氏である。植村氏は松平長親に仕えたというから明応(1492-1501)の頃である。初代持益の孫栄安は清康、広忠、家康に仕えた。清康、広忠共に家臣の凶刃に斃れたが、その都度その敵を討取ったのが栄安であった。

 この城跡も遺構は滅失してその所在はよく分らないらしい。東本郷町の字古屋敷に植村栄安生誕地の碑が建っているが、その辺らしい。

 再び岡崎城公園に車を返す。駐車場開場8時半ジャストであった。

 岡崎城は何度も来ているが、今日の目当ては4年ほど前に復元された東隅櫓である。ちょうど駐車場の片隅に建っている。どこでもそうだが、隅櫓は内側から見るよりも外側から見た方が立派である。青空を背景に白壁が朝陽に映えてカッコいい。せっかくであるから公園内を散策して天守閣前まで足を延ばした。資料館「三河武士のやかた家康館」を見学して「マンガで読む・三河武士列伝」三巻をセットで買ってしまった。

 岡崎城から国道248を幸田へと車を向けた。額田郡幸田町大草に大草城がある。大草は守護代西郷氏が最初に拠ったところで、その後明大寺城を築いて移った。しかし松平氏によって岡崎を追われた西郷氏は再び大草に戻った。

 城跡は現在、正楽寺となっている。遺構は無いようだ。ただ、この寺の墓地に西郷氏の墓が残されている。墓石に並んで「岡崎築城主西郷家之墓」と刻まれた墓碑が建っていた。

↑明大寺城/六所神社

↑本郷城/植村栄安生誕地碑

↑岡崎城/東隅櫓

↑大草城/正楽寺
11月15日(土)晴/長野城久居陣屋木造城津城上野城安濃城(三重県津市)
 急遽、三重県の城めぐりに出かけることになった。前夜、慌ただしくコースを練り、寝たのが零時過ぎであった。4時起床、4時半出発。目的地は三重県津市である。伊勢国の城めぐりは北伊勢8城に続き2度目である。今回は伊勢中部津周辺の6ヵ所である。

 最初の目的地は長野城である。国史跡に指定されているが、そこへ至る林道は未整備区間があって四駆でなければ不可能とのネット情報がある。最悪は時間をかけての徒歩登山覚悟で車を津市美里町桂畑へと進めた。山間の静かな所である。桂畑文化センターから先は林道となる。この林道を15分ほど進むと「長野城2.4km」の案内板があり、ここを右折して城へ向かう。この交差点に林業関係(と思われる)の方が数人おられたので「城跡まで行きたいのですが、道は大丈夫ですか」と聞いてみた。すると「四駆なら何とか行けるが、この車ではねえー」と私の車を見て首をかしげた。普通の乗用車では無理だよ、と言いたげな様子であった。それでも道幅は狭いながらも舗装はされているので行ける所まで行ってみようと車を進めることにした。路上には落石、落木がゴロゴロしている。時折、車から降りて車の底に当たりそうな石や木を退かしながら車を進めた。途中からは舗装も無くなり地道に変わる。落石は当たり前、さらに雨水の流れで道が彫りこまれているのでやはり四駆でなければ無理である。それでもさらに車を進めたがゴロ石と坂道のために車がスリップしてしまい、ここからは歩くことにした。かなり城跡には近づいているはずだ。

 登山靴に履き替え、歩き始めたのが8時20分、10分ほどで城跡の駐車スペースとトイレのある所に着いた。ここ主曲輪の西側尾根にあたる。主曲輪は目前である。

 主曲輪に至る経路には階段が整備されている。先の悪路を考えると登城する人も稀ではないかと思われるが、城跡は荒れることなくきちんと整備されていた。主曲輪の西側にはコの字形に土塁跡が残っている。主曲輪の西に副曲輪、南から東側にかけて腰曲輪の削平地が見て取れる。この東腰曲輪に城址碑と説明板が設置されており、ここからの眺めはすばらしく、遠く伊勢湾が光って見えた。

 立地は急峻で標高の高い山上にある。いうまでもなく南北朝期の山城である。鎌倉期に地頭となり、安濃・奄芸両郡に土着して後に国人領主として勢威を振るった長野氏の城である。延文5年(1360)には幕府軍を相手に2年以上の籠城を戦い抜いたという。
 再び未舗装の林道を慎重に車を戻し、舗装区間に入った時にはさすがにホッとした。あとは平地の城めぐりである。長野城の訪城を思えばかなり気楽に訪城コースを進められる。

 国道163号伊賀街道を津方面へとしばし車を戻し、途中で久居方面へと進めた。目的地は久居陣屋である。伊勢道久居インターの南、久居中学校の西隣に高通児童公園がある。藤堂氏久居藩の陣屋跡である。

 久居藩は津藩の世嗣断絶・改易防止のための分家として立藩されたものである。初代藩主は藤堂高通(たかみち)で、公園の名となっており、公園中央には高通の顕彰碑が建てられている。陣屋跡地は中学校やグラウンド、住宅地、公園となって遺構としては見るべきものはあまりないようである。強いて言えば津市久居グラウンドの北側に谷地形が残っている。かつての堀跡である。城ではないので溝と呼んでいたという。

 久居陣屋の東約5kmに木造城がある。伊勢国司北畠氏庶流筆頭と言われた木造氏の居城であったが、現在では見る影もなく、広大な耕作地の中にポツンと一塊の土壇の上に城址碑が建つのみである。城址碑の前に「往時、ここに城あり…」で始まる碑文が刻まれた碑が建っている。何もない周りの風景のなかにあってこの碑文だけがかつての栄光を懸命に伝えようとしているのだ。人の世のはかなさが感じられてならない。

 木造城の次は津城である。木造城の10kmほど北になる。津城の起源は長野氏の分家細野氏と言われるが、ここに五層の天守閣がそびえる城郭を築きあげたのは長野家に養子入りした織田信包であった。秀吉時代には信包に変わって冨田氏が城主となった。関ヶ原合戦時、城主富田信高は西軍毛利の大軍を相手に大奮戦した。結局は開城をよぎなくされたが、関ヶ原後に加増されて返り咲いている。その後、藤堂高虎が伊賀・伊勢22万石の太守として入部、伊賀上野城を本城としたが平素は津城に居した。城も高虎流に改築されたが、関ヶ原時に焼失した天守は再建されることはなかった。高虎は城下も整備し、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」とうたわれたのはこの時のことである。
 現在、城址には三層の櫓が再建され、津城のシンボルとなっている。また本丸跡には高虎の騎馬像が建っている。

