小豆坂古戦場
(あずきざかこせんじょう)

                   岡崎市戸崎町            


▲ かつてはこの付近に散在していた石碑も現在ではこのように一所にまとめら
れている。ここには小豆坂古戦場碑、槍立松、血洗池跡の石碑が建っている。

今川・織田、
     激突の戦場

 小豆坂における今川・織田の戦いは一般的には天文十一年(1542)八月と天文十七年(1548)三月の二度にわたって起きたとされている。
 天文十一年の戦いは、生田原(岡崎東部)に四万の軍勢を進めた今川勢とそれを迎え撃つために安祥城を出撃した織田勢四千がここ小豆坂で戦ったというもので、戦いは織田勢の優勢で終始したと云われている。
 天文十七年の戦いは、松平広忠(岡崎城)の要請に応じた今川勢とそれに対する織田勢との戦いで、今回は松平勢の奮戦があって織田勢を撃退し、今川勢の優勢勝ちであったと云われている。
 戦いに至る経緯を簡単に見てみよう。
 天文九年(1540)に尾張で勢い盛んであった織田信秀(信長の父)が弱体化していた松平氏の安祥城を落とし、ここを織田方の前線拠点としてしまった。
 安祥城は松平氏が岡崎城に移るまで本城としていた重要な城であった。松平家の当主広忠(家康の父)は織田に屈する道を選ばす、あくまで今川の力を頼みとし、天文十四年(1545)に安祥城の奪回を試みたというが失敗している。天文十一年の戦いがあったとすればこの間のことになる。
 安祥城の奪回に失敗した後、しだいに松平家内部にも織田方に通じる者が出てきた。松平信孝(広忠の叔父)が安祥城の北に織田方によって築かれた山崎城の城主となった。また岡崎城の南の上和田城には松平忠倫が入って織田方に属した。
 天文十六年(1547)、岡崎離反組を従えた織田信秀の軍勢と松平勢が矢作川の渡(岡崎市渡町)で戦い苦戦している。広忠は苦境を打開するために竹千代(家康)を人質に入れて今川の強力な支援を仰いだ。この時に竹千代が戸田氏(田原城)によって強奪され織田方に渡されたことは周知のことである。
 天文十七年三月、四面楚歌の岡崎城を救うため、軍師太原崇孚雪斎を主将、朝比奈泰能を副将とする今川の大軍が岡崎に向かった。
 以下「三河物語」をもとに戦いの様子をのぞいてみよう。
 今川勢の出陣を聞いた織田信秀は直ちに清洲城を出陣、安祥城に進んだ。そして矢作川を渡り、上和田城に陣を構えた。
 合戦の日、信秀は馬頭之原(位置不詳/小豆坂の東・美合町、藤川町辺りか)に押し出して決戦しようと上和田城を未明に出陣した。
 この頃、今川勢も兵を進め、小豆坂にさしかかろうとしていた。お互いに起伏の多い山道を進んでいたために先方の動きが見えずにいたのである。
 織田の先陣織田信広の軍勢が小豆坂に登りかかったところで今川の先陣と鉢合わせとなり仰天したという。両軍直ちに戦いとなったことは云うまでもない。
 戦いは今川勢が優勢で織田信広勢は盗木(位置不詳)まで後退してしまった。

▲ 現在では開発がすすみ、かつての小豆坂も緩い坂道となって車が行き交っている。
 盗木に本陣を進めていた織田信秀は督戦して小豆坂の下まで今川勢を撃退したが、ここで戦闘は一進一退の状況となってしまった。
 結局、両軍ともに兵を退いて合戦は終ったが、犠牲者の多かった織田勢の敗北であったと云われている。
 どの資料にも記されていないが、小豆坂で最初に織田勢と鉢合わせしたのは今川の露払いであった松平勢であったことは云うまでもない。名のある家臣が主君を見限り、離反してゆく中にあって妻子はおろか自らの一命をもかえりみず岡崎にとどまった愚直一途な三河武士たちであったことを。
 ちなみに天文十一年の戦いは当時の状況からみて無かった(小和田哲男著「今川一族」)との見方がある。
 ▲ 「小豆坂古戦場」の碑。
▲ 「槍立松」の碑。天文十一年の戦いで活躍した織田方の七人の勇士が松の木に槍を立てて休息したとの伝承がある。この七人は後に小豆坂七本槍と呼ばれたそうだ。

▲ 「血洗池跡」の碑。合戦で血に染まった刀や槍を洗ったという。

▲ 「紋の碑」。松平、今川、織田の家紋が彫られた記念碑。

▲ 「小豆坂戦没者英霊記念碑」。

▲ 古戦場碑のある小公園に立てられた説明板。岡崎市の指定史跡となっている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/01

 トップページへ三河国史跡一覧へ