岡崎城
(おかざきじょう)

                   岡崎市康生町          


▲ 岡崎城天守閣。竜城(たつき)神社の社殿越しに見た天守閣の
英姿である。竜城神社の祭神は徳川家康と本多忠勝である。

人の一生は、
       重荷を負いて

 岡崎城の天守閣入り口前に「東照公遺訓碑」が建てられている。そこには「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し、急ぐべからず…」ではじまる徳川家康の遺訓が刻まれている。遺訓の真偽のほどはともかく、戦国乱世の世を生き抜き、天下泰平の世を開いた家康ならではの人生訓であり、だからこそその言葉は多くの人々の心に響くのではないだろうか。重荷の中身は人それぞれ違いはあるものの、誰しも皆それを背負って道(人生)を歩いているのである。
 天文十一年(1542)十二月、ここ岡崎城内で将来大きな重荷を背負うことになる男子が呱々の声を上げた。家康こと竹千代の誕生である。父は松平宗家八代広忠十七歳、母は於大の方十五歳であったという。
 岡崎城が松平宗家の居城となったのは七代清康からである。それまでは三代信光の五男光重を祖とする岡崎(後に大草)松平氏の居城(厳密には南隣の明大寺城)であり、それ以前は西郷氏の拠るところであった。
 西郷氏は仁木義長が三河国守護であった時代(観応二年/1351〜延文五年/1360)に守護代として同国額田郡に根付いた国人である。その何代目か後、西郷弾正左衛門頼嗣がその居城である明大寺城の北側(菅生川の対岸)の龍頭山と呼ぶ丘に砦を築いた。康正元年(1455)のことで、この砦が後の岡崎城となるのである。
 文明三年(1471)、岩津城の松平信光が安祥城を奪った。続いてその矛先を岡崎の西郷氏に向けたのである。勢い盛んな松平勢の前に西郷頼嗣はあえなく敗れてしまった。信光は西郷氏を滅ぼさずに五男光重を頼嗣の婿養子に入れ、その跡目を継がせたのである。これが先述したように岡崎松平氏のはじまりとなった。
 光重の後は子の親貞が継いだが、親貞には子がなく、三代目は頼嗣の子信貞が跡を継いだ。信貞は近郷を押領したり、西郷の姓を名乗るなどして松平宗家に反抗的であったようである。安祥城の清康は大永四年(1524)に山中城を襲って信貞を破り、松平宗家の威信を示した。信貞は清康に降り、明大寺城をも譲って大草に隠退した。
 清康は信貞の娘於波留を娶り、安祥城から明大寺城に居城を移した。しかしこの城は狭く、城としての機能も十分ではなかった。このため菅生川の対岸の龍頭山の砦を拡張して城塞化し、ここを居城とした。これが岡崎城である。
 青年武将清康は行くところ敵なしの勢いで、岡崎城主となって十年余で三河国内を統一してしまった。ところが天文四年(1535)、尾張の織田信秀と戦うため守山に布陣中、家臣によって殺されてしまった。この事件で松平勢は総崩れとなり、桜井の松平信定が宗家乗っ取りの野望を持つなどして岡崎城は風前の灯火状態となってしまった。
 この時、岡崎城には清康の子広忠が居たが、まだ十歳であったため、信定の動きを警戒して城を脱し、身を隠したのであった。岡崎城には清康の弟で三木松平信孝が入って守りを固めた。
 広忠は伊勢や遠江を流浪して天文六年(1537)に今川義元の援けを得て岡崎城に戻ることができた。これより松平宗家は今川氏の一部将となったわけである。
 この結果、三河は今川義元と織田信秀の激突する場となり、岡崎周辺はその最前線となった。天文十一年(1542)と十七年(1548)には小豆坂合戦があり、松平勢は今川方の下知に従って奮戦している。
 家康が生まれたのはそうした状況下であった。今川の下風に耐えねばならなかった松平家臣らにとって家康の誕生は将来の一縷の光明となったに違いない。
 しかし、天は無情にも幼い竹千代と松平家臣らに試練の鞭を加え続けた。
 天文十三年(1544)、竹千代の母於大の方の実家水野信元(刈谷城)が織田信秀に寝返った。今川の手前、広忠は妻於大の方を離縁せざるを得ず、竹千代はわずか三歳にして母と生別れとなってしまった。

