社山城
(やしろやまじょう)

市指定史跡

                   磐田市社山           


▲ 本丸跡。社殿裏手には土塁が巡っている。
(写真・本丸跡/2023)

天竜川渡河点の
          城塞

 現在の天竜川は城址のかなり西方を流れているが、戦国当時には直下を洗っていた。別名水巻城と呼ばれる所以である。そして数少ない天竜川の渡河地点を押える要衝でもある。

 創築年代は糢糊として分からないのが実情である。この城の南方に匂坂城があるが、一説ではその城の城主匂坂氏の始祖鷺坂十郎則實(参議中将藤原朝實の長子)が寛和年間(985〜7)に下向して当地に築城、十一代にわたって続いたといわれている。

 さて社山城が史上にその名を現すのは文亀元年(1501)、遠江の覇権をめぐる斯波、今川両氏の争いに際してである。

 遠江守護斯波義寛の弟義雄が社山城に陣取り、今川方の軍勢と戦ったのである。戦いの経緯は分からないが、城は今川方によって占有され、義雄は二股城へ退いた。その後も両者の戦いは続き、やがて斯波氏は遠江から駆逐され今川氏による同国支配が確立して行くことになる。

 永禄十二年(1569)、今川氏の没落により遠江西部は徳川家康の進出するところとなり、当城もその支配下に置かれたはずである。

 元亀三年(1572)、武田信玄による遠江進攻が始まったが、この附近は天竜川の渡河点でもあるところから武田の大軍の駐屯するところとなり、当城もその一端を担ったものと思われる。

 信玄が布陣したという合代島は当城北側一帯の地名である。

 武田軍の去った後は再び徳川氏の支配となり二俣城奪回戦の砦として利用されたようである。

 その後、社山城の名は記録に出てこない。


▲本丸

▲説明板。

▲2023再訪時の本丸。説明板は撤去され、社殿の屋根は朽ちかけていた。

▲堀切と土橋。

本丸の社殿横に植えられた蘇鉄(2023)。

▲匂坂四代共長が今川家の命により築城した際に三本の蘇鉄を植えたが、十一代長能の時に匂坂城を築いて移り、蘇鉄も匂坂城に移した。元亀三年、武田信玄により匂坂城は焼失、蘇鉄は宝暦年間(江戸時代)に増参寺へ二株、匂坂本家へ一株移植された。往時を想い故事を記念してその後裔を里帰りさせた。

▲堀切。

▲本丸跡から天竜川方向を望見。

▲東側から城址を望見。
----備考----
訪問年月日 2005年4月10日
再訪年月日 2023年1月21日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他