■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2016

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。

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12月29日(木)曇時々晴/上野城(伊賀市)、滝川氏城(名張市)
 妻と二人で、お疲れ様会ということで三重県名張市まででかけた。旧伊賀国である。途中、伊賀上野城と滝川氏城へ寄り道して宿泊先へチェックインした。

 上野城は10年ぶりの再訪である。年末ということで天守や周辺施設はすべて休館である。その分、入場者はほとんど無く、気ままに散策できたので良かった。筒井氏時代の城跡の発掘調査や石垣の復元などが進められたようである。駐車場では小雨であったのが本丸まで来ると青空が広がり白亜の天守が輝きだした。絶好の撮影チャンスである。これで上野城のページの写真が更新できるとシャッターを押し続けた。

 上野城は伊賀統治の城で、はじめ筒井定次がここに築城した。定次は時に非情な性格を露わにすることがあったようで、関ケ原時に西軍に上野城を開城した咎で兄を切腹させたこともある。また、年貢の取り立ても厳しかったようで、終には幕府によって改易に追い込まれてしまう。その後に伊賀を拝領したのが藤堂高虎である。高虎は築城名人としても名高い。家康は対大坂戦に備えて上野城の拡大改修を高虎に命じた。高虎は西側からの攻撃を意識して高石垣を築いた。

 しかし、夏の陣で豊臣氏が滅亡すると上野城の役目も無くなり、改修工事は途中で放棄されたようにも思える。東側には石垣が築かれてないからだ。

 上野城をあとにして宿泊先の名張市へと向かう。名張市に入って10分ほどのところに滝川氏城がある。

 滝川氏城は天正伊賀の乱の終盤の頃、伊賀衆最後の拠点となった柏原城攻めに際して織田信雄の家臣滝川三郎兵衛雄利が戦略拠点として築城したものである。攻撃のための兵の集結と物資の兵站地としての役目を担ったようだ。

 城は比高20mほどの丘陵上に築かれ、約70m四方の土塁で囲まれた方形の城である。その規模は方形単郭として県下最大規模であるとされている。乱後は伊賀守護となった雄利の家臣が配されて南伊賀支配の拠点となったようである。

 現在は公園となって郭内は運動場として利用されているようだ。

↑上野城 復興天守

↑上野城 高石垣

↑滝川氏城
11月12日(土)晴/小里城(瑞浪市)

 秋晴れの青空が気持ちの良い一日であった。

 今日は東濃(岐阜県東部)まで足を延ばした。高速道路が整備されたおかげで2時間もあれば浜松から瑞浪まで移動できるので便利になったものである。

 目的地は岐阜県瑞浪市の小里城である。中央道瑞浪ICから15分ほどで県道20号沿いの登城口に到着できる。登城口には小里城跡の幟旗が何本もたっているので分かりやすい。道路を挟んで反対側に駐車場が確保されているのでありがたい。時間は9時半、とりあえず本日の一番乗りのようだ。

 登城口に踏み入るとすぐに石垣が目に入る。その上はかなり広い曲輪になっていて「御殿場」と呼ばれている。慶長期以降(1600〜)に城主館が置かれた場所と見られている。

 御殿場から山頂の本丸へ向かう。比高約180m、登山路の距離が約500mということで、さすがに一気にというわけにはいかない。健脚の方なら20分位で登れるだろうが、私の場合は30分かかった。

 山頂の本丸には天守台の石垣が残っている。苔むす石垣に歴史を感じる。せっせと登ってきた甲斐があったと東屋で腰を下ろしてしばし休息。見どころは何といっても天守台であろう。こじんまりしているが、かつては不等辺多角形ということで安土城との類似性が指摘されたようである。無論、真相は不明である。

