ひびさわじょう
(ひびさわじょう)

                   浜松市北区三ケ日町日比沢        


▲ 姫街道(国道362号)沿いの丘陵に築かれた平山城である。

去就の迷い

 長享元年(1487)九月、将軍足利義尚による佐々木高頼追討に参陣していたと記録されている後藤九郎某がここ日比沢来住の祖とされている。遠江後藤氏の祖でもある。
 築城は永正(1504〜1521)の頃で、この地方の国人浜名氏に属し、本坂峠を押えて西の守りを担った。
 後藤氏は浜名氏とともに今川の臣下となり、永禄三年(1560)の今川義元の西上には当主後藤九郎真泰が浜名正国とともに従軍している。この時、真泰は不運にも今川義元とともに桶狭間で討死してしまった。
 次代の後藤佐渡守直正も浜名氏との繋がりは深く、佐久城主浜名頼広の妹を娶っていた。
 時は移り、三河統一を果たした徳川家康が今川の衰退に乗じて遠江進出を画策してきた。
 後藤一党で本坂に居を構える後藤実久はいち早く徳川方に誼を通じ、永禄十一年(1568)十二月の家康遠州討入りに際しては徳川の陣に参じている。
 当然、本家の日比沢城主直正にも徳川参陣の打診があったと思われるが、浜名氏との縁を断ち難く、佐久城とともに反徳川の態度をとるに至ったものとおもわれる。迷いの末の決断であったろう。
 さて反抗の色を鮮明にした日比沢城を囲んだのは徳川幕下の戸田忠次の軍勢であった。翌十二年二月、佐久城の浜名頼広が城を捨てて甲州へ逃走してしまった。戦意をなくした直正は戸田忠次に降伏して徳川の軍門に降った。
 しかし、敗者の立場は弱いものである。直正は家康の陣所前で下馬しなかったことを咎められ、山岡半七という者に鉄砲で撃たれてしまった。無残な最期である。
 その後、本家に替わって日比沢城主となったのは本坂後藤の実久であった。
 廃城は天正十八年(1590)、家康の関東入りによってであるとされている。
土塁遺構
▲ 本曲輪と西曲輪を区切る土塁遺構。
----備考----
画像の撮影時期*2004/08