■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2021

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。
城跡・史跡めぐり探訪記 2020
城跡・史跡めぐり探訪記 2019

城跡・史跡めぐり探訪記 2018
城跡・史跡めぐり探訪記 2017
城跡・史跡めぐり探訪記 2016
城跡・史跡めぐり探訪記 2015
城跡・史跡めぐり探訪記 2014
城跡・史跡めぐり探訪記 2013
城跡・史跡めぐり探訪記 2012
城跡・史跡めぐり探訪記 2011
城跡・史跡めぐり探訪記 2010


トップページへ


12月5日(日)晴/甲府城(甲府市)

 武田氏滅亡後甲斐の支配者は織田、豊臣、徳川と変転したが、いずれもが甲斐の府城として甲府盆地の中央の一条小山に城の普請を続けた。舞鶴城とも甲府城とも呼ばれる石垣造りの近世城郭である。

 本格的な築城は豊臣政権時代に始まった。甲府城は関東に移された徳川家を押さえる重要拠点であったのだ。関ヶ原後は甲斐は再び徳川の支配となり甲府城は関東防衛の重要拠点となった。

 現在は内城部分が舞鶴城公園として整備され、稲荷櫓、稲荷曲輪門、鉄門などが復元されている。さらにJR中央本線をはさんだ北側には歴史公園として山手御門が復元されている。甲府城の北の出入口である。

↑甲府城 鉄門
12月4日(土)晴/谷戸城深草館(山梨県北杜市)、新府城(同韮崎市)

 久々の県外一泊。山梨県へと向かった。中部横断道の開通のおかげでかなり手軽に行けるようになった。まずは山梨県東部北杜市である。
 
 ここに国史跡谷戸城跡がある。円郭式の丘城で天正壬午の戦いに際し、後北条氏の手によって修築されたと言われ、土塁、堀などの遺構が訪れる者の目を楽しませてくれる。

 谷戸城の創築は古く平安時代にまで遡る。甲斐源氏の祖となる逸見冠者黒源太清光が当地に根付いたのに始まる。大治5年(1130)頃のことである。その後、清光は多くの男子を儲け、周辺地域に分家進出させて甲斐源氏発展の礎を築いた。

 谷戸城の南約1kmの所に深草館がある。土塁に囲まれた曲輪が南北に二つ連なる城跡である。曲輪内に立ち入るには北側の堀跡に架かる丸太橋をわたらなければならない。

 深草館の創築に関しては明確ではなく、清光の子光長が谷戸城の支城として築いたか、又は清光の家臣堀内氏の居住地であったとされる。

 北杜市に南接する韮崎市に新府城がある。新府城は斜陽著しい武田氏の居城として滅亡の前年から突貫工事で築かれた城である。先祖伝来の躑躅ヶ崎館では大軍の国内侵攻を許してしまった場合に持ち堪えられないからである。

 天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐軍の前に武田の諸城は次々と落城または降伏してその進撃を止められなかった。一旦出陣した武田勝頼であったが後退して普請半ばの新府城に入った。味方の離反、逃亡の続くなかで勝頼は新府城に火を放って家臣小山田信茂の岩殿城へ向かった。しかしその信茂にも裏切られ、勝頼一行は田野の山中で織田軍に追い付かれて自刃して果てた。

↑谷戸城

↑深草館

↑新府城
10月23日(土)晴/重原城(知立市)

 二年と九か月ぶりの三河入りである。

 知立市の重原城は戦国期には織田、今川の勢力争いの渦中にあった城である。はじめ織田信秀の臣荒川新八郎が城を整備して戦いに備えていたようである。その後、今川方の攻撃を受けるなどして弱体化したようだが、再び織田方の山岡伝五郎がこの城に入り、守りを固めた。天文23年(1554)になると再び今川方の猛攻を受けてついに落城してしまう。

 戦国争乱の渦中にあった重原城であったが、現在は城址碑が公民館裏に建ち、竹藪の一部に土塁と堀の跡が見られるだけである。

↑重原城
10月9日(土)晴/久々利城(岐阜県可児市)
 県外訪城は二年振りである。可児市には程よい山城が何ヶ所かあり、かねてより計画していた所である。とりあえず今日は久々利城を訪ねようとピンポイントで出掛けた。

