■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2017

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。

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9月3日(日)晴/高山城(鹿児島県肝付町)

 猛暑の夏休みは連日の出勤。9月に入って休みが取れたので遅ればせながらご先祖の地鹿児島へ墓参に出掛けた。今までは車で鹿児島へ行っていたのであるが、さすがに60を超えると体力的にきついので今回は飛行機で行くことにした。仮眠をとりつつ20時間近くかけての移動も飛行機なら静岡空港を離陸して鹿児島空港へ着陸するまで1時間半である。瞬間移動といってもよいくらいだ。逆に遠く鹿児島まで来た感がなく、変な感じであった。

 鹿屋で墓参を済ませた後、足を延ばして肝付町の高山城へ寄った。

 高山城は大隅国最大の土豪肝付氏の居城である。肝付氏は平安期にはすでに当地に土着しており、その歴史は古い。南北朝期には南朝方として活躍、戦国期には島津氏と衝突した。その過程のなかで高山城が整備、構築されていったのは当然のことである。縄張は薩摩・大隅の山城特有のもので、各曲輪が空堀で区切られて独立したものである。

 永正3年(1506)に島津忠昌の攻撃を受けた際には2か月以上持ちこたえて島津勢を撃退していることから不落の名城として紹介もされている。その後、離反者が相次いだ肝付氏は天正元年(1573)に島津義久の大軍に攻囲された際に降伏開城するに至ってしまう。天正8年(1580)、肝付氏は薩摩の阿多に移されて城は廃された。

 遺構の残存状態は比較的良好なようであり、国の史跡となっている。

↑高山城址碑と城址遠景

↑本丸跡
5月3日(水)晴/市場城(豊田市)

 多くの人たちは今日からGWに突入したらしく、高速道路は早朝より渋滞が発生している。道路情報を見ると愛知県内は東名、新東名ともに赤いラインで示されており渋滞の激しさが伝わってくる。

 それでも今日は家内を連れて出かけると約束していたので出かけないわけにはいかない。高速利用は避けて国道など下道を使って豊田市の山間に出掛けることにした。肝心の家内の方は目的地がどこであろうと構わないらしく、出掛けられれば気分がいいらしい。時間をかけてのんびりと山道をくねくねと目的地に向かった。行先は豊田市内とはいえ岐阜県に近い山間の地である。国道419号沿いの小原町が目的地である。

 ここには市場城(大草城)と呼ばれる山城がある。戦国期に鱸(すずき)氏が居城とした城である。鱸氏は徳川家康に仕えて功績があり、加増を受けたようで、その時に城を改修して本丸を石垣造りにした。しかし、家康の関東移封に従わなかったために退去させられ、廃城となったとされている。

 城址の入口には駐車場が設けられており、城跡を周回する遊歩道も整備されている。家内と二人してのんびりと山へ踏み入る。薄暗い山中を遊歩道に沿って登る。素人目には草木が鬱蒼とした森でしかないのだろうが、城好きにはすでに城域に踏み入っていることが分かる。山頂近くになると突然石垣が眼前に現れた。来てよかったとうれしくなる。素人の家内もこんな所に石垣が現れたことに驚いたらしい。城歩きの醍醐味が少しは分かってくれたのかな、と思いたいのは私だけではないだろう。

↑市場城への遊歩道

↑主郭下の石垣
4月30日(日)晴/松ヶ瀬台場(福井県大飯郡)

 予定では若狭道経由で帰るだけのつもりであったが時間に余裕があったので小浜湾の大島半島の突端に築かれている松ヶ瀬台場に寄り道することにした。

 この台場は幕末に小浜藩が海防のために築いた砲台である。とくに二号台場は復元整備が行われて、大砲(模造)まで設置されているから見応えがある。半円土塁の内側に固定式砲座が4ヵ所、中央の砲座は大砲の砲尾を1/4円ほど振って目標を補足できるようになっている。1号台場の方は直線状に5門ほどの砲眼が並んでいる。

 場所がオートキャンプ場内にあるため、受付に一言断った方がよいだろう。快く場所を示してくれるので有難い。カラーのパンフまで用意されている。

↑小浜藩松ヶ瀬台場
4月29日(土)晴一時雷雨/二条城亀山城園部城宮津城弓木城(京都府)