 津城からさらに9kmほど北上した伊勢湾を見下ろす台地に上野城がある。伊賀国の上野城との混同をさけるためにふつうは伊勢上野城と呼ばれる。本丸の天守台跡に建てられた展望台からは伊勢湾とその周辺が一望できる。

 上野城は先の織田信包が長野氏の養子となった際に最初に入城した城である。築いたのは長野氏一族の分部光嘉であった。光嘉はいちはやく織田方に属し、上野城を築いて信包を迎えたのである。津城が完成して信包がそちらに移ると光嘉が上野城主となった。秀吉時代には1万石を与えられて大名となり、関ヶ原合戦時には津城に籠って奮戦した。後に家康から1万石を加増されている。

 現在は本城山青少年公園となっている。遺構は破壊された部分もあるが、本丸の土塁跡などが残り、城跡の雰囲気を漂わせている。

 上野城の西10kmほどのところに安濃城がある。本日最後の訪城先である。

 安濃城は長野氏の分家細野氏が戦国期に築いた城である。細野氏は織田信長の伊勢侵攻に対して頑強に抵抗したことで知られる。信長が弟信包を長野氏の養子に入れて和睦した後も安濃城の細野氏は信長への抵抗を続けた。天正8年に至り、ついに信包軍の包囲に屈して落城してしまった。

 現在、城址主郭跡には阿由太神社が鎮座しているが、その周囲には土塁や櫓台の跡が残っている。城域は樹木が繁茂して薄暗く、竹林が風に揺すれてザワザワ音を立てている。一般的に山城といえば尾根筋を削平し、堀切や土塁を設けるなどして築かれているが、この城はそうした形態にはあてはまらない。山上全体が台地状に削平されて各曲輪が平面上に並んでいるのである。少なくとも中伊勢地域では稀有な存在であるようだ。

↑長野城へ続く林道

↑長野城

↑長野城 城址碑

↑久居陣屋

↑木造城

↑津城三層櫓

↑津城北堀

↑上野城

↑安濃城
10月19日(日)晴/朝日山城(藤枝市)

 休日と晴れが重なれば、じっとしていられない。東名を東へと車を走らせた。藤枝市にある朝日山城が目標である。

 焼津インターで降りて県道81号を北上する。この県道は新東名の藤枝岡部インターとの連絡道路を兼ねている。途中からインターへの導入道路となっているがその側道を進めば左側に朝日山城入口の駐車場がある。

 現在、城址は朝日稲荷神社の境内地となっている。登城口となる赤い鳥居をくぐると山上まで石段がジグザグに整備されている。

 この石段の左側にはこの城の最大の見どころと言える巨大な竪堀を眼下に見ることができる。草木が繁茂して堀底までは確認できないが説明板には幅20m、深さ5mとある。しかし近年では自然地形であろうとの見方もされており、今後の研究結果が待たれるところである。

 山上には稲荷神社の拝殿が建っており、現地説明板に描かれた城の絵図によれば、ここが二の曲輪となる。その手前に一段低くなったところに鳥居と東屋があるが、そこが三の曲輪になる。ニの曲輪の拝殿裏に廻るとさらに一段高くなっており、そこが一の曲輪である。舳先を北西方向に向けた舟形をした削平地となっており、西側縁辺には土塁の遺構が見られる。

 この朝日山城は当地の国人岡部氏累代の居城であったとされる。居城といっても戦時の詰の城であったわけで、平時の居館は山麓部に置かれていた。戦国期の岡部氏は今川氏の被官として朝比奈氏と並ぶ地位にあった。天文五年(1536)花倉の乱に際しては承芳(今川義元)方に属して岡部親綱が活躍している。

↑登城口

↑竪堀前の説明板

↑一の曲輪土塁
9月28日(日)晴/花平陣屋井伊谷陣屋井伊城(浜松市北区)

 Sさんの尽力でついに花平陣屋跡の場所が分かったので出掛けた。もちろんSさんにも同行していただいた。

 花平陣屋というのは五近藤と呼ばれる旗本近藤氏の陣屋のひとつである。近藤氏は井伊谷三人衆のひとりで三河宇利城主であった近藤康用が近在の鈴木氏、菅沼氏とともに徳川家康に従って遠州入り(永禄11年/1568)を先導して功名した。その康用の子秀用が元和5年(1619)に引佐地方に1万5千石を拝領して井伊谷に入部し、寛永2年(1625)に至る間に次々と一族に分知して金指近藤(5450石)、気賀近藤(3900石)、井伊谷近藤(5450石)、大谷近藤(2000石)、花平近藤が成立し、それぞれに陣屋が構えられた。五近藤と呼ばれるのはこのためである(各石高は最終石高)。

 この五近藤のなかでは花平近藤氏の采地が最も少なく320石余であったとされる。しかも秀用直系ではなく甥の用尹への分知であったためか伝えられるものも少なく、陣屋跡の所在も知ることが困難な状態であったのだ。

 その陣屋跡は国道257号引佐町井伊谷の上町バス停の交差点を東へ500mほどの山間にある。付近には数件の住宅があるが最も高い所にある住宅が陣屋跡である。その住宅の東側も段丘状になって石垣も見受けられた。家主の方にお話を伺うことができたが、言い伝えや遺構らしきものは分らないとのことであった。明治期には井平小学校の分校がここに建てられたと言われ、その際に遺構は消滅してしまったものと思われる。石垣も土止めのためのもののようで後年のものと思われた。

 帰路、五近藤のひとつ井伊谷近藤氏の陣屋跡を訪ねた。旧引佐町役場の近くで引佐図書館の東側が陣屋跡になる。団地風の建物が二棟建っている所がその跡地である。当然、遺構は完全に消滅してその片鱗すら見られない。

 1万5千石を拝領して井伊谷に入った近藤秀用はここに3年の歳月をかけて陣屋を築いた。秀用の四男用義が寛永8年(1631)に5450石を分知されて井伊谷近藤氏として自立した。陣屋に関する詳細は伝えられていないようだ。