 久々利城は美濃国守護土岐氏一族の土岐康貞の築城になり南北朝時代の頃とされている。康貞の次代より久々利氏を称し、悪五郎と名乗った。悪五郎の名も代々受け継がれ、豪勇の士であったらしい。

 可児郷土歴史館前の駐車場に車を置いて安土桃山街道と名付けられた県道84号を横断、目前に登城口の案内板が立っている。急坂を二三分ほど登れば虎口に到達である。そこから段々に三の丸、二の丸、本丸と見学路が設定されており、木々などもある程度伐採されて整備されている。

↑久々利城
8月8日(日)晴/白羽の湊(浜松市)

 馬込川の河口近くに白羽の湊の碑が建てられている。ここは南北朝の争乱期に遠江における南朝勢力である井伊氏のもとに向かった宗良親王の一行が海路上陸した場所とされている。

 顕彰碑の記によれば、上陸した親王一行は当地の清水家にて静養した後に井伊谷へ向かったとある。その清水家が現在に至るまで連綿と代を重ねていることに驚きを禁じ得ない。

↑白羽の湊
7月18日(日)晴/中泉陣屋(磐田市)、米倉城(森町)

 中泉陣屋は中泉代官所とも呼ばれ、江戸幕府開設後の天領支配の代官陣屋である。天領支配の地域は遠江、駿河、三河、甲斐の広範囲に及んでいる。

 遺構は市街化によりほぼ消滅と言われている。ただ、表門と裏門の移築門が現存しており、裏門は陣屋跡のすぐ近くの中泉寺の山門となっている。

 米倉城は二俣近江守昌長の居城跡と伝えられている。この二俣近江守という武士の名は社山城、中尾生城、二俣城の歴史に必ず登場してくる。系譜や事績についての詳細は明確でなく、どのような人物であったのかは分からない。

 代々今川氏の家臣であったようだが、昌長の時に今川氏親に反する行為があったらしく、そのために二俣郷へ移されたのだという。ここで二俣城(笹岡城)を築くことになる。

 その後再び反今川の疑いをかけられ、今度は米倉に移されたのだという。したがって米倉城は昌長の蟄居の地であったといえる。

↑中泉陣屋裏門

↑米倉城
7月13日(火)晴/白須賀城(湖西市)

 旧国道1号線の潮見坂の急カーブに差し掛かるところに点燈山と呼ばれる丘陵がある。この名はかつて船乗りの目印に火を焚いたところからきている。

 戦国期、今川氏はこの山に砦を築き、国境の警戒のために兵を留めたようである。今川氏の記録には白須賀城の名で記されているという。結局永禄11年(1568)12月の徳川勢の遠州討入りの際にあっけなく落城したようである。

 ただ、城郭としての調査はされていないので遺構の有無は不明である。

↑白須賀城
5月23日(日)晴/谷津砦上野砦奥山館(浜松市北区)

 井伊氏関連史跡で未踏の城館跡を訪ねた。

 まずは気にはなっていたのであるが遺構が明確ではない谷津及び上野の砦跡へ向かった。

 谷津砦、上野砦は三嶽城の支城群のひとつで南北朝争乱の際に、北朝方の三嶽城攻略とともに落城したとされている。両砦ともに井伊谷沖積地の南東台地上に築かれており、谷津砦が先に築かれたとされている。

 谷津砦跡には西側から登り道が整備されており、徒歩五分ほどで頂上に至ることができる。砦跡の頂上部分は農地となっており、遺構の確認は難しい。ただ、ここから眺める井伊谷と正面に見える三嶽城の山容はたとえようもなく素晴らしい景色である。

 上野砦は谷津砦の機能を補うために上野氏が築いたとされる。上野氏は井伊氏一族で井伊家臣団に連なっている。砦跡の現状は土取りと工場造成などで地形が変化していると言われる。踏査も難しそうなので西側から望見することしかできないようである。