 GW初日。ということで颯爽と京都へ向かった。最初の目標は二条城である。高速道路の渋滞が気にかかったが鈴鹿付近で30分ほど遅れただけであった。

 二条城には9時着。開門時間の直後であった。すでに観光客がゾロゾロと東大手門から入城している。個人の観光客ではなくほとんどが団体である。駐車場には観光バスが20台以上は駐車している。乗用車は10台ほどであるから個人客がいかに少ないかということである。しかも団体のほとんどが外国人なのだ。世界遺産ともなるとこんなにも外国人が訪れるものなのかと改めて驚いてしまった。

 ともかく、定番のコースで唐門から二の丸御殿内部を見学して本丸へと向かった。内堀と石垣、鉄の門、枡形、二条城が城郭であることを知らしめる空間である。多くの団体客は二の丸御殿の見学で退城してしまうのか、本丸に踏み入る観光客はかなり少なく感じられた。

 本丸御殿前から天守台へと向かう。本丸西橋から内堀の外側へ出て堀野外周を巡った。そして二の丸へ戻り、城外へ出る。本来なら外堀を一周して巡りたいところであるが、次の目的地へ向かう都合で切り上げることにした。

 二条城は関ケ原合戦後に徳川家康の命で天下普請によって築城された城で、織田信長時代の二条城や二条新御所とはまったくの別物である。将軍上洛時の宿所と京都御所の警備のための城とされている。慶応3年(1867)の大政奉還が二条城の二の丸御殿で表明されたことはよく知られている。

 京都市街から西へ抜け、亀岡市へと向かう。亀岡盆地の中心部に亀山城がある。

 織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略と経営の拠点として築いた城である。慶長15年(1610)に天下普請で改修された亀山城は江戸期を通じて譜代亀山藩として明治に至っている。

 現在の城址は大本教の聖地となっている。見学するには受付に申し出て、大本の神殿玄関でお祓いを受けなければならない。この神殿の裏側がかつての本丸跡である。見学といっても本丸石垣の一部分が見られるだけでそのほかは禁足地となっており、立ち入ることはできない。まあ、仕方がない。その石垣も戦前の大本事件の際に政府によって爆破破壊され、戦後に信者らによって積みなおされたものだという。パンフには本丸石垣の下1/3は光秀公当時の穴太積みだと記されている。なんとなく消化不良の状態で亀山城を発った。

 亀岡から国道9号を30分ほど西北に進むと南丹市園部である。ここには江戸期に小出氏の園部藩の政庁が置かれた陣屋があった。陣屋とはいえ、規模は城郭並みであったという。櫓や櫓門の建設が許可されたのが慶応4年(1868)に明治政府によってであった。櫓5ヶ所、櫓門3ヶ所が完成して園部城となったのが明治2年(1869)というから国内最後の城郭建設ということになるそうだ。しかし、数年後には廃城となり民間に払い下げられてしまう。

 唯一残ったのが現在の園部高校の正門となっている櫓門とその近くの巽櫓である。ここから北側に目をやると巨大な天守が建っているが、これは国際交流会館という市の施設なので惑わされないように

 この後、丹波綾部道そして綾部宮津道を経て宮津市へ入った。旧国で言えば丹後国に入ったわけである。途中、自動車道のPAで昼食中に空模様が激変して雷雨となった。あたりが暗くなり、はや日が暮れるのかと錯覚するほどであった。小やみになった隙に車を走らせ宮津近くに至ると快晴、時間はまだ14時である。

 宮津駅前の駐車場に車を置いて徒歩で歩き回ることにした。

 宮津には信長の命により明智光秀と細川藤孝が丹後攻略に取り掛かり、攻略後は細川氏が宮津城を築いて根拠地とした。江戸期には京極氏が宮津藩主となり、その後は譜代大名が相次いで藩主を繋いでいった。

 その譜代7万石の城も残念ながら現在は見る影もない。唯一、城門のひとつであった太鼓門が宮津小学校の校門として残っているに過ぎない。この門の前を流れる川がかつての外堀であったらしく、川岸には白塀が250mほど再現されている。また、市役所南側の公園には細川ガラシャの祈りの像が建てられている。

