宮津城
(みやづじょう)

京都府宮津市鶴賀


▲宮津城は織田信長の命によって丹後へ進攻した細川氏によって
築かれたのがはじまりで、丹後経営の本拠地となった。関ケ原後、
細川氏に替わって入部した京極氏によってさらに拡張・改築された。
(写真・外堀となっていた大手川に復元された城壁。)

近世丹後経営の城

 戦国期の丹後国は一色氏が守護として建部山城(舞鶴市)を本拠として支配していた。

 天正七年(1579)、丹波を平定した織田信長麾下の明智光秀と細川藤孝は丹後へ進攻し、丹後守護一色義道の立て籠もる建部山城を攻めた。

 建部山城の一色義道は配下の国人衆が相次いで織田方に離反したため城を支えきれず落城してしまう。義道は建部山城を脱して中山城(建部山城の西北約2km)に移ってさらに抵抗を続けたというが、結局は家臣の離反によって自害してしまう。義道の家督を継承してなおも抵抗をつづけたのは子の義定である。

 義定は残党を率いて弓木城に籠り、細川勢の攻撃を撃退し続けた。弓木城を攻めあぐねた細川藤孝は明智光秀の助言に従い、娘を義定の正室にすることで和議を結ぶ。

 天正八年(1580)、信長は丹後南半国を藤孝に、北半国(奥郡)を一色義定の領国とした。

 藤孝は入国当初は八幡山城(宮津市宮村)を拠点とするが、直ちに宮津浜の手に新城の築城を開始した。これが宮津城である。築城にあたっては明智光秀と協力するようにと信長に命じられていたようである。

 天正九年(1581)、細川藤孝は勝龍寺城(京都府長岡京市)を出て宮津城を居城とした。

 天正十年(1582)、本能寺の変に際して藤孝は盟友明智光秀の誘いを無視して剃髪、家督を嫡男忠興に譲って田辺城(舞鶴市)に隠居した。一方の一色義定は明智方に付いたため、変後に宮津城内にて忠興に謀殺されてしまう。忠興は一色残党の掃討を実施して丹後全域を掌握、かつて室町幕府の四職家として権勢を奮った一色氏はここに滅亡した。これにより忠興は羽柴秀吉から丹後一国十二万石の領有を認められた。

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦に際して忠興は東軍徳川家康方に付いて奮戦、西軍石田三成勢と死闘を演じた。国元の丹後では父幽斎(藤孝)が宮津城に居たが西軍の来襲に備えて城を焼き払い、田辺城に籠城した。

 関ケ原後、忠興は豊前中津三十三万九千石に加増転封となり、丹後を去る。替わって丹後に入国したのは京極高知であった。信濃飯田(飯田城)十万石から十二万三千二百石の加増転封であった。

 京極高知は宮津城を本城としつつも田辺城を居城とした。宮津城は細川氏によって自焼されたままであったからである。しかし、晩年には宮津城を大規模に改修、再建の工事に着手した。

 元和八年(1622)、高知は丹後を三分して宮津藩、田辺藩、峰山藩を立藩させた。嫡男高広は本藩として宮津七万八千石を領知して他の二藩は支藩とした。

 京極高広は宮津城の再建工事を大規模に進め、天守は築かれなかったが、二の丸、三の丸はもとより、本丸には五ヵ所の櫓が築かれた。城下の整備も進められ、田辺城下の商人らを移住させるなどして単なる漁村から山陰随一の城下町になったという。

 寛文六年(1666)、隠居して嫡男高国に家督を譲っていた高広であったが、藩政介入著しく、高国と対立したために幕府から親子不和と悪政を理由に改易となってしまう。

 その後、三年間宮津城は幕府直轄となり、代官が置かれた。寛文九年(1669)に山城淀藩から永井尚征が入部して二代尚長の時に嗣子無く改易となった。天和元年(1681)、武蔵岩槻藩から阿部正邦が入部、元禄十年(1697)には下野宇都宮藩(宇都宮城)に移った。替わって宇都宮から奥平昌成が入部、享保二年(1717)に豊前中津藩に移った。続いて青山幸秀が信濃飯山藩(飯山城)より入部、宝暦八年(1758)に二代幸道が美濃郡上藩(郡上八幡城)に転じた。

 そして遠江浜松藩(浜松城)から松平資昌が七万石を拝領して宮津へ入部、七代続いて明治に至った。


▲宮津城太鼓門。現在は宮津小学校の正門となっている。平成22年(2010)に修復・整備された。宮津城の建築物遺構としては唯一のものである。

▲国道沿いに置かれた巨石。本丸入口くろがね門の袖石垣の一部とのことである。

▲京都丹後鉄道宮津駅。宮津城跡は市街化してしまって目立った遺構は残されておらず、駐車可能な場所もない。そのため、駅駐車場に車を置いて市内を散策することにした。

▲駅前通りをまっすぐ西へ行くとかつて大手門のあった大手橋がある。その手前に一色稲荷社がある。「丹後領主一色義清自刃の処」の標柱が立っている。ここは城内三の丸にあたるところである。義清は一色氏最後の当主とされ、細川の陣中に斬り込んで壮絶な最期を遂げたと伝わる。

▲一色稲荷の由来の説明板。

▲大手川の改修工事の際に城下の風情を再現しようと、約240mの城壁が復元された。石垣の一部はかつてのものだそうである。

▲市役所南隣の小公園に建つ細川ガラシャの像。

▲生誕450年を記念して建てられたというガラシャ像。かつての宮津城の方を向いている。

----備考----
訪問年月日 2017年4月29日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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