(かりやじょう)
▲ 刈谷城は織田・今川という大勢力の狭間に在って独立の立場を維持し続け
ようとした水野氏の居城である。現在は本丸部分のみが公園として残されており、
市民散策の場となっている。(写真・今では城池と呼ばれている本丸東側水堀の跡)
戦国の独立武将、
水野氏の居城
天文二年(1533)、緒川城主水野忠政は衣浦湾の対岸である刈谷に新城を築いて移った。刈谷の地には六十年ほど前に初代緒川城主であった忠政の曽祖父貞守がすでに城(刈谷古城)を築いて一族の者を配していたが、忠政は水野氏の本城として新たに城を築いたものと思われる。しかし、水野氏の事歴や系譜に関してはその解釈に諸説あって一筋縄では片付けられない難しさがあることを付記しておきたい。 |
その因果であろうか、刈谷城は桶狭間合戦後に鳴海城から撤収して帰国途次にあった岡部元信の攻撃を受けて焼かれてしまった。この時に刈谷城に居た信元の弟信近が討取られている。 |
▲ 城池南側角に建てられた城址碑。 |
天正八年(1580)、信長は佐久間信盛を追放して水野忠重を刈谷城主とした。 |
▲ 亀城公園入口。刈谷城は別名亀城と呼ばれている。 | ▲ 本丸跡。戦後、植栽が進められ公園として整備された。 |
▲ 本丸の三層櫓跡に建てられた十朋亭。大正5年(1916)、士族会員の会合場所として建てられ、昭和47年(1972)に改築された。 |
▲ 本丸北側の土塁。右下は帯郭跡である。 |
▲ 登城した日は本丸の発掘調査中であった。 |
▲ 本丸北側の池。水堀の跡でもある。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2012年2月4日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |