米倉城
(こめぐらじょう)

                   周智郡森町一宮         


▲ 米倉城は二俣近江守昌長が晩年を過ごしたところとされているが、
詳細は不明である。極楽寺の東側山林が城址であるが未整備である。
(写真・竹林となっている城址)

二俣近江守の蟄居城

 遠江の戦国期の城郭史を見ていると築城者又は城主として二俣近江守昌長という武将の名が時折登場してくる。しかしながらその人物像や事績に関しては模糊としてつかみようがない。

二俣氏の名は古くは横地氏(横地城)の幕下に見えるが昌長の系譜であるのかは分からない。確かなことは当初、昌長自身が今川氏親の幕下にあったということらしい。

文亀(1501-03)当時、昌長は社山城(磐田市)に居たとされる。この時期は遠江の覇権をめぐって斯波氏と今川氏が激烈な抗争を繰り返していた時期である。遠江に進出した斯波義雄は一時期社山城に陣取り、今川勢と戦っている。戦いは今川勢が社山城を奪回して斯波勢を撃退、やがて遠江は今川氏親の支配下に置かれることになる。

この社山城をめぐる戦いの時に昌長は斯波方に寝返ったのか、戦後氏親は二俣氏誅滅を命じようとした。しかしながら重臣たちの二俣氏の今川家における忠勤の実績を考慮すべしとの諌言を受けて思い止まったという経緯があった。

死を免じられた昌長は二俣郷へ移され、ここで二俣城を築いたことになっている。ここでいう二俣城は笹岡古城のことである。

永正十一年(1514)、二俣城を居城として十数年を経た頃、昌長は再び謀反の疑いをかけられた。経緯は不明であるが、この時期は尾張守護斯波義達による遠江出兵が実施されていた時期でもあり、内通を疑われたとも考えられる。どうも、今川氏親と昌長は相性が悪かったようだ。

この一件で昌長は米倉に蟄居を命ぜられたといわれる。したがって米倉城は昌長の蟄居城であったことになる。

享禄二年(1529)から天文四年(1535)まで昌長は中尾生城に居たらしいが、経緯の詳細は不明である。ともかく天文二十年(1551)、昌長は米倉においてその生涯を閉じた。


▲城址西麓の曹洞宗極楽寺。二俣昌長が当地に開基した自得院は現在極楽寺に吸収され、昌長が記された過去帳が蔵されている。

▲極楽寺はあじさい寺としても有名で梅雨時には観覧客で賑わう名所である。訪問時はすでに時期を過ぎていたが遅咲きのあじさい一輪が出迎えてくれていた。
----備考----
訪問年月日 2021年7月18日
主要参考資料 「遠江武将物語」他