刈谷城
(かりやじょう)

        愛知県刈谷市城町         


▲ 刈谷城は織田・今川という大勢力の狭間に在って独立の立場を維持し続け
ようとした水野氏の居城である。現在は本丸部分のみが公園として残されており、
市民散策の場となっている。(写真・今では城池と呼ばれている本丸東側水堀の跡)

戦国の独立武将、
       水野氏の居城

 天文二年(1533)、緒川城主水野忠政は衣浦湾の対岸である刈谷に新城を築いて移った。刈谷の地には六十年ほど前に初代緒川城主であった忠政の曽祖父貞守がすでに城(刈谷古城)を築いて一族の者を配していたが、忠政は水野氏の本城として新たに城を築いたものと思われる。しかし、水野氏の事歴や系譜に関してはその解釈に諸説あって一筋縄では片付けられない難しさがあることを付記しておきたい。
 水野氏の歴史の中で忠政の娘於大の存在を忘れてはならない。於大は天文十年(1541)に岡崎城の松平広忠に嫁した。忠政が松平氏と同盟することで尾張織田氏に対抗しようとするための政略結婚であったことは言うまでもない。翌年、於大は竹千代を生んだ。すなわち徳川家康である。この事が後に水野氏を譜代大名・幕閣として繁栄させて行く事になる。が、これは後々のことである。
 独立独歩、戦国の世を生き抜くことは容易ではない。忠政の後を継いだ信元は勢い盛んな織田信秀に組する道を選んだ。
 当然、岡崎の広忠は後ろ盾の今川氏に遠慮して於大を離縁した。今川氏は松平氏とともに織田氏の侵略から三河を守ってくれているのである。天文十三年(1544)、於大は三歳の竹千代と別れて刈谷に戻ってきた。天文十六年(1547)、於大は阿久比城主久松俊勝と再婚した。
 強大化する今川氏の版図拡大は止まることを知らず、三河・尾張の境を越えて大高城鳴海城に兵を置くまでになり、やがて永禄三年(1560)の今川義元みずからによる尾張攻略戦へと進展してゆくことになる。知ってのとおり、義元はこの戦いで不覚にも織田信秀亡き後を継いだ信長の奇襲を受けてその首を渡してしまった。桶狭間の戦いである。信元はこの時、表面上は織田方の立場にあったが、積極的に兵を出すようなことをしていない。勝った方に付く、いわゆる二股を決め込んでいたのかも知れない。

 その因果であろうか、刈谷城は桶狭間合戦後に鳴海城から撤収して帰国途次にあった岡部元信の攻撃を受けて焼かれてしまった。この時に刈谷城に居た信元の弟信近が討取られている。
 その後、信元は信長と松平元康(徳川家康)の清州同盟の仲介役となったことで知られる。そして信長の命に応じて各地の戦いに参陣、織田の協力者としてあり続けた。
 天正三年(1575)、信元は三河大樹寺において謀殺された。佐久間信盛の讒言によって武田方への内通を疑われ、これに激怒した信長の命を受けて家康が手を下したものである。内通云々はともかく、織田・徳川の間に独立勢力としてあり続けようとする水野氏の存在そのものが邪魔なものになっていたのかも知れない。その後、信元の所領は佐久間信盛に与えられた。


▲ 城池南側角に建てられた城址碑。

 天正八年(1580)、信長は佐久間信盛を追放して水野忠重を刈谷城主とした。
 忠重は信元の末弟であり、於大の同母弟であった。信元とは反りが合わず、家康に属して戦功を重ねていたのであるが、この時に信長に召し出されたかたちとなり、織田家臣となったことになる。信長亡き後は織田信雄、次いで秀吉に臣従した。慶長五年(1600)、関ヶ原合戦には東軍家康方に属したが、本戦直前に知立において酒宴中に斬殺された。忠重嫡男勝成は会津征伐に従軍中であったが、家康の命により刈谷に戻り、三万石の遺領を継いだ。
 勝成は小牧・長久手合戦時の桑名の陣中にあった時に父忠重の家臣を斬って出奔しており、父から勘当され奉公構えとされていた。その後十五年間、諸国を遍歴した後に家康の仲介で仲直りしていた。遺領を継ぐ前年のことであった。
 刈谷城は初代藩主となった勝成の手によって近世城郭へと改築され、別名亀城と呼ばれるようになる。元和元年(1615)、大阪の陣の戦功により大和郡山六万石(郡山城)、次いで備後福山十万石(福山城)へと封じられた勝成はそれぞれの地で築城の才を見せている。
 刈谷藩はその後、譜代の城主が目まぐるしく入れ替わり、延享四年(1747)に土井利信が二万三千石で封じられて後は土井氏が九代続いて明治に至った。

 ▲ 亀城公園入口。刈谷城は別名亀城と呼ばれている。
▲ 本丸跡。戦後、植栽が進められ公園として整備された。

▲ 本丸の三層櫓跡に建てられた十朋亭。大正5年(1916)、士族会員の会合場所として建てられ、昭和47年(1972)に改築された。

▲ 本丸北側の土塁。右下は帯郭跡である。

▲ 登城した日は本丸の発掘調査中であった。

▲ 本丸北側の池。水堀の跡でもある。
----備考----
訪問年月日 2012年2月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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