 30分ほど散策して宮津駅に戻る。さて、次の目的は弓木城である。ここから10kmほど北西の位置にある。

 丹後守護一色氏最後の城と言われている山城である。山城とはいえ、城山直下に駐車場が設けられているので本丸までは5分ほどである。小さな山城ながら急峻な地形を利用して築かれているように思われ、細川氏の攻撃に耐え得たのもうなづけるような気がした。

 弓木城は古くより稲富氏歴代の居城であり、戦国期に細川氏に圧迫された一色義定がこの城に入ったとされる。この時の城主稲富祐直は稲富流砲術の創始者として知られている。

 時間は16時。とりあえず今日は綾部で一泊の予定なのでホテルへと向かった。

↑二条城 東大手門

↑二条城 本丸天守台

↑二条城 東南隅櫓

↑丹波亀山城

↑園部城

↑宮津城 外堀の塀

↑弓木城
3月11日(土)晴/明知城(恵那市)

 久しぶりの訪城。国道257号を使って三河から東濃へと抜け、岩村から明智へと向かった。3月とはいえ山間部の気温は低く、0度であった。

 明知城は明智町を東から見下ろす山上に築かれている。登城するには大手口である西麓から整備された遊歩道と東側中腹の搦手口からのコースがある。車で訪れる場合は駐車困難な大手口より東側の搦手口の方が良いだろう。駐車スペースも確保されており、本丸まで100mという近さなので山城とはいえ楽な登城となる。ただし本丸に至る間の各曲輪群を確認するならば、大手口から時間をかけて登った方が良いだろう。

 私たちは国道363号から県道33号に入り、城址の東側搦手口に廻った。

 駐車スペースから城址への遊歩道に踏み入ると堀底を通って搦手砦と呼ばれる小さな曲輪前に出る。そこから案内に従って少し上ると大きく窪んだ場所へ出る。その窪みは貯水池の跡らしい。丸木の樋を水源から通して飲料水を溜めていたということである。

 さらに歩道を上がると二の丸と出丸の間の尾根筋に至る。左側が出丸である。まずはそちらに向かう。出丸は防御上最も重要視された曲輪であったらしい。入口には城門の石垣に使われたという巨石が転がっている。周囲の地形は急峻で「猿戻し」と呼ばれている。サルも登れずに引き返えすという意である。

 出丸から本丸下段の二の丸に向かう。二の丸手前には本丸を取り巻く腰曲輪がある。二の丸からさらに本丸へと上る。

 本丸は縦長の削平地で展望が開けている。各曲輪ともに樹木が伐採されており、城跡の地形を把握しやすくなっている。

 明知城は明知遠山氏累代の居城である。天正2年(1574)には武田勝頼の大軍に攻撃されてあえなく落城、城主遠山氏は落去した。しかし翌年の長篠合戦で武田を打ち破った織田信長は直ちに東濃へ兵を進めて明知城を奪還、遠山氏は城へ戻った。本能寺の変(1582)後、森長可の東濃平定のために再び城を落去、徳川氏を頼った。関ケ原合戦(1600)時、再び明知城を奪還して帰城を果し、旗本となる。その後一国一城令により廃城、西麓に陣屋を置いて明治に至った。

 現在は大正ロマン館の前に堀跡が残っている。また、近くの龍護寺には遠山氏累代の墓があり、明智光秀の供養塔もある。

↑明知城 本丸

↑出丸の石垣跡

↑陣屋の堀跡
1月4日(水)曇時々晴/瀬田城膳所城大津城坂本城(大津市)、大溝城(高島市)

 新春恒例の初城めぐり。今年は近江の訪城でスタートした。
 正月三が日が過ぎたためか、高速道路の渋滞もなくスムーズに滋賀県大津市に到着した。同行者はいつものトモ坊である。まずは名神瀬田東ICから瀬田城へと向かった。

 瀬田城は六角氏の被官山岡氏が築いた城で、京都の入口を押さえる重要拠点であった。織田信長の武力上洛時に山岡氏は信長に属し、本能寺の変後に瀬田の唐橋を焼き落として安土城に向かう明智の軍勢を阻止したことで知られている。古来、瀬田川は宇治川と並んで京都防衛の要となっており、戦いの帰趨を決する重要な場所であったのだ。

