福知山城
(ふくちやまじょう)

                  京都府福知山市字内記           


▲ 福知山城の大天守。昭和61年(1986)の再建である。松平氏時代の
絵図、平面図をもとに設計され、外観復元の鉄筋コンクリート造りである。

光秀、丹波を平定

 天下布武を目指す織田信長が丹波攻略を明智光秀に命じたのは天正三年(1575)のことであった。
 十一月、明智光秀と細川藤孝の軍勢は丹波へ進攻、口丹波の諸氏を従え、丹波の赤鬼と異名をとる赤井悪右衛門直正の黒井城を包囲した。ところが、光秀に従っていた八上城主波多野秀治が赤井方に寝返ったために明智勢は敗走、この時の丹波攻略は頓挫してしまった。
 天正五年(1577)、再び信長が光秀に丹波攻略を命じた。光秀は前回のように一気に攻め込むのではなく、じっくりと時間をかけて確実に駒を進めた。
 天正七年(1579)六月、八上城が一年三ヵ月に及ぶ兵糧攻めによって落城した。その間に丹波国内の諸城のほとんどが明智勢の攻撃によって落城し、さらに丹後までも平定してしまっていた。残っていた黒井城も八月に至り、ついに落城、ここに丹波は光秀によって平定されたのである。
 ここ福知山城は、この当時は横山城と呼ばれる掻上げの城であったのであるが、明智勢によって落城したのは八月と云われている。黒井城攻略戦の最中か直後のことであったろうか。
 この横山城は横山大膳大輔信房が城主で先々代の塩見頼勝が城砦を築いたことに始まるという。塩見氏は天田郡を支配した有力豪族であったが、その動静は分からない部分が多い。信房の父頼氏の時に横山を名乗った。そして信房は明智勢の来襲によって衆寡敵せず、切腹して果てたのである。
 この横山城を攻略したのは明智勢ではなく但馬竹田城に居た羽柴秀長の軍勢で、五月には城を落として部将の前野将右衛門が在番となっていた。八上城落城後の七月二十三日に光秀が城を受け取ったのであると「武功夜話」にある。
 ともかく、天正八年(1580)に光秀は信長から丹波一国二十九万石を与えられた。近江の所領を含めると三十四万石という大身となった。光秀は丹波統治の拠点として亀山城(亀岡市)と、横山改め福智山城を築いた。福智山が福知山となるのは後のことである。
 光秀は亀山城を居城とし、福智山城には一族衆となった明智秀満(三宅弥兵次)や直臣藤木権兵衛を城代として置いた。
 福智山城の縄張りは光秀の手になるもので、近世城郭としては先駆的なものといえる。また、信長の旧権力否定の表れとも見られている転用石(五輪塔や宝篋印塔など)の多さでも屈指である。
 天正十年(1582)、本能寺の変、そして山崎合戦で光秀とその一党は滅びた。福智山城が明智の手にあったのはわずか三年であったが、その間に由良川の流路を変えて堤防を築き、また地子銭(税)を免除して商業を活性化させるなどして城下町の下地を作った。こうした光秀の政策が現在の福知山繁栄の源になっているとして、今なお光秀の人気は高いようである。
 山崎合戦後、亀山城に羽柴秀勝(信長四男、秀吉の養子)が入り、福智山城はその支配下におかれた。翌天正十一年、秀勝の城代として杉原家次が二万石で入った。家次が病没して天正十三年(1585)、秀吉の重臣小野木重勝が三万石で入った。

▲ 大天守と続櫓で繋がっている小天守。九代目城主松平忠房時代の絵図をもとに、昭和60年(1985)に再建された。
 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に先立って小野木重勝は大坂方(石田三成)の命により、丹後田辺城攻めに攻略軍の大将として出陣した。ところが、関ヶ原の本戦で大坂方が大敗してしまった。重勝は福智山城に戻っていたが、関ヶ原で徳川方に属して戦った細川忠興の軍勢に城を囲まれ、これに降った。そして重勝は亀山城で切腹となった。
 関ヶ原の論功行賞で福智山城に封じられたのは有馬豊氏で遠江横須賀城からの加増転封であった。高六万石である。福智山城と城下町が完成の域に達したのはこの有馬氏時代であったと云われている。
 元和六年(1620)、大坂の陣による戦功で有馬豊氏は筑後久留米に転封となり、翌七年に岡部長盛が亀山藩から五万石で福智山藩主となった。
 三年後の寛永元年(1624)、稲葉紀通が摂津中島から四万五千七百石で入封した。ところがこの紀通、領民に重税を強い、逆らう者は容赦なく処刑するという悪政者であった。しかも、隣の丹後宮津藩京極家と諍いを起こすなどして、最後には謀反の噂まで広がってしまった。さらに事態は大きくなり、近隣諸藩が兵を出して国境を固め出したのである。紀通もさすがに事態の重さに責任を感じたのであろう。慶安元年(1648)八月二十日に鉄砲で自殺してしまった。幕府は藩主乱心により改易との処置をとった。
 慶安二年(1649)、三河刈谷藩主松平忠房が四万五千九百石で入封した。丹後宮津城の城受取り役をつとめるなどしている。
 寛文九年(1669)、忠房が肥前島原へ移封となり、常陸土浦藩主朽木種昌が三万二千石で入封した。以後、十三代朽木氏が続いて明治を迎えた。福智山が福知山に改められたのは享保十三年(1728)であったと云われている。

▲ 本丸へと続く登城路。

▲ 本丸の石垣。

▲ 転用石として利用された石塔などの一部が陳列されている。

▲ 本丸天守台の石垣は明智光秀築城当時のもので、石塔の類が随所に見られる。旧権力の否定であるとか、工期の短縮と石材不足を補うために転用されたのであるとか言われている。また、城を守護する意味があったとも言われている。

▲ 銅門(あかがねもん)番所。かつては二の丸に至る登城路に設けられていた番所である。大正時代に本丸天守台に移築され、さらに天守再建にともなって本丸内の現在地に移された。

▲ 本丸の朝暉神社。朽木氏の福知山初代藩主朽木種昌が父種綱を藩祖として城中に祀ったことに始まり、十一代藩主綱條(つなえだ)の時に一社を建立して朝暉神社と号した。廃藩により城外に移されたが明治14年(1881)に町民らが旧主に願って天守台跡に再建、市街地の鎮守とした。昭和の天守再建により現在地に鎮座する。

▲ 「朽木昌綱公頌徳碑」。八代藩主で、古銭趣味や蘭学研究の著作を残すなどした。

▲ 大天守からの眺め。遠方の山々は酒呑童子や茨木童子で名高い大江山や鬼ヶ城である。

▲ 本丸西側から見た石垣と大天守。この石垣の周囲は民家が建ち並んでいる。
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画像の撮影時期*2008/10