 ところで、井伊谷陣屋は井伊城の三ノ丸に築かれていたのである。井伊城というのは井伊氏の居館のことである。陣屋跡のあった団地の東100mほどの所に公民館があり、そこに「井伊氏居館跡」の説明板が立っている。説明板の絵図によるとこの公民館の南側が二ノ丸跡、北側が本丸跡となっている。本丸は堀と土塁、石垣で囲まれている様子が描かれていた。

 井伊谷城を詰の城とし、平時はここの館を居所としていたと見られるが、井伊谷城そのものが戦国期に使われた、または改築されたという形跡がなさそうに思われる。山頂部を御所ノ丸と呼んでいるという資料もあり、南北朝の一時期に使用されただけではないだろうか。したがってこの場所を井伊氏居館と呼ぶよりは井伊城と呼んでもよさそうである。

↑花平陣屋跡。道路脇の坂を上が
った所に陣屋跡に建つ住宅がある
。坂道の右側山林部分が段丘状に
なっている。

↑井伊谷陣屋跡。

↑公民館前の説明板の絵図。「井
伊城御旧跡ノ図」とある。

↑井殿ノ塚。讒言によって今川氏
に討たれた井伊直満、直義兄弟の
塚。この場所は、かつての井伊城
本丸の北隅にあたる。
9月6日(土)晴/丸子城(静岡市)

 今日は出掛ける予定ではなかったが、快晴の青空を見たら無性に出掛けたくなった。時間は7時である。静岡の丸子城なら9時頃には登城開始できる。さっそく東名高速を東へと車を進めた。予定通り駿府匠宿の駐車場に到着。

 丸子城への登城口は3ヵ所あるが、最短距離で城址へ到達するために丸子稲荷神社から登ることにした。社殿右裏が登城口である。最短とあってほぼ直登に近いコースとなっているが、登山路はある程度整備されており、手すりが設置されている部分もあり、約10分足らずで城址主要部東端の外曲輪(駐屯地)に到着できた。

 すでに汗だくである。気温は高く、蒸し暑い。息を整えながらカメラのシャッターを切る。

 外曲輪の平坦な尾根道を進むと土橋があり、その右側にL字形の横堀がある。三日月堀と呼ばれているものだ。この土橋を渡ると大手曲輪である。右手北側に土塁跡が残る。続いて枡形虎口を経て北曲輪に出る。ここも北側に土塁が残っている。

 北曲輪から「く」の字に南側に折れて進む。横堀の向こうに出丸のような小さな堡塁が設けられているのが見える。堀切と土橋を経て二の曲輪に至る。二の曲輪と本曲輪の間は大堀切で断ち切られている。平時は架橋され、戦時には撤去されたことであろう。

 大堀切から本曲輪へ入る。虎口は枡形となっている。本曲輪は千畳敷とも呼ばれ、城内では最も広い削平面をもっている。

 丸子城への登城は2回目で、27年前に訪れている。その頃はかなり展望が開けていたが、今回は樹木が繁茂してあまり展望がきかなかった。

 丸子城の創築は今川氏によるとされているが、その詳細は分らない。確実なのは武田氏によって全面改築された山城であるということだけだ。北曲輪を今川氏時代の本丸と見る向きもあるが、確証はないらしい。廃城は天正十年(1582)と見られている。

 本曲輪から誓願寺方面への登山路を南へと下りた。こちら側の山麓に誓願寺がある。この寺に片桐且元の墓がある。彼は豊臣と徳川のパイプ約をつとめ、両家の衝突回避のために辛労を尽くして頑張ったが、報われることなく大坂城を去った。冬の陣後に駿府に屋敷を与えられたことから当地に墓が建てられたのであろう。

↑北曲輪

↑本曲輪虎口

↑南東方向から見た丸子城

↑誓願寺
8月14日(木)曇/竹中氏陣屋(岐阜県垂井町)

 今週は会社も夏休みに入ったので久しぶりに出掛けようと計画は練っていたのであるが、どうも天気の悪い日が続いている。

 それでも今日は関ヶ原方面日中晴れの予報(前日正午の時点で)が出ていたので出掛けてみることにした。予定では竹中半兵衛の菩提山城、その子重門の築いた竹中氏陣屋、半兵衛の墓がある禅幢寺そして関ヶ原まで足をのばして松尾山城へ登るつもりで出発した。

 連休の中日とあって高速道路の渋滞もなく8時頃には菩提山の麓に到着した。しかし雲が重く垂れこみ今にも降り出しそうな状態である。とても時間をかけて登山できるような状況ではない。登城はいずれと諦めて陣屋跡へ向かった。

 竹中氏陣屋は名軍師として名高い竹中半兵衛重治の嫡男重門が山城の菩提山城を廃して山麓の岩手(垂井町岩手)の地に城館を築いたのがはじまりだ。別に岩手城とも呼ばれるのはこのためなのだ。築城の時期はあまりはっきりしないようだ。秀吉の天下が固まり、次いで家康の天下となったが、この間のことであったとしか言いようがないようだ。関ヶ原の合戦で重門は黒田官兵衛の嫡男長政と同じ場所に布陣して戦いに臨んでいる。半兵衛と官兵衛は秀吉の軍師として名を上げ、二兵衛と並び称された。関ヶ原合戦ではこの二兵衛の息子たちが互いに力を合わせて戦ったことになる。戦後、重門は伊吹の山中で西軍の将小西行長を捕え、家康から感状を頂いている。その後、五千石の旗本として明治に至った。旗本とはいえ大名並みの格であったという。

 現在私たちが目にできるのは櫓門とその周辺の石垣と堀くらいであるが、なかなかどうして石垣など堂々たるものである。陣屋と呼ぶより城と呼んだほうがよさそうである。櫓門の前には「竹中半兵衛重治公之像」が建っている。少し微笑んでいるような柔和な表情が親近感を感じさせる。

 陣屋跡の前の通りを北へ400mほどの所に善幢寺という禅刹がある。竹中氏の菩提寺で播州三木の陣で病没した半兵衛重治の墓がここにあるのでお参りすることにした。

 ところで、空を見上げても天気の回復する兆しはなさそうである。山登りはあきらめて、関ヶ原資料館に寄って家路につくことにした。

↑竹中氏陣屋 櫓門

↑竹中半兵衛重治公之像

↑禅幢寺
6月21日(土)曇時々晴/足柄城深沢城葛山城長久保城(駿河東部)