 小里城は天文3年(1534)に小里光忠によって築かれたと言われる。その後武田氏の東濃進出によって小里氏はその麾下に従ったが、織田信長の東濃攻略がはじまると織田方に従った。信長の岩村城攻めに際しては小里城に池田恒興が入って改修工事を実施した。天守台の築造はこの時のことであろうか。しかし、翌年に岩村城が落城すると工事は中止されたという。その後小里氏は一時流浪するが関ケ原合戦の功により旧領に復帰した。北麓の御殿場跡はこの時に陣屋として普請されたものであろう。しかし、元和9年(1623)に嗣子なく断絶となり、城は荒廃した。

 いつもながら後ろ髪を引かれる思いで本丸を後にする。下りは10分ほどで御殿場跡に着いた。

↑小里城跡登城口。

↑御殿場大手口

↑本丸天守台
8月18日(木)晴/福与城(上伊那郡)、高遠城(伊那市)

 9時、チェックアウト。かなり、のんびりしたスタートである。城好きの野郎同士であれば朝食もそこそこにしてホテルを飛び出すところであるが、今回は妻ペースと決めているので仕方ない。
 今日の予定は福与城と高遠城へ寄り道して帰ることにしている。
 最初の目的地である福与城までは諏訪湖岸から南西方向へ1時間弱のところにある。上伊那郡箕輪町福与である。伊那谷によくある天竜川による河岸段丘上に築かれた城である。山城と違って段丘の城の場合は段丘上そのものが開発されて農作地や住宅地となっている場合が多く、道路も整備されているので車で城近くまで行くことができるから体力的には楽な訪城となる。
 福与城も搦手に駐車場が設けられていて、そこからすぐに城域内に踏み込むことができる。駐車位置から主郭がすでに見えている。案内路を進むと空堀が現れ、その向こうが主郭である。主郭は三方が空堀で囲まれ、一方は急斜面となって沢が堀替わりとなっている。空堀の北側は段丘の先端で北城と呼ばれる曲輪があり、西側に二の曲輪が同じように空堀を隔てて見えている。
 城主の藤沢頼親は武田信玄の城攻めに50日間耐え抜いたことで知られる。信玄にしては手を焼いた城攻めであったようだ。
 福与城から南へ20分ほど車を走らせると高遠城である。高遠城には桜の時期に二度来たことがある。もちろん桜は見事なものであるが、その分人混みも大変なものである。周辺の道路も駐車場も観光バスやマイカーで混雑している。とても落ち着いて城跡散策などできる状態ではない。
 ところが、城址公園入口に来て驚いた。駐車場には雑草が生え、観光客の姿は見えないではないか。有料の駐車場も看板だけで無料開放状態。入城も有料であったのに出入り自由なのである。
 城内は夏草が伸び、桜の木も葉が生い茂っている。人っ子一人いないのはありがたいが、堀の様子など枝葉の陰になって確認しづらくなっていた。
 天正10年(1582)、伊那路を進軍する織田の大軍の前に武田方は戦わずして崩れゆくなか、高遠城主仁科盛信(武田勝頼の異母弟)のみは踏みとどまって抗戦の意志を明確にし、激戦の後に全滅した。
 それにしても静かだ。観桜期の人混みがうそのようである。しんと静まり返った城跡をあとにして車へ戻った。

↑福与城 主郭

↑福与城 空堀

↑高遠城 本丸虎口
8月17日(水)晴/上原城(茅野市)、桑原城高島城(諏訪市)