 現在は市街化によって遺構は失われ、石碑が道路脇に建つのみである。城址の北側に架かる瀬田の唐橋は文献上は壬申の乱時にまで遡るとされ、現在の位置に架橋されたのは豊臣秀吉によってであるそうだ。その後、幾度か改築されて現在に至っている。

 瀬田城から湖岸道路を4kmほど大津方面へ北上すると膳所城がある。城址は城跡公園となって市民散策の場となっている。公園は湖岸道路に面しており本丸町交差点東側に城門と白塀、堀が見えるのですぐにわかる。ただ、これは模擬でかつての城跡の雰囲気を出しているに過ぎないものだ。とはいえ、公園そのものはかつての本丸跡である。城址碑が建ち、天守跡の碑も建てられている。湖岸に並ぶ石も石垣に使用されたものなのであろう。

 膳所城は関ケ原合戦後に徳川家康の命により天下普請で築かれた最初の城である。縄張りは藤堂高虎があたり、対大坂に備えたものであったようだ。初代城主は徳川譜代の戸田一西で、その後は本多、菅沼、石川と譜代藩主が続き、最終的には本多俊次が再び藩主となり代を重ねて明治に至っている。

 再び湖岸道路を3kmほど行くと大津城となる。大津城も市街地化して遺構を目にすることは困難となっている。京阪電車浜大津駅前に城址碑が建てられており、かつてここが本丸であったことを示している。遺構は駅南の大津祭曳山展示館奥の石垣が外堀の石垣遺構とされているに過ぎない。

 関ケ原合戦に際し、京極高次が西軍から東軍に鞍替えして居城である大津城に籠城した。西軍の猛攻を7日間持ちこたえた後に開城してしまったが、関ケ原では東軍が大勝しており、戦後には西軍1万5千を釘付けにしたことを賞されて高次は加増転封となっている。城はその後廃城となり、新たに膳所城が築かれた。

 大津城から6kmほど国道161号を北上すると坂本城である。坂本地区に入ると道路右側に坂本城跡公園がある。入口に坂本城址の大きな石碑がたっているのでそれが目印だ。公園駐車場に乗り入れると湖岸方向に築城者である明智光秀像が目に入る。

 織田信長による比叡山焼き討ちの後、叡山の監視と北國街道を押さえるために信長の命によって光秀が築城した城がこの坂本城である。信長の安土城に次ぐほどの豪壮華憐な城郭であったらしい。本能寺の変後、光秀の弟秀満が立て籠もり、火を放って滅んだ。その後、秀吉の命によって再建されたが、大津城の築城によって廃城となった。

 この城も大津城、膳所城と同じく水城であったが、やはり開発によって城としての遺構を見ることはできない。城跡公園自体は城外にある。よく写真で見る坂本城の城址碑のある場所はここから200mほどの住宅街のなかにあるので歩いて行くことにした。また、国道沿いには明智塚と呼ばれる場所もあるので寄ってみた。光秀の脇差や宝器類を埋めたとされている塚である。

 琵琶湖に面した水城として知られる城に大溝城がある。坂本城から33kmほど湖西道路(国161号)を北上した近江高島駅近くに城跡がある。車を駅駐車場に置いて徒歩で城跡へ向かう。高島市民病院の裏手に城跡がある。

 ここには小さいながらも本丸が石垣とともに残っている。緑色のコケの生えた石垣が数百年の歴史を物語っているようだ。本日訪城した城跡では唯一城跡らしいところである。身体に溜まったストレスがスーッと霧散してゆくのがわかる。

 大溝城は織田信長の弟信行の子信澄の築城になる。天正7年(1579)のことで、舅である明智光秀の縄張りであったと言われている。城主である信澄は天正10年(1582)に四国遠征の準備中に本能寺の変が起こり、滞在先の大坂城内で織田信孝(信長三男)らに攻められて自害してしまった。光秀との繋がりを疑われたためであった。天正15年(1587)、大溝城主であった京極高次は浅井三姉妹の次女お初を正室として迎えている。文禄4年(1595)に高次が大津城へ移ったことによって大溝城は廃された。

↑瀬田城

↑膳所城

↑大津城

↑坂本城

↑大溝城

↑大溝城 天守台石垣