 駿河東部、いわゆる駿東郡地域の城址を訪ねようと早朝から出掛けた。梅雨空が心配であったが、予報では午前中はもちそうである。東名を東へと車を進め、御殿場ICに到着したのは7時頃であった。


 最初の訪城先は足柄城である。御殿場ICから足柄街道と呼ばれる県道78号線を30分ほど進めば神奈川県との県境である足柄峠に到着する。この路は古来から東国へ至る街道として存在していたもので、関所も設けられていた。関東と呼ぶのはここから東のことをそう言うのである。

 戦国期、後北条氏が戦略上の要地としてここに城を整備したのは当然のことであった。城の創築は明確ではないが、応永年間(1394-1427)に小田原城の大森氏がここに城砦を構えたことにはじまるとも言われている。その後、後北条氏によって改修が加えられ、天正18年(1590)に豊臣秀吉の大軍を迎え撃つことになったのである。しかし、城将の依田大膳は徳川勢の猛攻に戦意を喪失したのか城を捨てて逃げてしまったのである。その後の経緯は御存知の通り、関東になだれ込んだ豊臣・徳川の大軍によって後北条氏の支城は次々と落とされ、ついに小田原城の後北条氏は滅んでしまったのである。

 城は街道を取り込んだ形で築かれているので現在でも県道が城址を分断したかたちとなっている。県道の西側である静岡県側に主郭をはじめとする城の主要部分が連郭式に展開しているが、県道の東側・神奈川県側にも曲輪が築かれている。また、主郭は富士山のビューポイントとして有名なようだが、今日はあいにくの曇天で富士山を見ることはできなかった。


 再び足柄街道を取って返し、御殿場市内に入ってすぐに深沢城がある。深沢城も後北条氏によって築かれた城で、駿河攻略を意図する武田氏との攻防が繰り返された城でもある。二度にわたる武田勢の攻撃によって落城、その後は武田氏の城として改修された。

 私たちが目にする城跡はその城の最終形態である。城址を訪れると武田氏特有の三日月堀が良好な形で残っており、私たちを戦国の昔に誘ってくれる。曲輪跡は田畑となっているが空堀や土橋は当時のままのようで、土塁も一部に残存している。


 再び御殿場ICから東名に乗り裾野ICで降りる。ちょうど東名と新東名に挟まれた裾野市葛山に葛山城がある。城の案内板などの「もののふの里」のキャッチフレーズが目を引く。

 葛山城主の葛山氏は鎌倉期以降駿東郡に勢力を張った豪族である。地理的関係から後北条氏と今川氏に両属するかたちで時代を乗り越えてきたが永禄11年(1568)に武田氏が駿河に進出を図ると武田氏に従った。一時、後北条氏に葛山城が奪われたこともあったが、再び武田領となって葛山城も改修を受けたものとみられる。葛山氏は信玄の六男を養子として迎えた後に謀反の嫌疑で滅ぼされてしまい、養子の信貞が葛山の名跡継いだ。天正10年(1582)、武田氏の滅亡により廃城となったと言われている。

 葛山城へ登城するには南麓の仙年寺から階段状に整備された坂路を登ると短時間で山頂部に行ける。ただし、山肌を直登する形となっているから一気に登るには相当の肺活量が要求されよう。私などは途中二度の小休止を余儀なくされてしまった。それでも、登りきるとそこは主郭の直下、東の堀切である。その東側(右手)にも堀切があり、武田特有の二重堀となっているのだ。西側(左手)に少し登ると主郭を取り巻く二の曲輪に出る。主郭への虎口は二の曲輪を迂回した西側に設けられており、そこから主郭へと上がる。主郭東側には土塁が残されている。主郭の西側にも二重の堀切が設けられていた。そして山肌にはこれまた武田特有の縦堀が幾筋も見られる。寺へ戻る坂段を降りながら振り返ると改めてこの城の雄大さを感じるのは私だけではないだろう。


 葛山から10分ほど車を南下させると長泉町である。ここに長久保城がある。長久保城は後北条氏が伊豆・駿河の国境に接する要地を押えることで築かれた城である。しかし、今川氏、武田氏との抗争のなかでその帰属が変転した。さらに武田氏が滅亡した天正10年(1582)以降は徳川氏の城となって修築が成された。

 現在、城域の大部分は学校や企業用地となって遺構の大半は失われているようだ。かつての本丸西側の南曲輪だけが神社の境内地となって土塁などの遺構を残しているにすぎない。神社は城山神社で、その一帯は城山神社公園として整備されている。社殿北側の八幡曲輪と呼ばれる部分には遊具や物見櫓風の建物が建っている。北から西側にかけて土塁が残っている。この曲輪と社殿のある南曲輪も土塁で区切られているように見える。南曲輪も西側が高くなっており、かつての土塁の跡と思われる。ちなみに、城址碑はかつての三ノ丸で現在は国道246号「城山」交差点の北側に建てられている。


 時間はちょうど昼時である。新東名の長泉沼津ICで高速に乗り、駿河湾沼津SAで名物の海鮮丼で昼食を済ませ、帰路についた。

↑足柄城 主郭

↑足柄城 登城口

↑深沢城 城址碑

↑深沢城 三日月堀

↑葛山城 主郭土塁

↑葛山城 縦堀

↑長久保城 八幡曲輪土塁

↑長久保城 城址碑
5月3日(土)晴/笠置城(京都府)、柳生城柳生陣屋柳生古城多聞城(奈良県)

 GWも後半に突入、高速道路の渋滞も今日からが本格的だ。いつもの相棒と共に高速を西へと向かった。いつものネック箇所では早朝から渋滞が始まっている。

 最初の目的地である笠置町に到着したのは9時、予定より1時間遅れであった。ここにある城とは言うまでもなく笠置城である。後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げた元弘の乱(1331)の舞台となった所である。

 まずは関西本線笠置駅へと向かう。この小さな駅の前に笠置城に関連するモニュメントが造られている。天皇方の総大将足助次郎重範が開戦の矢を射る姿と大力の本性坊が巨岩を敵兵に投げつけようとしている姿が人形で再現されているのだ。なかなかうまくできている。

