甲府城
(こうふじょう)

国指定史跡・百名城

            山梨県甲府市丸の内1丁目    


▲甲府城は甲斐国統治の府城として豊臣期に築城が本格化し、浅野氏
時代にほぼ完成したと言われる。その後は徳川の城として明治に至った。
(写真・本丸北側の稲荷曲輪に復元された稲荷櫓)

徳川の甲斐支配の城

 甲府城は甲斐国唯一の近世城郭として知られるが、それ以前ここは一条小山と呼ばれる武田氏の砦跡であった。

 元々、ここには武田太郎信義の子一条次郎忠頼館を築いた場所で、平安時代のことである。源平合戦時には大いに軍功をたてたが、戦後頼朝に謀反を疑われて謀殺されてしまった。その後、忠頼夫人が菩提を弔うために館跡に尼寺一蓮寺が建立された。

 戦国期、武田信虎による国内統一が進み、躑躅ヶ崎館を中心とする城下町が形成されるとその南端に位置する一条小山には砦が築かれ、一蓮寺は山麓に移されたという。

 天正十年(1582)、織田信長によって武田氏は滅ぼされ、甲斐はその臣河尻秀隆に委ねられた。河尻秀隆は岩窪館(躑躅ヶ崎館の南東約800m)を本拠としたが、本能寺の変後の国人一揆に襲われ討死してしまう。   

その後、徳川家康が甲斐国を領国とし、躑躅ヶ崎館を本拠とした。家康は平岩親吉に一条小山の縄張を命じたとされる。これをもって甲府城の創築とされるが、本格的な築城には至らなかったようである。

天正十八年(1590)、小田原征伐後に徳川家康は豊臣秀吉によって関東へ移され、甲斐は豊臣秀勝に与えられた。翌十九年(1591)、秀勝は岐阜へ移り、秀吉家臣の加藤光泰が甲斐に入った。

加藤光泰は甲府城の築城を積極的に推し進め、内郭部分(本丸、天守曲輪、稲荷曲輪等)が完成したとされる。加藤光泰は翌文禄元年(1592)に朝鮮へ出陣、その翌年に陣没した。替わって浅野長政に甲斐が与えられ、長政の嫡男幸長が甲府城に入り、築城工事が継続されてほぼ完成を見るに至ったとされる。

慶長五年(1600)の関ケ原合戦後、甲斐は徳川領となり甲府郡代として平岩親吉が甲府城に入り、家康八男仙千代、次いで九男義直を後見した。

慶長十二年(1607)からは城番が置かれ、武田旧臣で徳川家旗本となった武川衆を主とする十二人が二人ずつ十日交代で任に当たったとされる。この城番制は徳川忠長が入部するまで続けられた。

徳川忠長は二代将軍秀忠の三男である。元和二年(1616)に甲府二十三万八千石を与えられて藩主となった。寛永元年(1624)には駿河と遠江の一部を加増されて五十五万石となる。しかし寛永九年(1632)、乱行と行状悪化を理由に改易となり、上野国高崎へ逼塞、翌年には幕命により切腹となる。忠長改易後、甲府城は再び城番制となった。

寛文元年(1661)徳川綱重(家光三男)が甲府城主となり、甲府藩が成立した。寛文四年(1664)、半世紀ぶりに甲府城の大修理が実施された。延宝六年(1678)綱重死去により嫡男綱豊が藩主となる。

宝永元年(1704)、綱豊は五代将軍綱吉の後継者として江戸城に入り、家宣と改名した。替わって柳沢吉保が十五万石を拝領して城主となる。吉保の代に曲輪の修復や殿舎の造営が行われた。宝永六年(1709)、吉保は隠居して嫡男吉里が継ぐ。享保九年(1724)、吉里は大和国郡山へ移封となる。

甲斐国は天領となり、甲府勤番が設置される。享保十二年(1724)、甲府城大火。本丸御殿などを焼失した。享保十九年(1734)、盗賊による御金蔵破りが発生、勤番士の怠慢が発覚。慶応二年(1866)、勤番制が廃止され、城代が設置される。

慶応四年(1868)三月、板垣退助らが甲府城に無血入城して新政府の管理下に置かれ、徳川の城としての歴史に幕を下ろした。


▲甲府市歴史公園に復元された山手渡櫓門。

▲本丸南入口の鉄門。

▲城内への北の入口である山手門はJR中央本線の北側にあり、歴史公園として復元整備された。

▲枡形から見た山手御門。

▲外側から見た山手御門。

▲歴史公園から中央本線を越えて南側へ出ると舞鶴城公園として整備保存されている甲府城址である。北の入口から入ると稲荷曲輪である。

▲稲荷櫓。

▲本丸石垣。

▲本丸南東面の石垣。

▲稲荷曲輪門。

▲水溜跡。発掘調査によって初めて確認された。

▲天守曲輪南面の石垣。

▲中の門跡。天守曲輪への入口である。

▲内側から見た鉄門。

▲本丸南西隅に建てられた謝恩碑。明治40年(1907)の水害に対し明治天皇から御料地の下賜があり、その感謝を後世に伝えるために大正11年(1922)に建てられた。

▲本丸と天守台。

▲稲荷曲輪前に建つ城址碑。
----備考----
訪問年月日 2021年12月5日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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