犬山城
(いぬやまじょう)

国宝、百名城

                   愛知県犬山市大字犬山         


▲ 犬山城天守閣。二層二階の入母屋の上に望楼を設けた形式は天守
建築としては初期のものである。しかし、唐破風や最上階の見せかけだ
けの華燈窓など意匠的なものは後に付加されたものと見られている。

国境の白帝城

 犬山城は濃尾国境を画する木曽川の懸崖上に築かれている。江戸時代の儒者荻生徂徠の目には、中国長江の渓谷の山上に築かれた白帝城の水墨画的な風情と李白の詩の発する情景とが重なって映ったのであろう。徂徠はこの城を「白帝城」と呼んだという。

 白帝城こと犬山城の創築は天文六年(1537)、織田信康によるとされている。しかし、信康の築いたのは現在地ではなく三光寺山(現在の犬山丸の内緑地であり、三の丸跡である)であった。

 信康は信長の父信秀の弟であり、信長の叔父にあたる。その信康が犬山城の前身である木ノ下城主となったのは天文初年のことといわれている。ただし、その経緯についてはよく分かっていない。それまでの木ノ下城主は織田寛近(とおちか)であり、伊勢守系守護代(岩倉城)の一族であった。寛近は台頭著しい信秀の協力者であったようで、信秀の美濃攻めに際してはその中核となって出陣したといわれている。ただ、後継者に恵まれなかったために信秀の弟信康が寛近の養子となって後を継いだものとみられている。

 その信康がそれまでの木ノ下城(犬山城の南南西約1km)を廃して移城を決意したのは当然のことながらより堅固な城を求めてのことであった。それが三光寺山であった。天文十三年(1544)、信康は信秀の道三攻めに加わり、稲葉山南方で討死した。

 信康の後、子の信清が継いだ。信清は信長の岩倉城攻め(永禄二年/1559)に加わっており、友好的であったようだが、美濃の斉藤義龍の誘いに乗り、次第に信長から離れていった。

 永禄六年(1563)、信長は小牧山城に居城を移し、美濃攻略の拠点とした。美濃攻略を目指す信長にとって、反抗的な信清の犬山城は邪魔な存在となっていた。

 永禄八年(1565)、信長は信清の支城(小口城、黒田城、楽田城)を降すと続いて犬山に攻め寄せ、城下に放火して攻め立てた。かなわずとみた信清は城を脱して落ち延びた。後に甲斐に亡命して犬山鉄斎と称したという。

 犬山城を手中にした信長は丹羽長秀を城主として配した。永禄十年(1567)、城主は柘植長定に替わり、元亀元年(1570)からは池田恒興が城主となった。

 天正九年(1581)、信長は摂津の戦線で活躍する恒興を兵庫城主に栄転させ、替わりに信長の末子信房を城主とした。信房は武田家の人質として十年近くを甲斐で過ごしていたが、この年になって武田勝頼から返還されて来たのであった。天正十年(1582)、信房は本能寺の変で二条城に散った。

 清洲会議で信長の次男信雄が尾張を領することになり、犬山城には信雄の部将中川定成が城代として入った。

 天正十二年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康が衝突する小牧・長久手の戦いが起きた。大垣城主となっていた池田恒興は秀吉に味方して犬山城を攻め取った。恒興は勇戦して長久手に討死。

 戦後再び信雄に返されて家臣の武田清利が城代となった。天正十五年(1587)、土方雄久が城主となった。

 天正十八年(1590)、小田原合戦後の国替えで尾張は豊臣秀次が領することになり、実父長尾吉房が犬山城主となった。翌年、吉房は清洲城主となり、犬山城には吉房の子羽柴秀勝(秀吉の養子)が入った。

 天正二十年(1592)、秀勝は朝鮮の陣中に病没したため、秀次家臣の三輪吉高が城代となった。文禄四年(1595)、秀次切腹により吉高は犬山城を退去した。

 新たに犬山城主となったのは秀吉の直臣石川光吉で、一万二千石を領した。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、犬山城には西軍勢七千七百騎が集結して東軍徳川勢の来襲に備えたが、東軍先鋒の福島正則勢が迫ると光吉はあっさりと城を明渡して退去した。光吉は関ヶ原の本戦で義父大谷吉継とともに戦ったが、敗戦によって戦場を落ち、池田輝政の仲立ちで死罪を免れた。

 戦後、尾張は家康の子松平忠吉に与えられ、犬山城はその家臣小笠原吉次が城主となった。吉次はその後七年間城主であったが、この間に犬山城は現在地に移ったとされている。

 それは諸記録から慶長六年(1601)のこととされ、この時に現天守の一・二階部分が建造されたといわれている。

 慶長十二年(1607)、松平忠吉が病没して嗣子なく断絶となった。このため小笠原吉次は下総佐倉三万石に移った。

 その後、尾張は徳川義直の封地となり、家老の平岩親吉が犬山城主となった。親吉没後は甥の平岩吉軌が城主となり、元和三年(1617)に成瀬正成と替わった。

 現天守の三・四階、つまり望楼部分が増築されたのは正成の時代であったとみられている。さらに唐破風は正成の次代正虎の頃に増設されたものと推定されている。

 めまぐるしく城主が替わった犬山城も成瀬氏が城主となってからは九代続いて明治を迎えるに至った。

 犬山城天守の建造過程が数次に渡ることが明らかになつたのは昭和三十六年(1961)から行われた解体修理によってである。もちろん、天正期に金山城から移築されたとの説もあり、天守建造をめぐる論議は今後の課題として残され続けている。

木曽川の懸崖上にそびえる犬山城天守閣。荻生徂徠が白帝城の再来と唱えたというのもうなずける光景である

▲木曽川対岸から見た犬山城。
 ▲ 城址入口の「国宝犬山城」の碑。
▲ 本丸へと続く緩やかな石段。

▲ 本丸南側に設けられた小銃櫓跡の石垣。本丸を守る要所である。石垣上に見える櫓は模擬の櫓である。

▲ 鉄門と呼ばれる本丸門。昭和40年(1965)に鉄筋コンクリートにより再建された。

▲ 本丸門を入ると眼前に天守閣が現れる。

▲ 天守一階の「上段の間」と武者走り。

▲ 天守閣最上階から展望した木曽川下流方面。川に架かる橋はライン大橋である。

▲ 本丸に建てられた石碑「高節凌雲霄」。幕末期に勤皇の立場で尾張藩主徳川慶勝を補佐した九代城主成瀬正肥公の功績を顕彰したものである。

▲ 犬山神社。城址入口の南側(三の丸跡)に建てられている。成瀬正成公以後歴代城主の御霊が祀られている。
----備考----
訪問年月日 2010年2月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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