長久手古戦場
(ながくてこせんじょう)

国指定史跡(御旗山、首塚、色金山)、市指定史跡(長久手城址、木下勘解由塚、堀秀政本陣地趾)

            愛知県長久手市武蔵塚、他         


▲長久手合戦は小牧の陣の膠着状態を打開するために羽柴秀吉方が徳川家康の
本拠地岡崎を衝くために出陣させた「中入り」軍を家康軍が追撃、これを壊滅
させた戦いである。将来、家康が天下を取るための足固めとなっ戦いでもある。
(写真・長久手市古戦場公園の古戦場碑)

野戦の家康、秀吉軍を壊滅

 天正十二年(1584)三月七日、徳川家康は浜松城を出陣した。羽柴秀吉に敵対した織田信雄を援けるためである。

 一万五千の軍勢を率いた家康は十三日に清州城に入った。この日、秀吉方の池田恒興が犬山城を占拠した。十五日、家康は小牧山城に進出して秀吉方の動きに対応した。十七日早朝、羽黒(羽黒城)に進出した秀吉方の森長可隊を酒井忠次、榊原康政の隊が襲って敗走させた(羽黒の戦い)。その後、小牧山城に陣取った家康は城を修築すると共に周辺に土塁や砦を構築して秀吉本隊の来襲に備えた。

 一方の秀吉は二十七日に犬山城に到着、二十九日には楽田(楽田城)に進出して本陣を置き、前線には約3kmにおよぶ土塁線を構築した。

 その後は両軍にらみ合いのまま膠着状態が続いた。兵力は秀吉勢七万に対し家康方は信雄勢を合わせても三万五千程度で秀吉方の半数であった。兵力に勝る秀吉方ではこの膠着状態を打開するために家康の根拠地岡崎(岡崎城)を衝こうとする「中入り」計画が持ち上がっていた。はじめ秀吉はこの池田恒興らのこの計画に反対であったと言われているが、近年ではその中入り軍の規模や編成などから秀吉自身が積極的に介入していたものと思われている。

 四月六日夜半、楽田に展開していた秀吉軍のうち二万の軍勢が動き出した。池田恒興、池田元助、池田輝政の第一陣六千人、森長可、遠藤慶隆、関成政の第二陣三千人、堀秀政、堀直政、多賀秀種の第三陣三千人、第四陣は総大将羽柴秀次と田中吉政、長谷川秀一ら八千人の軍勢であった。

 この「中入り」軍は七日昼近くに楽田から約9km南下した篠木(春日井市)、柏井(同市)に到着、この日は当地に宿営となった。家康の小牧山の南東約7kmの位置である。隠密奇襲の行動が必須の「中入り」作戦であるが、この辺の地侍の掌握に手間取ったようで、進撃が再開されたのは翌八日の夜になってからである。

 一方の小牧山の家康は七日昼過ぎには篠木、柏井の住人から秀吉軍着陣の報告を受け、直ちに確認の斥候を放った。八日朝には秀吉軍が岡崎襲撃を目的としているとの情報まで家康の耳に達していた。家康は秀吉の「中入り」軍を追撃して撃滅することを決し、酒井忠次、石川数正、本多忠勝ら五千の兵を小牧山に残して丹羽氏次(岩崎城主)を道案内とする榊原康政、水野忠重、大須賀康高ら四千五百の先発隊と家康みずから率いる井伊直政、織田信雄ら九千三百の本隊を編成した。

 徳川軍は日が暮れると先発隊が秘かに出撃、時間をおいて家康本隊も小牧山を静かに出陣した。味方にも気付かれぬ程に静かであったと言われている。先発隊は一挙に10kmほど南下して小幡城(守山区西城)に入った。秀吉の「中入り」軍の宿営する篠木の南南西約4kmの位置であるから、すでに追い越したかたちになっている。家康が小幡城に入ったのは九日に日付が変わる頃(0:00頃)であった。

 徳川の先発隊が小幡城に入った頃、「中入り」軍の第一陣池田恒興隊が南進を開始し、その後を各陣が順次移動を開始した。夜間行軍を続けて九日未明(4:00頃)には第一陣の池田隊は岩崎城(日進市)付近に達し、最後尾の秀次隊は白山林(守山区森孝)で朝餉の準備に取りかかった。第一陣と秀次の第四陣までの距離は6kmに伸びていたことになる。特に秀次隊の無警戒ぶりからも徳川勢の動きはまったく察知されていなかったといえる。

