羽黒城
(はぐろじょう)

                   愛知県犬山市大字羽黒         


▲ 羽黒城址。前方後円墳の墳丘を利用したといわれ、その最高所に城址碑が建っている。

梶原景時誅滅の
        難を逃れて

 治承四年(1180)、平家打倒の兵を挙げた源頼朝が石橋山(神奈川県/石橋山古戦場)の戦いに敗れ、箱根の山中に潜んだ際に、その潜伏する所を知りながら見逃したのが梶原景時である。後に鎌倉入りした頼朝は景時を重用した。しかし、頼朝の信任の厚さを背景にした景時の行為はやがて他の御家人たちの反感をかうことになってしまった。

 正治元年(1199)、頼朝が没すると有力御家人たちは一致して景時排斥を二代将軍頼家に訴え、鎌倉追放が決まった。これにはさすがの景時も抗することができず、一族ともに鎌倉を出て相模国一ノ宮の館に退去した。

 景時は一ノ宮の館に立て籠もったものの鎌倉の討伐軍と戦って自滅するつもりはなかった。翌年正月に景時は一族を率いて上洛の途についたのである。目的は新将軍を担いでの挙兵であるとか、単に朝廷に仕えるためであるとか言われているがよく分からない。

 景時一族出奔の報せに鎌倉から追手が差し向けられた。

 景時らは追手を警戒しながら駿河国に至り、早足で街道を進んでいた。ところが折悪しく在郷の武士たちとの戦いになってしまったのである。結局、景時以下子の景季、景高、景茂ら一族三十三人悉くが討取られるか自害して果て、景時一族はこの世から抹殺された。

 ところが、ここ尾張国羽黒の地に難を逃れた梶原一族の少数の人々がたどり着いた。駿河で討死した景時次男の景高の嫡子豊丸(三歳)とその乳母及び供衆たちであった。当地は豊丸の乳母お隅の方の故郷であったのである。甲斐、信濃、美濃を経て到着したというから、景時一行とは別路をとったことになる。

 豊丸は元服して梶原平九郎景親と名乗り、屋敷を構えた(現在の興禅寺)。

 時は移り、景親から十七代目茂助景義は織田信長に仕え、羽黒に三千石を領したという。景時滅亡の難を乗り越え、三百八十年の後に一族復興の光が射したかにみえたが、天正十年(1582)の本能寺の変に景義は斃れ、その系譜は絶えてしまった。

 変後、城跡は廃れていたが天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦に際して羽柴秀吉が修復して山内一豊、堀尾吉晴、伊藤祐時らに守らせている。結局、この合戦で城は焼け落ち、廃城となった。

興禅寺境内に建てられた「梶原一族の羽黒移住」を描いたレリーフ。馬は名馬磨墨であろうか、幼児豊丸を乗せ、七家臣が従っている。市女笠の女性が乳母隅の方で、手を振る先に立つのが父母の羽黒郷士長谷部左善であろう

▲城址に立つ説明板。
 ▲ 墳丘部最高所に建つ城址碑。
▲ 興禅寺。山門前には「開基梶原景時公」の石碑が建っている。

▲ 城址の北約200mのところに小さな公園がある。そこに残された名馬「磨墨」の塚。この名馬は源頼朝から梶原景時に与えられたもの。
----備考----
訪問年月日 2010年2月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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