 井伊谷から西へ3.5kmほどのところに奥山館跡がある。井伊氏一族の奥山氏の居館跡とされている。方形の台地上が館跡であるが、ここも農地(みかん畑)となって遺構の確認は難しくなっている。

 奥山氏は井伊家中でも筆頭の重臣であった。南北朝の争乱に際しては井伊支城群のひとつ千頭峯城を守って北朝軍と戦っている。

↑谷津砦

↑上野砦

↑奥山館
5月2日(日)晴/鎧塚(掛川市)

 小夜の中山と呼ばれる旧東海道にひとつの塚がある。「鎧塚」と呼ばれるものである。

 今川氏が駿河の守護大名になる以前、中先代の乱では功名手柄をあげるために懸命に戦い、五人兄弟のうち三人までが討死を果たし、今川の武勇を天下に知らしめたことがある。

 ここ小夜の中山では逃げる中先代の反乱軍と追う足利勢が激戦を交えている。足利勢の先陣であったのか今川頼国は反乱軍を追い崩し、敵の大将名越邦時を討取るという大手柄をあげた。

 「鎧塚」は今川頼国が名越邦時を葬ったところと伝えられている。その後、長男である頼国は相模川の戦いで三男三郎とともに壮烈な討死を果たし、二男範満も小手さし原の戦いで討死した。

 今川家は五男範国が引き継ぎ、駿河国の守護となり、代々続いて範国から九代目の義元の時には駿河、遠江、三河の三ヵ国を従える戦国大名に成長してゆくのである。

↑鎧塚

↑鎧塚の碑
4月11日(日)晴/日比沢城本坂居館(浜松市)

 過去のページを見直しているともう一度訪ねてみようと思うところが出て来る。

 浜松市北区三ヶ日町の本坂街道に日比沢城跡がある。私有地にくわえて藪化のために遺構の確認が難しい城跡である。2004年に訪ねた城跡であるが現在はどうなのか、気になって出掛けることにした。

 遺構部分は以前と変わらずに藪の中で踏み入ることは躊躇してしまう。その藪(竹林)も北東部分が伐採、整地されつつあり、やがてはミカン園となると思われた。有名な三ケ日みかんの産地であるから仕方ないことではあるが、遺構部分だけは残してもらいたいものである。

 本坂道をさらに西へ行けば峠を越えて三河へ出る。その手前に戦国期の本坂に関所を構えた後藤氏と思われる居館跡がある。日比沢城主後藤氏と同族であり、国境の街道を押さえることで周辺ににらみを利かしていたものと思われる。

 本坂後藤氏の居館跡とされるのが三ヵ所ほどあるが、そのうちのひとつである大月寺の建つ一帯が後藤氏にまつわる有力者の居館跡とされている。

↑日比沢城 道路右側高台が西郭

↑本坂居館 大月寺
4月3日(土)晴/源範頼供養塔(浜松市)
 コロナ禍と無理のきかない身体のため、史跡巡りが思うようにできない日々が続いている。仕方ないので過去のページを見直す作業を続けている。

 浜松市南区に龍泉寺という禅刹がある。ここには蒲冠者源範頼の巨大な供養塔があることで知られていた。範頼は源頼朝の異母弟で源平合戦では義経とともに大軍を率いて平氏追討に大活躍したが、義経同様に謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれてしまった。この範頼の育った邸宅の地が龍泉寺とその付近なのである。

 自害したのが伊豆の修善寺で、範頼の愛馬はその首級をくわえて浜松のこの地まで駆け戻り、息絶えたとの伝承がある。その愛馬を葬ったとされる「駒塚」が龍泉寺の南側近くにあるというので出掛けることにしたのである。

 駒塚には馬頭観音菩薩が祀られており、周囲も手入れされた植栽で囲まれていた。春の陽光を浴びながら散策するのは気分がいい。

 帰りに範頼の供養塔はと龍泉寺の墓地に立ち寄った。巨大な五輪塔なのですぐに目に入るはずなのであるが、以前の場所にそれが無いのである。替わりに新たな五輪塔が建てられており、驚いた。これでいいのかな。

↑駒塚

↑新たな五輪塔