 笠置城を今日の目的地にしたのは足助重範が遠く三河から馳せ参じて奮戦した城であるからだ。去年の夏、足助氏の古城跡である豊田市足助町の飯盛城を訪ねた際に、重範公が勤皇の志を抱いて笠置山に参じたことを知り、いつかは笠置城に、と思っていたのである。

 笠置山の山上には笠置寺がある。行けばわかるが巨岩がむき出た岩山であるから合戦ともなれば難攻不落の城塞に変貌したであろうことは容易に察せられる。笠置城と呼ばれるが城としての細工は柵を結う程度であったものと思われる。

 駅から車を笠置山へと進める。車で山頂近くまで行けて駐車場も完備されているのであるが、なんとも道幅が狭い。場所によってはすれ違い不可能なところが多いので注意と勇気が必要だ。

 駐車場から徒歩で笠置寺の山門を入り、山上の境内を一周する修行場めぐりの遊歩道へと歩みを進める。途中巨岩に彫られた磨崖仏に目をみはる。遊歩道とはいえかなりきつい場所もあるので駆け足でと言う訳にはいかない。

 この修行場めぐりコースの北端には「ゆるぎ石」と呼ばれる大岩がある。合戦に備えて置かれた大岩がそのまま使用されずに残っているのだと言われる。ここからの眺望はすばらしい。眼下に木津川が流れ、国見岳の新緑の連山が初夏の景色を見せている。続いて遊歩道は「二の丸あと」に至る。休憩の東屋が建っている。削平地ではあるが城として遺構なのかは分らない。後醍醐天皇の行在所を本丸と見立て、いつしかここを二の丸と呼ぶようになったと説明板にあった。

 この二の丸の南側高所が行在所跡である。一直線の長い階段が設けられている。行在所跡の前には天皇の御製の碑が建っていた。
「うかりける 身を秋風にさそわれて おもわぬ山の 紅葉をそ見る」
 天皇御自身の笠置山籠城は想定外であったのかも知れない。

 行在所跡から遊歩道を先に進むと元の出発点に戻り、一周したことになる。今日の天気は快晴で気温も夏日に近いため、すでに汗だくである。

 しばし車の中で休んだ後、府道4号を南下して奈良県に入った。県境を越えると県道4号となる。笠置から15分ほどで柳生に至る。次の訪城先は柳生城である。

 柳生町は剣豪の里・柳生の里として知られる所である。柳生城は新陰流を上泉伊勢守から伝えられた柳生石舟斎宗厳の城跡である。

 里の中程に観光者用の駐車場が確保されている。車をそこに停めて、まずは柳生家の菩提寺芳徳寺へ向かって高台へと脚を進める。寺の前には剣豪の里らしく正木坂道場がある。正確には柳生正木坂剣禅道場と言うようだ。

 この道場の東側が小高い山となっていて山中へと路が続いている。あまり人が通らないようで落ち葉に埋まってちょっとわかりずらくなっている。この路を登って行くと城跡である。柳生城だ。堀切や削平された曲輪跡を確認できる。城跡として整備されている訳ではないので登城には注意を要する。未経験者には危険かもしれない。

 再び道場前に戻り寺へと進む。山門前の西側に「石舟斎塁城址」の石碑が建っている。この石碑の付近は低くなってはいるが土塁の跡が見て取れる。ここも城域であったのだ。

 再び駐車場の位置に戻り、国道369号を渡って柳生陣屋跡へと向かう。将軍家兵法指南役となった石舟斎の子宗矩が柳生藩の藩庁として寛永19年(1642)に築いたものだ。現在は当時の建物跡を石組みで表現したのであろうか、公園として整備されている。公園内には「柳生陣屋跡」の碑とともに「柳生城跡」の碑も建っていた。

 さて、時間も昼近くなり、空腹を満たそうと駐車場近くの柳生茶屋に入り、名物の茶がゆ定食を頼んだ。茶がゆは赤米、黒米を使ったもので、見た目はぜんざいでも出て来たのかと思った位に黒い。さっそく口に入れると、まったく味気ない。茶の味がするだけだ。昔の人はこれで腹を満たしていたのか、と様々なことを思いながら、あっという間に平らげてしまった。腹五部といったところであろうか。これではすぐに腹が減りそうである。

 柳生の里にはもうひとつ城跡がある。柳生古城だ。里の北側に古城山とよばれている山がそれである。登山口は柳生バス停の所にある。ここから10分くらいで山頂に至る。途中、堀切が二ヵ所見受けられた。主郭には休憩の東屋が建てられている。主郭北端の土塁上には「剣塚」の碑が建っている。

 この古城は後醍醐天皇の笠置挙兵に呼応した柳生永珍が陣したと伝えられている。当時の城はまだ自然地形をそのまま活用するだけのものであったから、土塁や堀切は戦国期のものといえる。柳生永珍以後もこの城が維持され続けていたということになる。

 柳生三城の訪城を終え、国道369号(柳生街道)を奈良市街へと車を進めた。奈良公園の北側に多聞城がある。

 多聞城は梟雄松永久秀の築いた城で、安土城に先駆けて四重の天守を築き、豪華な御殿が建ち並んでいたと言われる。そして白壁の長屋状の櫓で曲輪を取り巻いた。多聞櫓の城郭用語はこの多聞城から発しているのだ。後に織田信長によって徹底的に破却されたようで、現在は学校用地となって遺構は全く見られない。学校の東側の道路が切通しとなっているが、かつての堀切の名残りであるようだ。

 校門前の城址碑と堀切跡の道路を撮影した後、私たちは久秀が焼き討ちしたという大仏殿に寄って行こうと奈良公園に車を向けた。公園に近づくと道路は渋滞、付近の駐車場はすべて満車である。GWの人出で公園付近はごった返している。やっと見つけた駐車場は公園からかなり離れていた。しかも料金は1,500円である。バカバカしくなって駐車場を素通り、帰路に付くことにした。

↑笠置駅前のモニュメント

↑ゆるぎ石

↑後醍醐天皇行在所

↑柳生城

↑柳生城の堀切

↑石舟斎塁城址の碑

↑柳生陣屋

↑柳生古城 主郭

↑多聞城
5月1日(木)曇時々晴/竹田城(朝来市)