 盆も終わり、妻の慰安のために諏訪湖辺りに出掛けることになった。旅に出れば、当然のように城めぐりがそのコースになる。妻も分かっているので最近では理解してくれているのか、何も言わない。要はホテルで据え膳で美味しいものを食べて温泉に入って、のんびりできればそれで満足らしい。
 浜松から諏訪までは道路事情も良いので半日もあれば着いてしまう。諏訪インターからまずは諏訪氏の本拠地であった上原城を目指した。
 インターから国道20号へ出て頼岳寺へ向かう。ものの数分である。頼岳寺前から永明寺山公園へ続く林道を登って行くと「上原城諏訪氏館」の大きな石碑が道路脇に建っている。かつての諏訪氏の居館跡であり、武田氏時代には諏訪郡代が置かれた所である。武田重臣板垣信方が郡代となったことからここを板垣平とも呼ぶ。向かいの山裾には諏訪大社上社が鎮座しているのだ。
 この館跡からさらに林道を上って行くと上原城跡である。大きな看板が立っており、その前には数台分の駐車スペースが確保されている。そこはすでに城域なのである。車を降りて城跡への歩道を歩き始めるとすぐに左側に縦堀が山肌を割って下へ伸びているのが分かる。そして右側には主郭背後を遮断する堀切が現れる。歩道を進むと鳥居があって小さな神社がある三の曲輪である。ここからも諏訪盆地全体が俯瞰でき、戦略的な要害であったことが分かる。社殿の脇を上ると二の曲輪である。ここには物見石と呼ばれる巨大な岩がある。さらに上がると主曲輪である。削平された平坦面が広がっていた。
 天文11年(1542)、武田晴信はそれまでの和平関係を破棄して諏訪へ大軍を向けた。不意の侵攻に驚いた諏訪頼重は直ちに陣触するも多くは集まらず、討死を覚悟したという。そこを近臣らに担がれるようにして上原城を退去、夜陰に紛れて2km北の桑原城に入った。しかし、兵を失った頼重は降伏するほかなく、甲府に連行されて切腹、名門諏訪氏は滅んだ。
 次に上原城を脱した頼重が入ったという桑原城に向かう。再び国道20号へ出て5分ほど北上、四賀を右折すると正面に桑原城の城山が現れる。この城跡へは山麓から徒歩で登らなければならない。登山口は何ヶ所かあるようだが、私は城の北側にあたる県道424号沿いの普門寺口と呼ばれるところから登った。登山口には「桑原城跡登り口」の看板が立っているので分かりやすい。
 ここから徒歩約20分だ。最近、熊に襲われたというニュースが多いので万が一に備えて熊ベルをぶら下げて登る。中腹までは小型の四駆であれば登れそうな道幅があるが、乗用車では無理であろう。真夏の登山は大変だ、たちまち汗だくである。熊の出現はなかったが野ウサギが登山道を跳ねて横切った。
 20分後、削平地に出てホッと一息つく。縄張り図を見ると三の曲輪である。現地の表示板には東曲輪とある。主郭の東側の削平地だからだろう。さらに進むと主郭の南側を回って堀切部分に出る。堀切の東側が主郭、西側が二の曲輪である。二の曲輪の先端からは諏訪湖が見える。主郭には土塁跡も残っており、在りし日の雰囲気を残していた。
 ところで、上原城を脱してここ桑原城に入った諏訪頼重である。翌日の夕刻、風雨の中を敵情視察のために家臣を引き連れて山を下りた。その行為が、せっかく付いて来た城兵たちを不安にさせてしまったのである。城兵たちは大将が逃走したと勘違いして皆、城から逃げ出してしまったのである。頼重が城に戻った時には城兵の姿は無かったというから、もはや運も尽きたと言うほかない。残ったのは一族近臣20余人であったそうだ。これでは戦にならず、武田の和議を受け入れて降伏するほかなかった。
 熊ベルをチリンチリン鳴らしながら桑原城を下り、車の冷房を最強にすると次の目的地である高島城へ向かった。10分ほどの距離である。
 城址公園の駐車場は満車であったので隣接する市役所の駐車場へ車を入れた。人気のある城なんだなと思いつつ城内へと足を向けた。城址公園として整備されている部分はかつての本丸である。まずは内濠に沿って東から北へぐるっと巡る。北面には二重の角櫓、そして冠木門、その向こうに三重の天守が現れる。天守は昭和45年(1970)に鉄筋コンクリートで再建されたものであるが外観は明るい茶色の板張りとなっており、他の天守とは趣が違って独特の雰囲気を醸し出している。公園内に入ると若い人たちがスマホ片手に歩き回っているではないか。駐車場が混んでいた訳がわかった。今はやりのボケGOをやっているのだ。私は史料館となっている天守内部を見学し、本丸内を足早に一周して車へ戻った。なんだか自分が場違いの所に来たような感覚になってしまっていた。
 高島城は天正18年(1590)に秀吉家臣の日根野高吉が諏訪2万7千石を拝領して入部した際に築城されたものである。湖水が城の際まで迫っていたために「諏訪の浮城」と呼ばれたそうだ。現在では埋め立てが進んで湖岸はずいぶん遠のいてしまっている。関ケ原後は諏訪氏を復興した諏訪頼水が旧領に復し、10代続いて明治に至った。
 まだ16時頃であったが、早々と湖岸のホテルにチェックインして温泉に浸かり、一日の疲れをいやした。