 さて家康が到着した小幡城では先発隊が最後尾の秀次隊を左右から攻撃し、家康本隊は敵の先頭を攻撃することが決せられて丑の刻(2:00頃)には行動を開始していた。

 ▲犬山城。
▲小牧山城。

▲楽田城。

 東の空が白々と明ける頃(4:00過ぎ)、秀次隊の右側から先発隊の大須賀康高隊、丹羽氏次隊が攻撃を開始した。不意を襲われた秀次隊は混乱状態となり、さらに榊原康政隊が背後を衝いてきたために総崩れとなってしまった(白山林の戦い)。秀次は田中吉政を呼んで前陣の堀秀政と池田恒興に報告のために走らせ、自らは陣を立て直すために南下して香流(かなれ)川を渡り、細ヶ根(長久手市原山・荒田付近か)に陣取った。ここで秀次の馬が逃げたため通りかかった可児才蔵に馬を貸せと命じたが断られたという。それにしても徳川先発隊の追撃は激しく、秀次は細ヶ根に止まることが出来ずについに家臣吉田久左衛門勝忠と兵数人に守られて戦場を離脱、犬山に遁走したという。細ヶ根を離れる際、配下の木下勘解由利匡が馬を秀次に与え、兄弟の助左衛門祐久とともに秀次の馬印を立てて踏みとどまり、討死した。

 ちょうど、秀次隊が白山林から細ヶ根に敗走していた頃、先頭を進んで岩崎城付近にいた第一陣の池田隊にも異変が起きていた。岩崎城は徳川方の丹羽氏次の居城である。氏次自身は手勢を率いて小牧の陣に出陣しており、この時点では徳川先発隊の先導役として秀次隊の攻撃に参加していた。したがって城主留守の城を預かっていたのは氏次の弟氏重であった。三百余人を率いて城を固めていた氏重は城下を素通りしようとする一隊が秀吉方の池田隊であることを知るとこれを阻止するために城門を開いて出撃、弓矢を射て鉄砲を放った。

 岩崎城からの不意の挑発を受けた池田隊であったが指揮を執る恒興は大事の前の小事とて軍を岡崎へ進めようとしていた。ところが、長男之助や後に続く森長可から「攻め落とすべし」の進言の使者が恒興のもとに来ていたのである。岩崎城兵の挑発に憤慨した之助や長可からの使者は三度に及んだため恒興もついに攻城に踏み切った(攻城に至る経緯には諸説あり)。恒興は重臣伊木清兵衛忠次を岩崎城の大手口へ、同じく片桐半右衛門俊忠を搦手口に向かわせて一息に攻め潰した。三十対一の戦いであったから一時間ほどで戦いは終わり、休憩と首実検を行った。首級は二百余と言われるから岩崎城兵はほぼ全滅したことになる。

 ▲木下勘解由塚。
▲岩崎城。

▲岩崎城の城代・丹羽氏重の像。

 「中入り」軍の中間を進軍していた堀秀政の第三陣は未明に金萩原(長久手市金萩付近)に到着して休憩をとっていた。金萩原は岩崎城の北北東約2km、秀次隊の白山林からは南東方向に約4.5kmの位置にある。第一陣から堀隊の第三陣までは間合いを詰めて進軍しており、秀次の第四陣のみがやや遅れて進軍していたようだ。この時、休憩中の秀政の耳に後方から銃声が聞こえた。不審に思った秀政は物見を放って確認を急がせた。

 秀次隊が総崩れとなり、池田・森隊が岩崎城に攻めかかっている頃(5:00頃)、家康本隊は長久手村・岩作村の北方を迂回して色金山(色ヶ根)とその周辺に達していた。家康は色金山山頂に上がり、戦況を俯瞰しつつ軍議をめぐらした。

 金萩原の秀政は物見の報告を受け、秀次隊が徳川勢の攻撃を受けて混乱状態にあることを知った。第一陣と第二陣の池田、森隊は岩崎城攻めに取り掛かっている。秀政は秀次隊救援のために単独で反転を決意し、桧ヶ根(長久手市坊の後)の高地に向かった。途中、秀次の命を受けた田中吉政が秀政に秀次隊敗走の報せをもたらしてきた。秀政は桧ヶ根に陣取ると秀次隊を破った徳川勢の追撃に備えて迎撃の態勢を整えた(6:00頃)。この時、東北東約1.5kmの色金山に家康の馬印が見えていたはずである。

