大垣城
(おおがきじょう)

市指定史跡、続百名城

              岐阜県大垣市郭町2        


▲ 大垣城は関ヶ原合戦に先立ち、石田三成が西軍の本営として陣取った
城として有名である。城攻めの苦手な徳川家康は水攻めを考えていた
という。結局は三成らは大垣城を出て関ヶ原に向かったのであったが…。
(写真・大垣城天守閣と戸田氏鉄公騎馬像。)

天下分け目、西軍の本営となる

 大垣城がその名を大きく歴史に刻んだのは何と言っても関ヶ原合戦(慶長五年/1600)に際し、徳川家康と雌雄を決するために石田三成がこの城を本営としたことであろう。その大垣城の歴史はこれから百年ほども遡ると言われるが、前半の半世紀ほどは諸説錯綜していて誰が築城者で城主であったのか定まっていない。

 城主としての登場が明確になるのは永禄二年(1559)の氏家常陸介直元(卜全)の入城からであるが、それ以前の伝えられているところを見るとこうなる。

 明応九年(1500)、竹腰彦五郎尚綱が牛屋城を築いて三十九年間在城、天文七年(1538)没。牛屋城は後の大垣城のこととされている。尚綱、嗣子無く兄七郎重綱の嫡子摂津守重直が継ぎ、九年間在城。天文十五年(1546)、尾張織田信秀の攻めを受けて落城、祐向山城(本巣市)に移ったとされる。

 天文四年(1535)、宮川吉左衛門尉安定、割田の空城の石垣を移して大垣城を築く。在城三年とも十年ともいわれている。在城期間が先の竹腰氏と重複している。

 天文十三年(1544)、織田信秀が大垣城を攻略して一族の織田播磨守信辰を城番とする。期間は三年、五年、十年と様々である。天文十六年(1547)、斎藤道三の攻めにより落城したとされる。

 天文十七年(1548)、斎藤道三が竹腰摂津守尚光(重直の子)を城主とする。弘治二年(1556)、鷺山にて討死。しかし、永禄二年(1559)まで在城したともいわれる。

 以上のように在城期間がまちまちであり矛盾点も多く、その分信憑性に欠けると言わざるを得ない。

 そして永禄二年(1559)に西美濃三人衆のひとり氏家直元の入城となるのである。元亀二年(1571)まで在城。その間に斎藤龍興の命を受けて城の修築・拡張を行ったとされる。永禄十年(1567)、織田信長に属して家臣となる。元亀二年の長島一向一揆攻めの際に殿軍をつとめ、討死。

 直元の後、子の左京亮直重が継いだ。信長の麾下にあって戦功を上げるも天正十一年(1583)に病没。

 羽柴秀吉は氏家氏を美濃国三塚一万五千石に移し、池田紀伊守恒興に十五万石を与えて城主とした。しかし、翌年の長久手合戦で討死してしまった。

 天正十二年(1584)、大垣城には羽柴秀次が城主として入ったが半年ほどで羽柴秀長が城主となったという。その秀長も翌年には大和郡山城に移ってしまい、在城期間の詳細は不明である。

 天正十三年(1585)、加藤作内光泰が近江高島城二万石から大垣四万石の城主となって入った。しかしすぐに秀吉の勘気に触れて所領没収、替わって一柳伊豆守直末が城主となって二万五千石を領知した。この年十一月、天正大地震にて出火、大垣城は壊滅的被害を蒙った。直末は天正十七年(1589)三月まで在城した後、本巣郡軽海城に移った。

 一柳氏の後、羽柴秀勝(秀次の弟)が城主となった。秀勝は小田原攻めに二千五百人を率いて大垣城から出陣している。在城約一年。

 天正十八年(1590)、伊東長門守祐盛が三万石で城主となった。大垣城に天守が造られたのはこの祐盛の時で、慶長元年(1596)のこととされている。慶長四年(1599)没。子の盛正が城主を継いだ。