↑上原城諏訪氏館跡

↑上原城 入口

↑上原城 物見岩

↑桑原城 本丸

↑高島城 天守

↑高島城 角櫓
7月23日(土)晴/志津城(浜松市西区)
 孫の水遊びに付き合わされて浜名湖庄内半島の南端にあるガーデンパークへ出かけた。このすぐ北側に志津城跡がある。水遊びの帰りに立ち寄ってみた。13年ぶりの再訪である。
 当時は道路脇の茂みの中に城址碑が建っているだけであった。城址碑の北側の丘の上に城主とされる藤原共資公の墓碑が建っていることは知ってはいたがどこから入ってよいやら分からず、話では荒れ果てて立ち入りできるような状態ではないと聞いていたので未確認のままになっていた。
 ところが再訪してみると道路脇の城址碑の周囲は綺麗に除草伐採され、「井伊直虎ゆかりの地」と書かれた赤い幟旗が立ち、説明板まで設置されているではないか。来年の大河ドラマにあわせて設置、整備されたものである。おまけにパンフレットまで用意されていた。それに加えて、共資公の墓碑までの案内地図まで掲げられている。しかも駐車場まで用意されていのだ。ありがたいことである。
 墓碑のある丘を「御山塚」と呼んでいるようだ。藤原共資は遠江の国司になったとされる公家で、井伊氏の初代共保の父とも養父とも言われる人物である。その9代の子孫に日蓮上人が出た関係で昭和30年に建立されたものだそうだ。その墓碑の前に御堂が建っている。昭和31年に落成したと言われ、かなり老朽化している。御堂の周りにはロープが張られて立ち入りが禁止にされているようだ。
 この御山塚のある丘の南側が城址とされる場所で、かつては御山塚のある丘が続いていたもの思われる。それが浜名湖の埋め立てのために切り崩されて平地となってしまったのである。御山塚への路の片側が急な崖になっているのも採土の名残りなのであろう。

↑志津城 城址碑

↑藤原共資公墓碑
4月30日(土)晴後曇/金沢城(加賀)、安田城白鳥城富山城(越中)
 久々の城めぐりである。得意の未明出陣にて高速をひた走りに進めて最初の目的地金沢城に付いたのは8時半であった。天気は晴天、訪城日和りである。

 金沢城は言うまでもなく加賀百万石前田氏の居城である。もとは加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊のあった所で、織田勢に攻め落とされた後に佐久間盛政に与えられて金沢城と呼ばれるようになった。賤ヶ岳の戦い後は前田利家が入城して近世城郭への改修が始められ、以後加賀藩前田氏の居城として明治に至っている。

 明治期以降は陸軍の管轄下に置かれ、戦後は金沢大学のキャンパスとなっていた。平成7年(1995)に大学が移転したのに伴って石川県による復元工事が開始され、現在に至っている。

 さて、訪城開始である。一般の観光客はは東側の石川門口から城内へ入るようだが、へそ曲がりなのか、私たち(例によって相棒のトモ坊と二人連れである)は北側の大手門口へと迂回した。実際には大手口が正面入口であり、石川門は裏口なのである。堂々と正面から入城、といきたいではないか。

 石垣だけとなった大手門の枡形から城内へ入ると新丸広場と呼ばれる広い空間に出る。かつては重臣屋敷や作事所などが置かれていた所である。現在は遮るものが何もないただの広場であるので正面に天守級の菱櫓がそびえて見える。天下の名城を前に気分が高揚してくる。

