匂坂城
(さぎさかじょう)

                   磐田市匂坂           


▲ 畑地の広がる匂坂の風景。匂坂長能は山間部への築城を避け、平地の城を拠点とした。
(写真・畑地に建つ城址碑)

武門に生き、
         八幡の神とならん

 天文元年(1532)、匂坂氏十一代六郎五郎長能(四十二歳)はそれまでの館を大修築して、これを匂坂城とした。一族郎党はホラの谷(磐田原台地の縁辺部)への築城を進言したが長能はこれを退け、
「われに守りの城は無用なり」
 と、武田信玄の如く平地の城に決したのであった。

 当時は天竜川の支流が台地の縁辺を洗っており、城は本流と支流に挟まれた州にあった。平地とはいえ、天然の要害といえよう。

 天文四年(1535)、主家今川氏の命により長能以下匂坂党は奥山城へ移った。同十六年(1547)、匂坂に戻り、今川義元から本領を安堵された。

 同二十年(1551)、今川義元の三河攻略の先手として三州長沢城にいた長能は吉田城の戸田氏を討ち、その功により三州野田郷を受領した。さらに同二十三年(1554)、松平広忠死後の岡崎城に入り、三百五十貫文を加増された。

 弘治四年(1558)、三州寺部城の鱸(すずき)日向守重治を討ち、寺部領半分を得る。永禄四年(1561)、三州牛久保城にて今川氏真より四百貫文を加増された。

 永禄七年(1564)、今川の衰退により三河から匂坂に戻った長能はあくまで今川への忠義を通し、謀反する堀越六郎を討ってその所領を得る。この翌年にも牧野、高林、気賀の各氏が今川に背いたが、長能はこれらを治めて氏真より感状を授かった。

 永禄九年(1566)五月十一日、匂坂城において長能卒。享年七十六歳。終始今川氏に忠節を尽くし、戦乱の時代を生き抜いた豪傑であったといえよう。死後、土地の八幡社に祀られ、従五位下衛門府尉であったことから金吾八幡と称された。家督は三男の六郎五郎吉政が継ぎ、今川への忠義は厚かった。しかし、この三男継承ということが後に波乱をよぶことになる。

 永禄十一年(1568)、徳川家康による遠江進出と武田信玄の重臣秋山信友の遠江侵攻があり、遠江の国衆は今川を離反して徳川に付くか、武田に付くかの選択を迫られることになった。匂坂氏もその例外ではなく吉政は武田に属するために二俣城に布陣する秋山の陣所を訪れて記帳したという。ところが同時に兄六郎左衛門式部政信(この時、今川氏真の逃げ込んだ掛川城に籠城して徳川勢と戦っていた)の子政祐が現れて「我こそ匂坂の嫡流でござる」と秋山に面会したのである。驚いた吉政は帰路に政祐を討ち取り、その足で掛川城攻囲中の徳川家康のもとへ駆け込んだ。家康は吉政に所領安堵を約した。

 掛川城開城後、兄政信も徳川方に合流し、匂坂氏は一族揃って家康の臣下となった。長能の武勇を聞いた家康は郷の鎮守とするように命じ、所領七百九十貫を安堵した。元亀元年(1570)の姉川の戦いでは兄弟揃って家康に従軍、吉政が朝倉方の部将真柄十郎左衛門直隆を討ち取る手柄をたてた。兄政信は家康から刀を与えられ、織田信長からは「長」の字を与えられて以後は長親と名乗った。

 その後、吉政の子孫は徳川の幕臣として続いた。吉政自身はある日、政祐の子に襲われて命を落としたという。

▲畑地の道路脇に立てられた城址碑

▲県教委では磐田原台地の突出部(画像中央)を城址としている。
----備考----
訪問年月日 2004年2月8日
再訪年月日 2006年1月29日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他