久居陣屋
(ひさいじんや)

            三重県津市久居西鷹跡町         


▲久居陣屋は津藩の支藩として成立した久居藩の藩庁であった。当初は総構を持ち石
垣造りの御殿が計画されたが幕府に認められず、質素なものとなったという経緯がある。
(写真・御殿域内の高通児童公園と久居中学校。)

許されなかった久居城

 寛文九年(1669)九月、津藩(津城)二代藩主藤堂高次は自身の隠居と支藩立藩を幕府に願い出て許可された。この支藩というのが当地に陣屋を構えた久居藩である。支藩は他藩にもみられるように世嗣断絶による改易を防ぐための分家で、本藩に世継ぎの無い場合は分家である支藩から世嗣を得ることができるというものである。

 幕命により津本藩は高次の長男高久が継ぎ、次男佐渡守高通が五万石を分知されて支藩立藩を許された。家格は城主格大名であったが築城までの許しは出なかった。

 寛文十年(1670)一月、藤堂高通は家臣植木由右衛門長春を築塁の奉行に任じ、野辺野南端の高台を居館地とする縄張作成を命じた。

 植木由右衛門(よしうえもん)は山鹿素行や北条氏長らと共に小幡景憲から甲州流兵学を学んだと言われ、寛文二年(1662)から高通に軍学を進講していた。その由右衛門が構想したとされる縄張図を見ると南面の崖以外の三面を堀と土居で城下全体を囲む総構を設け、大手口の東面には堀と土居を三角形に突出させて外敵への横矢を可能としている。東の大手門と北の搦手門の外側には甲州流の丸馬出しが描かれ、小幡門下の由右衛門らしさがうかがえる。そして御殿周りは石垣で固められている。

 しかし、由右衛門の構想した縄張図は戦時城郭そのものであったから幕府がこれを許す訳がなく、結局は堀や土居、石垣、櫓などは建設されることはなかった。約二百件の武家屋敷や約五百件の町屋が整備されたがほとんどが草葺屋根であったと言われ、御殿も板葺の質素なものとなった。

 寛文十一年(1671)七月、藩主高通は完成した御殿で諸士を引見、ここに久居藩が成立した。久居とは永久に鎮居する意を表したものである。庶民は親しみを込めて久居の藤堂家を「小藤堂」と呼んだという。

 元禄十年(1697)、高通に嗣子無く、弟の高堅が継いで五万三千石となり、以後久居藩は十六代続いて明治に至る。

 弘化四年(1847)七月、御殿が火災により全焼し、板葺から百七十余年にして瓦葺にて再建された。

 安政二年(1855)、異国船出没で世情が騒然となるなか、久居藩では壮士隊が編成されて軍事訓練が始まった。

 文久三年(1863)には土豪層を郷士に取り立てた無足人を集めて津本藩と共に天誅組討伐に出兵した。

 その後も本藩と共に行動し、鳥羽伏見の戦いでは官軍側に付き、引き続き東北へ転戦を続けた。


▲久居誕生(藤堂高通入府)250年記念の「御殿山の記念碑」(大正10年/1921建)。
▲御殿域の南端部の一部が公園となっており、初代藩主の名をとって「高通児童公園」と名付けられている。
▲藤堂高通公生誕350年記念句碑。フェンスの向こう側は崖となっている。

▲公園の西側のグランド。かつてはこの周囲には土居が廻っていた。

▲グランドの北側に残る水路。かつての堀跡であるが、城郭ではないので「溝」と呼ばれていた。

▲公園の入り口に立つ説明板。

▲説明板の御殿部分。御殿の建っていた地域は宅地となって住宅が建ち並んでいる。
----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「藤堂藩のお殿さま」他

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