 岩崎城を攻め落として首実検をしていた池田、森隊は堀秀政からの報せで徳川勢の攻撃を知ると好機到来とばかりに休憩を切り上げて反転移動を開始した(6:30頃)。

 白山林と細ヶ根で秀次隊を潰走させた徳川先発隊は勢いに任せて桧ヶ根近くに達した(7:00頃)。この頃になると未明からの戦闘で先発隊将士の疲労も重なり、隊伍も乱れていたという。それでも先陣を争うように先発隊の榊原、大須賀、水野、岡部、丹羽の諸隊は桧ヶ根に突進した。

 桧ヶ根に満を持して迎撃の態勢を取っていた堀隊は迫りくる徳川勢に向かって鉄砲を一斉に撃ち込み、地の利を得た戦いで榊原隊と大須賀隊を撃退、敗走する徳川勢の追撃戦に移った。戦上手の堀秀政の鮮やかな勝利であった。秀政自身も手勢を率いて榊原隊を追い、岩作に出ていた。

 色金山で桧ヶ根方面の戦闘を俯瞰していた家康は堀隊と池田、森隊の合流するのを阻止すべく富士ヶ根(御旗山)に向かって軍を進めた。これで堀隊は孤立することになる(7:30頃)。

 岩作付近で徳川勢追撃の指揮を執っていた堀秀政は色金山から徳川本隊が背後に回り込み、富士ヶ根に家康本陣の馬印の上がるのを見て背筋が凍ってしまった。勝ち戦もつかの間、こうなっては自滅するか戦場を離脱するかのどちらかしか道はなくなってしまった。すでに大将の秀次は犬山に向けて離脱したという。秀政は家康の出陣と現戦況を池田恒興と森長可に伝える使者を走らせると、兵をまとめて戦場を離れた(8:00頃)。

 堀隊の撤収を見届けた富士ヶ根の家康は池田、森隊との決戦に備えて富士ヶ根南の前山に本陣を移し、その東側の仏ヶ根にかけて本隊(九千三百人)を展開させた。先発隊の諸隊(二千五百人)も富士ヶ根付近に集結して布陣を終えた(8:30頃)。

 岩崎城から取って返した池田、森の諸隊は前方に徳川勢が布陣する様子を見て山越(長久手市山越)付近の高地に展開して陣形を整えた。池田恒興の本陣二千人(山越)を中心にして右前方に池田之助、輝政の隊四千人、左前方に森長可隊三千人の陣容であった(9:00頃)。すでに秀次隊の壊滅と堀隊の撤退の報せを受け、さらには地形的にも家康方に有利な地を取られていた恒興は苦戦を覚悟したであろうが、兵力的には互角である。ここで家康の首を取れば岡崎なんぞには用はないのである(9:00頃)。


▲色金山歴史公園。
 色金山に布陣した家康は眼下で善戦する秀吉方の堀秀政隊と先陣の池田恒興、森長可の隊が合流するのを防ぐために自ら率いる本隊を前進させた。

▲御旗山。
 色金山を出撃した家康は堀秀政隊の背後に突出して富士ヶ根の頂きに金扇の馬印を立てたのである。
 富士ヶ根は後年、御旗山と呼ばれるようになり、現在では国の史跡に指定されている。
 ▲色金山歴史公園。
▲色金山の床机石。家康が戦場を俯瞰して軍議を開いた。

▲桧ヶ根の堀久太郎秀政本陣地跡。

 前山の高所に陣取った家康は池田、森隊の布陣する様子を俯瞰しつつ諸隊に向け矢継ぎ早に指示を出していた(9:30頃)。戦機到来と判断した家康は直ちに戦闘開始の下知を諸隊に下した(10:00頃)。猛烈な勢いで突進する徳川勢はたちまち森長可隊と池田之助隊の第一線を撃破し、仏ヶ根から突進した井伊直政、奥平信昌の隊は池田之助、輝政隊と激しくぶつかり合った。

 山越の本陣地の池田恒興は右翼の之助、輝政隊が苦戦しているのを見て黒母衣衆二、三十人を応援に走らせたが井伊の鉄砲隊によって壊滅させられてしまった。左翼の森長可は右翼の戦闘を注視しつつも正面の家康の動きに応ずるために動かずにいた。

 前山の家康は井伊・奥平隊が池田之助隊と激しくぶつかり合っているのを見て榊原康政、大須賀康高らの隊を応援に投入すると自らも本隊を率いて森長可隊の前面に馬印を進め、激しく攻め立てた。

