和歌山城
(わかやまじょう)

国指定史跡、百名城

            和歌山県和歌山市一番丁    


▲和歌山城は紀州平定を成し遂げた羽柴秀吉によって築かれた。そ
の後、浅野氏そして徳川頼宣が入城して御三家の城のひとつとなった。
(写真・和歌山城天守と多門櫓。)

豊臣の城から御三家の城へ

 天正十三年(1585)三月から四月にかけて戦われた羽柴秀吉による徹底した紀州攻めによって根来衆や雑賀衆の抵抗は鎮圧された。反権力と自治志向の強い寺社勢力との戦いは織田信長にはじまり秀吉によって終わったといえる。

 その紀伊国を秀吉は弟秀長に与え、近世的支配の拠点として和歌山城を築いたのである。秀吉はここ吹上ノ里の虎伏山にみずから縄張りしたと言われる。普請奉行には藤堂高虎、羽田一庵法印が命ぜられ、年内には本丸、二の丸が完成した。初期の和歌山城である。

 この当時、秀長は大和、和泉、紀伊三ヵ国百万石の太守として大和郡山城に入城して居城としていた。このため、秀吉は桑山重晴を秀長の家老として三万石(後に四万石)を与え、和歌山城の城代とした。

 慶長元年(1596)、重晴は出家隠居して嫡孫の一晴に二万石を譲って城主とした。

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦で天下の情勢は大きく変わることになる。この翌年(1601)、関ケ原の戦功により浅野幸長(よしなが)が甲斐府中(甲府城)から三十七万石を拝領して和歌山城に入った。

 この浅野氏の時代に連立式天守が建造されたと言われ、内堀や石垣の増改築が実施され、また大手を岡口門から一ノ橋口に改められた。そして城下町の整備も進められている。

 慶長十八年(1613)、幸長没して弟長晟(ながあきら)が継ぐ。

 元和五年(1619)、長晟は安芸国へ移封となり、替わって徳川頼宣(家康第十子)が駿府(駿府城)五十万石から紀伊国と伊勢国の一部を合わせて五十五万五千石で入部した。

 元和七年(1621)、二代将軍秀忠から普請費用として銀二千貫を賜り、城の増改築が実施された。この工事は南の丸に高石垣を築くなどして大規模なものとなった。この大規模工事は幕府が目をつけるところとなり、陰謀の嫌疑がかけられたと言われ、付家老の安藤帯刀の弁明で事無きをえたという経緯がある。

 正保年間(1644-47)の城下町拡張工事に際しても幕府の嫌疑がかかり、工事を中止している。城の南に堀止の地名があるが、それは工事中断の名残であると言われている。

 弘化三年(1846)、落雷により天守と櫓4ヵ所、蔵3棟などを焼失した。一般的には天守の再建は認められないのであるが、御三家の家格を考慮して特別に天守の再建が許可され、嘉永二年(1850)に完成した。

 ご存知の通り、紀州徳川家からは八代将軍吉宗、十四代将軍家茂が出ている。

 明治四年(1871)、廃藩となり、和歌山城も廃城となった。城の建造物は取り壊しとなったが、天守のみは和歌山区長らの反対で残されたと言われる。そのおかげで昭和十年(1935)には国宝に指定されたが、残念ながら昭和二十年(1945)七月九日の和歌山大空襲で焼失してしまった。

 戦後、昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート造りで天守が再建され、今日に至っている。


▲二の丸と西の丸に架かる「御橋廊下」。殿様や奥女中が往来す
るための橋で、外から見えないように屋根と壁で覆われている。


 ▲乗用車の場合は和歌山城の南側不明門が入口となる。

▲不明門から入った乗用車用の駐車場。

▲駐車場から新裏坂の石段を上がると最短で天守前に至る。

▲まず見えてくるのが天守曲輪を構成する二の門櫓である。

▲石段を上がりきると天守曲輪南側の下段広場に出る。これは天守曲輪の入口である二の門である。

▲二の門から多門櫓、そして天守。

▲二の門から天守曲輪へ入る。

▲天守曲輪北西隅の乾櫓。

▲天守と小天守。

▲天守から見た天守曲輪。櫓や門のすべてが多門櫓で繋がっている。

▲史跡和歌山城の案内図。

▲本丸から北側へ出る裏坂。

▲裏坂の石垣。築城当初の石垣である。

▲裏坂を下ると二の丸前に出る。

▲「伏虎像」。和歌山城の築かれた山を虎伏山という。この像は戦後に制作されたコンクリート製の二代目伏虎像。初代伏虎像は銅像であったため戦時下に供出されてしまったとのこと。

▲一中門跡の石垣。

▲一中門跡の内側から東面にかけて残る雁木の段々。

▲松の丸櫓台の高石垣。

▲外側から見た岡口門。築城当初の大手門。浅野氏時代に搦手門となる。現在の門は元和7年(1621)の建造物で空襲の際にも焼けずに残った。

▲城の東側の幅広の水堀。

▲浅野氏時代に大手口となった一ノ橋御門。

▲一ノ橋から西に延びる堀と石垣。

▲北側から見た天守。和歌山城の天守は見る方角によって様々な顔を見せてくれる。

▲西の丸跡の「わかやま歴史館」。2階が歴史展示室、1階は観光土産品センターとなっている。

▲わかやま歴史館の西側に建つ史跡碑。

▲赤塗りの追廻門。

▲徳川吉宗公之像。追廻門を出て国道沿いに南へ行くと、県庁前交差点に建っている。
----備考----
訪問年月日 2016年2月6日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「城郭みどころ事典」他

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