 5時起床、5時半旅館発。旅館の玄関には懐中電灯が用意されていた。宿泊者のほとんどは竹田城の訪問者のようだ。夜明け前に出かける人たちのために用意されているのだ。無論、私たちには必要ない。すでに夜は明けている。

 旅館から竹田城の駐車場までは15分ほどである。5年ほど前に訪れた時には山上の大手門口まで車で行けたのであるが今ではマイカーが規制されて麓の専用駐車場でストップである。ここから山頂までは徒歩である。山上の石垣は見えるがかなりの距離がある。案内では40分とある。雲海は秋によく出ると言われ、その時期には駐車場は満車となり道路は渋滞するそうである。

 今朝は多少霞んではいるが麓から石垣が見えるので雲海の城跡を見ることはできない。それでも山上に築かれた石垣群は城好きならずとも一見の価値はある。いつもの名所めぐりのツァーと一味違う思い出に残る旅になるはずだ。山を登るといっても舗装された林道であるからそれほどきつくはない。それにしても40分の歩きは慣れない人には辛いかもしれない。歩きはじめはお喋りの絶えなかった娘たちも口数が少なくなる頃、城跡に到着した。

 雲海というには程遠いが薄らとした雲が眼下を流れるにように動いている。そして山上に築かれた石垣群、普通の旅行では体験できない風景のはずだ。娘たちも満足げである。

 竹田城は山名氏家臣太田垣氏によって築かれたが天正期(1573-92)に豊臣秀吉の支配するところとなり、再興赤松氏に与えられた城である。石垣はこの豊臣時代に築かれたものだ。赤松氏は関ヶ原で西軍に付いたため切腹して果てた。竹田城も同時に廃城となったようだ。

 旅館に戻ったのは8時少し前であった。朝食を済ませてチェックアウト。帰路についた。

↑竹田城
↑娘1と2

↑娘3
4月30日(水)曇時々晴/明石城(明石市)

 今日からゴールデンウィークだ。還暦を迎えた私のために旅行に出かけようということにり、私にとっては再訪であるが、娘たちからの「竹田城」(兵庫県朝来市)に行こうということで今回の一泊旅行となったしだいである。私が城好きであることを配慮しての提案だったのかも知れないが、「天空の城」「日本のマチュピチュ」というキャッチフレーズの浸透で城好きならずとも旅行の目的地として一般に定着しているようだ。こうした宣伝の効果は大きく、ここ数年の訪問者はかなり多いらしい。

 朝6時、娘三人(一人は家内)を引き連れて出発。ゴールデンウィークとはいえ今日は平日のため高速道路に渋滞の情報は出ていない。竹田城への登城は明日早朝の予定で、今日は途中寄り路をしながら竹田城近くの旅館へ向かうことにしている。

 10時半、神戸の生田神社にお参りした後12時頃には明石城に到着した。城跡散策を始める前に、まずは腹ごしらえということで駅前の魚の棚商店街へ向かった。ここは明石の海の幸の商店街といえる。さっそく海鮮丼で腹を満たし、続いて明石焼きだ。おまけに商店街で買わされたタコの煮つけをたべさせられて満腹状態だ。

 さあ、いよいよ明石城だ。城域は県立明石公園として整備されている。公園入口の太鼓門跡の虎口を入ると三の丸の広場である。正面には白漆喰の土塀で繋がった二基の現存三重櫓がお出迎えだ。江戸期の優雅さを漂わせている。向かって右が巽(たつみ)櫓、左が坤(ひつじさる)櫓である。

 巽櫓の方から石段を上って二ノ丸へ踏み入る。そして本丸である。巽櫓が間近にある。櫓は裏側より石垣上の姿の方が輝いて見える。白い土塀の向こうには坤櫓が見える。白い土塀の中間に土塀と同じ高さで造られた展望台がある。ここからは淡路島と明石海峡大橋が望見できる。海峡を監視する戦略的な役割を果たしていたことが理解できよう。坤櫓の北側に天守台がある。天守閣はついに築かれることはなかったが、広さから見るとかなり立派な天守閣が築かれたのではないかと思われる。その代り、坤櫓が天守代わりであったとも言われ、美しくしかも威厳を漂わせて明石の街を見下ろしている。

 明石城は元和5年(1619)に二代将軍徳川秀忠の命を受けて明石藩主となった小笠原忠真と義父である姫路城主の本多忠政が協力して築城が始まった。姫路城同様西国の押えということで幕府肝いりで進められ、銀1千貫が支給されたという。

 さて、ここから宿に直行するにはまだ時間が早い。ということで「姫路城に行こうよ」の娘の一言で車をそちらに向けた。

 姫路城は御存知のように大天守が改修工事のために素屋根に覆われてその雄姿を見ることはできない。現在は天守工事も終わって素屋根の撤去作業が行われている。来年(2015)3月リニューアルオープンということである。

 私たちは今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の大河ドラマ館へ入館した。細君の大好きな岡田准一が主役とあってわが家の娘たちは私以上に熱心に展示物や映像に見入っていた。

 ドラマ館を出て時計を見ると16時過ぎだ。頃合いもよし、和田山の旅館へと向かった。

↑明石城

↑巽櫓

↑坤櫓

↑姫路城

↑軍師官兵衛大河ドラマ館
3月15日(土)晴/長久手古戦場長久手城岩作城(長久手市)

 久しぶりの訪城となった今日は長久手合戦関連の史跡・城跡めぐりに出かけた。天気も上々、日頃の多忙も忘れて夜明けとともに勇躍トモ坊と尾張へと向かった。


 長久手市内には天正12年(1584)の長久手合戦に関連した史跡が整備されている。その数は十指に余り、文化財として保護されている。ただ、合戦史跡であるためにそのほとんどは遺構というより石碑であることは致し方ない。


 この合戦は羽柴秀吉と徳川家康が尾張を舞台に対陣して各所で戦いが起きたなかの一つの戦闘であるが、家康自らが陣頭に立って羽柴勢の作戦目的である「岡崎中入り」を完全に破砕した戦いであり、その後の豊臣天下における家康の立場を揺るぎないものにした一戦であったといえる。そうしたことから現在では「小牧・長久手の戦い」と表記されることが多い。