 家康自身が前に出てきたのを見た森長可はここぞとばかりに激しく突進して家康本隊にぶつかった。長可自身も家康本陣を突こうと鬼神の如く駆け込んだ。長可は白絹の袖無し羽織のいでたちであったというから遠目にも目立った。ついに一発の鉄砲玉が長可の眉間を打ち抜いた。即死である(12:00頃)。

 森長可が討たれたことで森隊が敗走に転じたのを機に予備隊として控えていた織田信雄隊三千が追撃に加わった。この頃になると各戦線では徳川勢の優勢が目立つようになり、池田恒興の本隊も陣形が崩されつつあった。

 左翼の森隊が崩れ、池田恒興の本隊も徳川勢の猛烈な攻めを受けて浮足立ってしまった。やがて恒興の周りには五十騎ほどとなり、乱戦のなかついに徳川方の永井伝八郎直勝(二十二歳)に討取られてしまった(13:30頃)。同じ頃、右翼方面で徳川勢の猛攻にさらされていた恒興の長男之助も鉄砲に撃たれ傷付いたところを徳川勢の安藤直次に討たれた。将を失った池田隊、森隊は壊滅同然となり、敗残の兵は徳川勢の追撃から逃れようとひたすら走った。恒興の次男輝政は味方が潰走するなか家臣に守られて戦場を離脱、犬山へ向かった。

 秀吉の「中入り」軍を壊滅させることに成功した家康は深追いは無用と富士ヶ根に戻り、全軍に引き上げを命じた(14:00頃)。家康は富士ヶ根から移動して色金山の北東権道寺山(長久手市北浦)の小山ヶ沢で簡単に首実検を行い、小幡城に撤収した(16:00過ぎ)。

 ▲武蔵塚。森武蔵守長可の戦死地と伝えられる。織田信長と共に本能寺に斃れた森蘭丸の長兄。鬼武蔵の異名を取った勇猛果敢な武将。美濃金山城主。
▲庄九郎塚。池田之助(元助)の戦死地と伝えられる。池田恒興の長男。岐阜城主。

▲勝入塚。池田勝入恒興の戦死地と伝えられる。織田信長の乳兄弟。信長と幾多の戦場を共にし、戦功を重ねた。家督は戦場を脱した次男輝政が継いだ。

 楽田の秀吉に白山林の敗報が届いたのは昼近くであったといわれる。秀吉は急いで二万余の軍勢を率いて長久手方面へと出発した。途中で池田恒興、森長可の戦死報告を受けつつ竜泉寺山(守山区竜泉寺)に達し(14:00頃)、物見を放って情報収集につとめた。秀吉は家康が小幡城に撤収したことを知ると夜陣を張って明朝の攻撃に備えた。ところが夜が明けると小幡城に徳川勢はなく、家康は小牧山に戻ってしまっていたのである。仕方なく秀吉も楽田に戻った。

 かくして長久手の戦いは徳川家康の完勝に終わった。その後秀吉は家康を西美濃に誘い出そうとして加賀野井城、竹ヶ鼻城を攻略したが、家康は動かなかった。六月に蟹江合戦があったが家康の勝利に終わり、秀吉は織田信雄との和睦交渉に乗り出した。十一月、和睦成立。家康は清州城を発して岡崎に戻った。

 頼山陽は日本外史に「公の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原に在り、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と記しているという。「小牧にあり」とは長久手合戦の大勝を指していることは言うまでもないだろう。

 ▲首塚。岩作村安昌寺の雲山和尚が村人と共に戦死者を葬り、塚を築いた。毎年合戦の日には法要が営まれている。
▲三将の墓所。三将とは池田恒興、之助父子と森長可のことである。常照寺の境内にある。

▲鎧掛けの松。近くの池(血の池)で刀槍を洗う際に部将が鎧を掛けたと伝わる。現在の松は4代目。

▲血の池公園。血に染まった刀槍を洗った池と伝わり、合戦の日頃には水が赤く変わったと言われる。現在、池は無くなっている。

▲色金山歴史公園内に建つ「長久手合戦慰霊碑」。合戦の戦死者は三千に達したとも言われる。

▲長久手古戦場公園に建つ古戦場碑。
----備考----
訪問年月日 2014年3月15日
主要参考資料 「長久手の戦」
「岩崎城の戦」他

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