▲ 岡崎公園の二の丸跡に建つ徳川家康の像。家康公350年祭を記念して昭和40年4月に完成した。この姿は関ヶ原合戦から江戸城改築期にかけての雄姿とされている。
 天文十六年(1547)、六歳になった竹千代は今川の人質として駿府に送られることになった。ところが警護役の戸田康光(田原城)が海路尾張に竹千代を届け、織田信秀に渡してしまったのである。
 天文十八年(1549)、岡崎城内で広忠が家臣の手によって殺された。享年二十四歳の若さであった。
 この時、今川方の動きは素早かった。岡崎城を織田方に取られるおそれがあったからである。今川の軍師太源崇孚雪斎は直ちに城番を派遣、自らは軍勢を率いて矢作川を渡り、織田方の安祥城を攻めた。雪斎は安祥城に居た織田信秀の子信広を捕らえ、竹千代との人質交換に成功したのである。
 人質交換で岡崎城に二年ぶりで戻った竹千代であったが、数日後には今川の人質として駿府に送られた。以後、十九歳までの十二年間を駿府で過ごすことになり、岡崎城は今川方の管理下に置かれ続けた。竹千代はこの人質時代に駿府で元服して元信と名乗り、今川家臣の関口義広の娘(後の築山御前)を娶った。
 弘治二年(1556)五月頃、元信(家康)は亡き広忠の法要のために岡崎城に戻った。この時、老臣鳥居忠吉が城内の蔵に元信を案内して密かに蓄え続けた銭や米を見せたという。
「お家再興のときに備えましてござりまする」
 今川統治下にあって窮乏にあえぎながらも家臣らによって蓄えられたものであった。若き家康の全身に感奮の血潮が沸き立ったに違いない。
 永禄元年(1558)二月、元信改め元康となった家康は岡崎衆を率いて寺部城、西広瀬城、挙母城、梅坪城(何れも豊田市)などを攻め、初陣を果たした。家康の若武者ぶりに松平家臣らが振い立ったことは云うまでもない。今川義元もその戦功を認めて山中三百貫文の地を与えている。しかし、家康の岡崎復帰はまだ許されなかった。
 永禄三年(1560)五月、今川義元が西上の大軍を発した。家康は岡崎衆を率いて先陣、孤立していた大高城の兵糧入れを見事にやってのけた。ところが、総大将義元本人が織田信長の奇襲によってその首を取られてしまったのである。今川勢は総崩れ、家康らも岡崎に退却して大樹寺に入った。
「わしは駿府には戻らぬ。これよりは皆とともにあるべし」
 松平家臣の悲願であった当主が岡崎に帰ってきたのでる。家臣らの頬に歓喜の涙が溢れ、その雄叫びは岡崎の空にこだました。
 今川勢の岡崎周辺からの撤収を見届けた家康は岡崎城に入った。義元の嗣子氏真に三国(駿河、遠江、三河)統治の力量なしとみた家康は母於大の方の兄水野信元の進言もあって、今川を見限り織田信長と和睦したのであった。
 この後、家康は三河平定を進め、永禄七年(1564)には平定を成し遂げた。永禄九年(1566)、徳川に改姓した家康は永禄十一年(1568)の暮れ、ついに遠江へ出陣した。
 翌十二年、掛川城に今川氏真を破った家康は元亀元年(1570)にその居城を浜松城に移し、遠江経略に取り掛かったのである。
 家康が浜松城に移った後、岡崎城主となったのは嫡子信康であった。信康は信長の娘徳姫を娶っていたが、彼女の讒言により武田方内通の嫌疑を信長から受け、天正七年(1579)に遠江二俣城に於いて切腹させられてしまった。家康痛恨の出来事であったが、国を守り、自分に生命を託して従う家臣らを守るために家康は歯を食い縛って耐えた。
 その後、岡崎城は石川数正が城代となり、天正十三年(1585)に数正が秀吉のもとへ出奔した後は本多重次が城代をつとめた。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封後は豊臣家臣の田中吉政が城主となった。吉政は城地を拡大して城下町の整備を行ったという。
 慶長六年(1601)、関ヶ原合戦後の国替えにより岡崎城には譜代本多康重が五万石で入封した。本多氏は三代続いて遠江横須賀城に移ったが、この間に岡崎城は近世城郭としての形が整ったとされている。
 正保二年(1645)、本多氏に替わって水野忠善が五万石で入った。水野氏は七代百十七年にわたり続いた。四代藩主忠之は老中として享保の改革を推し進めたことで知られる。
 宝暦十二年(1762)、水野氏は肥前唐津に転封、替わって松平康福(やすよし)が岡崎城主となった。
 明和六年(1769)、本多忠粛(ただとし)が封ぜられ、翌年岡崎城に入った。この本多氏は先の本多康重の系譜ではなく、徳川四天王本多忠勝の家系である。忠粛は忠勝の十一代目にあたる。本多氏は六代続いて明治を迎えた。
 明治六年(1873)、城は取り壊しとなったが、後に本丸とその周辺が公園として保存されることとなり、岡崎公園として現在に至っている。
 ▲ 岡崎公園の玄関口として平成5年(1993)に建てられた大手門。
▲ 二の丸から持仏堂曲輪への入り口。道の両側は空堀となっている。

▲ 清海堀と呼ばれる本丸北側の堀。西郷弾正左衛門は清海入道と呼ばれていた。

▲ 本丸の天守閣。右側(東)に付随しているのは井戸櫓、手前(南)に付櫓が備わっている。

▲ 天守閣前に建つ「東照公遺訓碑」。この遺訓は慶長8年(1603)、征夷大将軍となった年に書かれたという。

▲ 本丸西側の坂谷曲輪跡の「えな塚」。勿論、家康のものである。

▲ 「東照公産湯の井戸」。坂谷曲輪跡にある。天文11年(1542)12月26日、家康誕生の祭に産湯の水をこの井戸から汲んだという。

▲ 坂谷門跡の石垣。坂谷曲輪と白山曲輪に通じる門跡。

▲ 徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の像。二の丸跡に建つ。

▲本丸北側の堀と紅葉(2014再訪)。

▲本丸天守(2014再訪)。

▲天下人家康公出世ベンチ(2014再訪)

▲二の丸御殿の井戸(2014再訪)。

▲井戸を覗く。2007年に発見された(2014再訪)。

▲東隅櫓。2010年再建(2014再訪)。
----備考----
画像の撮影時期*2009/01
再訪・画像追加*2014/11/30

 トップページへ三河国史跡一覧へ