さぎさかじょう
(さぎさかじょう)

                   磐田市匂坂           

匂坂城
▲ 畑地の広がる匂坂の風景。匂坂長能は山間部への築城を避け、平地の城を拠点とした。

武門に生き、
         八幡の神とならん

 天文元年(1532)、匂坂氏十一代六郎五郎長能(四十二歳)はそれまでの館を大修築して、これを匂坂城とした。一族郎党はホラの谷(磐田原台地の縁辺部)への築城を進言したが長能はこれを退け、
「われに守りの城は無用なり」
 と、武田信玄の如く平地の城に決したのであった。
 当時は天竜川の支流が台地の縁辺を洗っており、城は本流と支流に挟まれた州にあった。平地とはいえ、天然の要害といえよう。
 天文四年、主家今川氏の命により長能以下匂坂党は奥山城へ移った。同十六年、匂坂に戻り、今川義元から本領を安堵された。
 同二十年、今川義元の三河攻略の先手として三州長沢城にいた長能は吉田城の戸田氏を討ち、その功により三州野田郷を受領した。さらに同二十三年、松平広忠死後の岡崎城に入り、三百五十貫文を加増された。
 弘治四年、三州寺部城の鱸(すずき)日向守重治を討ち、寺部領半分を得る。永禄四年、三州牛久保城にて今川氏真より四百貫文を加増された。
 永禄七年、今川の衰退により三河から匂坂に戻った長能はあくまで今川への忠義を通し、謀反する堀越六郎を討ってその所領を得る。この翌年にも牧野、高林、気賀の各氏が今川に背いたが、長能はこれらを治めて氏真より感状を授かった。
 永禄九年五月十一日、匂坂城において長能卒。享年七十六歳。終始今川氏に忠節を尽くし、戦乱の時代を生き抜いた豪傑であったといえよう。死後、土地の八幡社に祀られ、従五位下衛門府尉であったことから金吾八幡と称された。
 その後、時勢には逆らえず匂坂党は今川を見限るに至る。そして武田に付くか徳川に付くかで多少の波乱はあったものの結局は徳川に属することになった。長能の武勇を聞いた家康は郷の鎮守とするように命じ、所領七百九十貫を安堵したのであった。
城址碑 ▲ 畑地の道路脇に立てられた城址碑。 城址
 ▲ 県教委では磐田原台地の突出部(画像中央)を
   城址としている。
----備考----
画像の撮影時期*2004/02及び2006/01