 新丸広場をまっすぐに進んで河北門の枡形を抜けると三の丸である。そして三の丸広場に出ると見事に復元された菱櫓とそれに続く五十間長屋が正面に現れる。太陽の光を照り返して白く輝く鉛瓦の屋根と白漆喰の壁、そして海鼠壁の組み合わせで全体が高貴な風格を放っている。復元金沢城のメインとなる景観である。向かって右端に菱櫓、左側には橋爪門の続櫓が天を衝いている。

 橋爪門の枡形を抜けると二の丸である。こちらから見る多門櫓である五十間長屋も見事である。さっそく入場券を買って菱櫓へ入る。五十間長屋は横幅も広く約90mの長さがある。立派、の一言に尽きる。
 二の丸には藩主の御殿が建てられており、実質的には金沢城の中心となった曲輪である。

 二の丸南側に堀切に架かる極楽橋を渡ると本丸付段と呼ばれる曲輪である。ここには三十間長屋と呼ぶ倉庫が建っている。当初は食器などを入れていたが幕末期には武器弾薬が置かれていたという。

 ここから東へ木々に囲まれた道を行く。かつての本丸部分である。築城当初は天守や櫓群がそびえていたようだが、江戸初期に焼失して以来再建されることはなかった。現在では雑木林となって踏み入ることも出来ない。本丸から鶴の丸方面へ出る。木々の間を抜けると再び眼前に菱櫓と五十間長屋が現れる。鶴の丸から振り返って見る石垣はこれまた壮観である。

 名残り惜しいが次の予定地に向かわなければならない。石川門から退城である。門を出ると道路を跨ぐ橋を渡って兼六園側に至る。下に見える道路はかつての堀跡である。兼六園には寄らず、みやげ物店をのぞきながら駐車場へと戻った。

 再び高速道路に乗り、北陸道を富山方面へと車を走らせる。富山西ICで降りて国史跡安田城跡へ向かった。

 安田城は戦国期に築かれた平城であるが、その遺構の保存状態が良かったこともあり、全国的にも貴重な事例とされている。天正13年(1585)の羽柴秀吉による富山城の佐々成政攻めの際に本陣となった白鳥城の支城として登場するのが所見とされている城である。前田氏の部将岡嶋一吉が城主となり、慶長年間に廃城となったという短命の城であった。

 城址前には安田城跡資料館が建てられ出土物等が展示されている。駐車場も整備されており、車による訪城者にはありがたい。資料館の二階からは城址全体が俯瞰できるようになっているので最初に立ち寄ったほうが良いだろう。

 城址そのものは三つの曲輪から成り、本丸の周囲は土塁で囲まれている。土塁断面も観察できるように施設が設けられている。

 秀吉が本陣を置いたという白鳥城は安田城の北2kmほどの呉羽山上にある。さっそくそちらに向かう。車で行く場合は山麓を大きく迂回して行くことになるので7kmほどの距離になる。登城口には駐車場も設けられており、展望台も設置されている。

 白鳥城は越中守護代神保氏によって富山城の詰城として使われたとされ、降伏後は上杉謙信のものとなったという。その後、秀吉が富山城の佐々成政攻めの際に利用したとされている。戦後は前田利家の管理下に置かれたがほどなくして廃されたようである。

 駐車位置から尾根伝いに登るが本丸まではさほどの時間は要しない。10分とはかからない距離である。その間に出丸、堀切、井戸跡、二の丸などがある。

 富山県に入ってからは曇り空になっている。なんとなく気が急く。本日最後の予定、富山城へと向かう。

 富山城は天文12年(1543)に神保長職が築いたのに始まり、その後上杉謙信と一向一揆との攻防が続いた。織豊期には佐々成政、前田利長が城主となり、江戸期には加賀藩の支藩である富山藩10万石前田氏の居城として明治に至っている。