 まずは名古屋ICを降りて長久手市西部へと車を進め、荒田へと向かった。時間は7時半である。休日の市街地は閑散としているので路駐も短時間なら気兼ねせずにすむ。



 荒田には市指定史跡「木下勘解由塚」がある。木下勘解由左衛門は荒田の北、白山林で徳川勢の奇襲を受け、徒歩でここまで敗走してきた羽柴秀次に自分の馬を与えて逃れさせた後、追いかけてきた敵と戦って討死した。当地はその戦死地とされている所である。



 ここから東南東1.2kmに桧ヶ根公園がある。ここに市指定史跡「堀久太郎秀政本陣地跡」がある。生垣に囲まれた中に石碑がポツンとあるのみだが、地形的には見晴らしが良いと思われた。堀秀政は中入り軍の軍監として一隊を率いていた。秀次勢の敗走を知った秀政はここに布陣して徳川勢の来襲に備え、見事にこれを撃ち破った。しかし、家康本隊が背後の御旗山に進出したのを見て退却してしまったのである。



 その御旗山は堀秀政本陣地跡から南東450mの位置にある。御旗山は家康が色金山から前進布陣した所で現在は国指定史跡となっている。ここに布陣した家康が金扇の馬標を立てたことから御旗山と呼ばれるようになったものと思われる。



 御旗山に前進する前に家康が本陣を置いた色金山も国指定史跡となって整備されている。御旗山の北東1.4kmの所である。車では数分の距離である。まだ9時前であったため、入園できなかったのですぐ近くの「長久手古戦場・首塚」に向かった。



 この首塚も国指定史跡となっている。合戦で討死した屍を集めて埋葬した場所である。合戦の日である4月9日には毎年法要が営まれている。近所の方によれば今年は合戦後430年の節目ということで例年より盛大に行われるそうだ。



 首塚の西300mには長久手市役所がある。庁舎前に「岩作城址」の碑が建っている。岩作は「やざこ」と読む。城主の今井氏は家康に属して当合戦時には丹羽氏の岩崎城に参じて討死したという。現在は石碑が建つのみで遺構は残っていない。



 岩作城の南西1.4kmに常照寺がある。ここには合戦史跡に数えられる「三将之墓所」がある。三将というのは討死した羽柴方の武将である池田勝入恒興、その嫡男元助、森長可の三将である。本堂の裏に小さな墓塔が三基並んでいた。






 時間は9時、再び色金山へと車を返す。家康が羽柴勢を分断すべく迂回機動して陣取った場所である。山頂には家康が腰掛けて軍議を開いたという床机石が残っている。また木造の展望台が設けられており、砦風の櫓が建てられている。ここからは長久手市内が一望でき、合戦当時には羽柴勢の状況を把握するには恰好の場所であったことが分かる。






 色金山の南西1.7kmに市指定史跡「長久手城址」がある。戦国期、加藤忠景が城主であった。忠景は岩崎城の丹羽氏と姻戚となり、合戦当時は城代補佐役として岩崎城に籠城、池田勢との戦いで討死した。現在は城址碑が建つのみで遺構はない。城跡には観音堂が建ち、小さな広場となっている。







 城址の南東150mには血の池公園がある。戦闘の後、徳川勢の渡辺半蔵らが槍や刀の血を洗い流した池ということでこの名が付いた。現在は広場となって池ではなくなっている。付近には武将たちが刀槍を洗う際に鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」がある。現在の松は4代目ということである。








 公園の南東300mに国指定史跡「武蔵塚」がある。森武蔵守長可の討死した場所ということでこの名がある。長可は眉間を鉄砲で撃たれて討死したと言われている。











 武蔵塚の西300mには古戦場公園がある。ここには郷土資料室が建てられ、合戦関係の展示物がある。公園内には「勝入塚」と「庄九郎塚」があり、それぞれ石碑が建てられている。前者は池田恒興、後者は池田元助の戦死場所と伝えられている所である。徳川勢と羽柴勢が激突して最も激しく戦われた地域がこの辺であったようだ。








 古戦場めぐりをする際にはここの資料室で文化財マップを貰ってから散策するのもいいだろう。また、ここには小牧・長久手の戦いを劇画で表現した冊子も販売されている。合戦とそれに至る経緯が解りやすく描かれているので一読するのも良いかもしれない。

↑木下勘解由塚

↑堀久太郎秀政本陣地跡

↑御旗山

↑首塚

↑岩作城

↑三将之墓

↑色金山

↑長久手城

↑鎧掛けの松

↑武蔵塚

↑勝入塚

↑庄九郎塚
1月2日(木)晴時々曇/長島城亀山城神戸城峯城菰野城千種城羽津城桑名城(三重県)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 2014年、年頭の城めぐりは三重県北部、つまり北伊勢の諸城を一気に攻略しようと出掛けたしだいである。

 出発は得意の早駆けで早朝、というより夜明け前なので未明5時発。交通量の少ない高速道路を快調に進めて、まずは伊勢湾岸道の湾岸長島ICから長島城へと向かった。

 長島城は戦国時代に織田信長に対抗した一向一揆の拠点となり、終には信長によって2万人以上が殺されて壊滅したことで知られる。その後は滝川一益、織田信雄が城主となり、江戸期には菅沼氏、久松松平氏そして増山氏が2万石で封ぜられて明治に至った。
 現在、本丸跡には長島中部小学校が建ち遺構は消滅してしまったが堀の役目も担っていた水路は旧来の位置にあるようだ。ここから北東250mほどの蓮生寺には城の大手門が山門として移築され残っている。また、東550mほどの願證寺には「長島一向一揆殉教之碑」が建っている。

 長島城の訪城を済ませて東名阪道を亀山へと向かう。目標は亀山城で、約50kmの移動だ。この後の予定は亀山から主要な城を訪ねつつ桑名へと戻るかたちで進める。
 亀山城到着、8時半。お正月とはいえ、市街地の朝はまだ寝静まっているように静かだ。車も人も少ない。まずは本丸跡に建つ亀山神社に詣でて今年一年の武運(訪城攻略)を祈願した。
 この亀山神社の隣に本丸多聞櫓と石垣が残されている。石垣は往時のままで南面と東面から見上げる石垣は壮観である。多聞櫓も平成の大修理によって江戸期の姿に復元され、以前の黒い板壁の櫓と違って白漆喰による白亜の壁が朝の陽を浴びてまぶしく輝いていた。また、本丸の北側には二ノ丸北帯曲輪が復元整備されている。
 亀山城の創築は鎌倉期に遡り、伊勢平氏の関氏の居城としてその後続いた。戦国期には豊臣家臣蒲生氏郷麾下となって各地を転戦、氏郷会津転封となると関氏も亀山を離れた。関ヶ原後、関氏が初代藩主として旧領亀山に復帰したが10年ほどで転封となり、その後は三宅氏、本多氏、大給松平氏、板倉氏、石川氏といった譜代大名が封じられて明治に至った。