 慶長五年(1600)八月十日、石田三成の率いる軍勢が大垣城下に集結した。三成は城主伊藤盛正に開城を迫り、翌日には城内に入って大垣城を西軍の本営とした。

 城主伊藤盛正は三成に城を明け渡した後、関ヶ原の本戦で討死したとされてきたが、戦後に図書と改名して福島正則に仕え、福島家改易後はさらに金沢藩前田家に二千石で仕えたという。

 九月十四日夜、大垣城に集結していた西軍勢は関ヶ原に向かって移動した。大垣城の守備は三成の娘婿福原長堯以下七千五百が受け持った。

 翌十五日、関ヶ原における戦いは昼頃には東軍徳川方の圧勝に終わった。大垣城には水野勝成の一隊が攻めかかったが城兵よく守り二十三日に至って家康の城兵助命の勧告を受けて長堯自刃して開城となった。

 慶長六年(1601)二月、石川長門守康道が五万石で城主となった。慶長十二年(1607)五十四歳にて没。父日向守家成が城主となるも二年後に没する。三代忠総は外堀を整備して城を拡張した。大坂の陣の戦功により豊後日田六万石に転封。

 元和二年(1616)、松平(久松)忠良が五万石で入城。天守を三層から四層に改築。寛永元年(1624)、子の憲良が継ぐも同年内に信州小諸城に移る。

 寛永元年九月、岡部長盛が丹波福知山城から移って大垣五万石の城主となる。寛永十年(1633)、二代宣勝の時に播州龍野城に移る。

 寛永十二年(1635)まで、松平(久松)越中守定綱が六万石で城主を務めた。

 同年七月、戸田左門氏鉄が十万石で大垣城主となった。以後、氏信・氏西・氏定・氏長・氏英・氏教・氏庸・氏正・氏彬・氏共と十一代続いて明治に至った。

 城主の変遷を見るだけでも大垣城の歴史は目まぐるしい。それだけに大垣城の置かれた位置が地理的、政治的、軍事的にも重要なものであったことを物語っている。


大垣城天守閣。四層四階の天守は珍しいという。戦災で焼失するまでは国宝であった。昭和34年(1959)に郷土博物館として鉄筋コンクリ造りによって再建された。さらに平成22年(2010)の改修工事によって国宝当時の外観に復元された

▲ 乾隅櫓。昭和41年(1966)に復元整備された。
 ▲ 大垣公園内の濃飛護国神社。かつての二の丸跡にあたる。
▲ 大垣城西門。昭和60年(1985)の修景整備の際に造られた。模擬の門である。

▲ 西門の前に建つ戸田氏鉄公の騎馬像。戸田氏は大垣藩十万石の城主として十一代続いて明治を迎えた。

▲模擬西門。

▲ 天守前に建つ城址碑。

▲ 大垣城東門。かつての柳口門を移築したもので本来はここに門はなかった。

▲ 艮隅櫓。

▲ 戊辰の役顕彰碑。大垣藩は鳥羽伏見の戦いでは幕軍として戦ったが直ちに勤皇に転じて藩兵千二百人を出兵させて戦功をあげた。

▲ 「おあむの松」。関ヶ原合戦時、山田玄暦は家族とともに三成に属して大垣城に籠っていた。おあむはこの玄暦の娘である。おあむ一家は西堀端の松からたらい舟に乗って無事脱出できた。この松は二代目だそうだ。ちなみに籠城中の話しを伝えた「おあむ物語」は有名である。

▲ 明治29年(1896)大垣の約8割が屋根まで達するという大水害を蒙った。石垣に刻まれた横線(→)はその時の水位を伝えている。

▲ 鉄門跡。二の丸と本丸が繋がる唯一の門が鉄門であった。

▲ かつての本丸城郭図。現状とはかなり違っている。
----備考----
訪問年月日 2012年11月3日
主要参考資料 「大垣城の歴史」
 ↑ 「大垣城物語」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