 富山城の駐車場は城址公園の地下にあり、公園東側にその出入り口がある。車を停めて歩行者用出入り口から地上に出るとそこは本丸のど真ん中である。南側に目をやると郷土博物館となっている復興天守閣が現れる。昭和29年(1954)に鉄筋コンクリートで建設されたものである。もともと富山城には天守は無かったので完全な模擬天守であるが、戦後復興の建築物として国の登録有形文化財となっている。

 この郷土博物館の石垣とそれに続く枡形の石垣は数少ない遺構の一つである。本丸東側に向かうと公園の出入り口となっている所に千歳御門が移築復元されている。門から北側に続く石垣も遺構である。

 時計を見るとまだ15時前である。予定より2時間ほど早いが、GWの渋滞が怖いので帰路につくことにして富山城を離れた。

↑金沢城 大手口

↑河北門

↑五十間長屋と菱櫓

↑橋爪門

↑五十間長屋と櫓群

↑石川門

↑安田城

↑白鳥城

↑富山城
2月6日(土)晴時々曇/和歌山城真田庵(紀伊)

 今年の年頭訪城は事情があって2月となってしまった。東海地域であれば日帰りでも密度の濃い城めぐりができるのだが、遠隔地へ日帰りでとなるとどうしてもピンポイント訪城となってしまう。いつの日か、のんびりと泊まり込みで全国行脚したいものである。

 さて、例の如く夜明け前に浜松を出陣。高速を西へと車を飛ばした。目標は御三家の城、和歌山城である。
 和歌山城の不明門駐車場に到着したのが午前9時。浜松から5時間である。高速道路のおかげである。一般道ではこうはいかない。確実に一泊を要する。交通機関を使ったとしても午前9時に到着することはできないはずだ。車を使った訪城の良さはここにある。ただし渋滞のリスクは避けようもないが。

 駐車場から石段を上がり、まずは天守をめざす。石段を上がりながら目に入るのが二之御門櫓である。上がりきると多門櫓の先にどっかりと座った大天守が現れる。写真でおなじみの光景である。
 入場料を払って二之御門から天守郭へ入る。隅櫓二つと小天守を多門で繋ぎ囲んだ連立式天守と呼ばれる形式である。

 和歌山城天守は戦前は国宝に指定されていたのであるが、昭和20年の空襲で焼失してしまった。現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

 天守郭を一巡して裏坂を下って北側の二の丸へ出る。二の丸から本丸の石垣に沿って進み、東南の岡口門へと向かう。ここから外へ出て堀の外周に沿って北側の大手門方向へと歩いた。大手門前からさらに堀の外側を西へ向かう。こちらから見る天守も壮観なものである。そして御橋廊下と呼ばれる廊下橋が堀に架かっている。

 西の丸跡には「わかやま歴史館」があって、CG復元された和歌山城がシアターで上映されていた。歴史館の西側を南に向かい、追廻門から再び外へ出る。国道42号と三年坂通りの交差点に八代将軍徳川吉宗公の乗馬像が建っているので、これをカメラにおさめる。そして駐車場入り口の不明門から車に戻った。簡単に一巡しただけであるが、時計を見ると2時間ほど散策していたのである。

 本日はもうひとつ寄りたい所がある。紀ノ川を40kmほど遡ったところに九度山がある。真田昌幸と信繁(幸村)が関ケ原後に蟄居させられた所だ。その後、屋敷跡に善名称院(真田庵)が建てられて現在に至っているのである。史跡名は市指定史跡「真田屋敷跡」である。

 30年ほど前に訪れたことがあるが、当時は観光客の姿を見かけることはなかった。ところが今回は大河ドラマの影響で、町の駐車場は満車、真田庵の境内は観光客で賑わっている。近くの道の駅には真田グッズの専門売店が設置され、観光バスの駐車も可能になっている。大河の影響力ってすごいなと改めて思ったしだいである。

↑和歌山城 天守

↑和歌山城 中門高石垣

↑和歌山城 御橋廊下と天守

↑真田庵