 次に亀山市から鈴鹿市へと車を向ける。東へ約12kmほどである。訪城先は神戸城である。読みは「かんべ」である。
 現在の神戸城は本丸部分だけが残され、天守台石垣、土塁、堀などの遺構を見ることができる。織田信孝が城主の時に金箔瓦を用いた五重の天守閣が築かれたと言われるが、文禄4年(1595)に桑名城へ移されたという。以後、天守閣は築かれてはいない。なお、城跡の南東1kmほどの蓮華寺には太鼓櫓が移築されている。
 神戸氏は亀山城の関氏一族で南北朝期に分家して神戸郷を領したことに始まる。神戸城は関氏四代具盛が新たな居城として戦国期の天文(1532-55)の頃に築いたものである。その後、織田信孝を養子に迎えて織田信長に属した。関ヶ原後は神戸藩となり、一柳氏、石川氏と城主が替わり、享保17年(1732)以後は本多氏が7代続いて明治に至った。

 神戸城から西へと車を向け、12kmほど走った所に峯城がある。亀山JCTの近くである。
 峯城を築いた峯氏もまた関氏一族で南北朝期に当地に分家したとされる。戦国期の天正2年(1574)の長島真合戦で当主峯盛祐が討死して峯氏は没落、城は織田信孝家臣岡本下野守に与えられた。天正11年(1583)、滝川一益方の攻撃を受けて落城。一益の甥益重が三千の兵とともに入城して防備を固め、羽柴秀吉率いる三万の大軍の包囲戦に臨んだ。籠城数十日、矢玉尽きてついに開城するに至った。翌年の小牧・長久手合戦の前哨戦として蒲生氏郷の攻撃を受けて再び落城。その後、廃城となったとされる。
 城跡は未だ未整備の状態にあるので訪城するには山城踏査に近い装備で臨んだほうがよいだろう。無論、低い山城なので時間はかからない。城址南端の説明板の所から西側山裾を200mほど歩くと峯城址の標柱と本丸入口の案内板が立っている。ここから登って行くとすぐに本丸曲輪に出る。途中、いたる所で木の根付近が掘り起こされたようになっている。猪が夜間に活動した痕跡なのだ。本丸曲輪の西側に残る土塁上を北へと進むと伝天守台という場所に出る。土の城であるから天守台といっても土塁の幅が広くなって土壇状になっているだけである。城跡には竹も沢山植えられており、風に吹かれて騒ぐ竹林が時折コーンと音を鳴らしている。誰かに見られているような気になって、情けないが長居は無用と怖くなって退散してしまった。

 さて、気を取り直して菰野町へと車を進めた。峯城から約16km、国道306と477の交差点近くに菰野城跡がある。
 現在の菰野城跡には菰野小学校が建ち、石碑が小学校南側に建てられ、北西側には土塁と堀の跡が保存されている。
 菰野城は土方氏の陣屋・藩庁として関ヶ原後に立藩して明治に至るまで移封されることのなかった。また、年貢取立ても厳しくなく一揆が無かったという珍しい藩でもある。明治元年(1868)には藩主が公家の姫を娶るにあたり堀を整備して二重の櫓まで建てて城の体裁を整えたという。

 菰野城の北西5kmの所に南朝の忠臣千種氏の築いた千種城がある。
 千種城を築いたのは千種顕経で、父の忠顕は隠岐に流されていた後醍醐天皇を迎えて船上山に挙兵したことで知られる。忠顕は足利尊氏と近江坂本に戦って討死したが子孫は当地に勢力を張り、北勢地方の郷士を束ねる旗頭であったという。戦国期には織田・豊臣の勢力に翻弄されながらも生き続け、大坂の陣で豊臣方に付いたことにより城主が討死して千種城は廃城となった。
 現在は本丸に大きな城址碑が建ち、周囲には土塁跡が廻っている。本丸東側には土橋と堀跡が見られる。

 今度は四日市市街の方向へと車を進める。近鉄阿倉川駅の北東近くに羽津城山公園がある。
 羽津城は藤原秀郷の末裔赤堀氏の築いた城である。赤堀氏は応永年間(1394-1428)に関東から当地へ移ったもので築城したのは盛宗とされる。その後6代続いて近宗の時、元亀3年(1572)に織田信長に滅ぼされた。
 現在は本丸部分が近鉄線に分断されながらも公園となって残っている。公園内にはわずかに土塁の痕跡がうかがえる。

 ここから桑名市へと移動する。本日最後の目的地だ。揖斐川河口に面した桑名城である。東海道七里の渡しで有名な所である。
 桑名城の始まりは鎌倉初期の文治2年(1186)にまでさかのぼり、桑名三郎行綱の創築とされる。戦国期には滝川一益の領するところとなり、後には氏家氏が二万二千石で入った。関ヶ原後は本多忠勝が十万石の大名として入城し、城も城下町も大きく改修された。その後は久松松平氏、奥平氏と替わり、再び久松松平氏が城主となって明治に至った。
 現在は九華公園となって整備されている。三ノ丸跡には水門管理所として外観復元された二重の蟠龍櫓が建っている。本丸には鎮国守国神社が建ち、東隅には天守台石垣が残されている。また本丸の南側の内堀に面して神戸櫓台、辰巳櫓台の跡が残されている。そして駐車場前には鹿角の兜を被った本多忠勝の像がでんと構えていた。

 時間は午後3時を回っている。東名の岡崎付近では30km2時間以上の渋滞情報が入っていた。まともにこの渋滞に突入してはたまったものではない。伊勢湾岸道から知多道を南下して西尾へ出て蒲郡、豊橋を経由して浜松へと戻った。

↑長島城

↑亀山城

↑神戸城

↑峯城

↑菰野城

↑千種城

↑羽津城

↑桑名城

↑本多忠勝像