鳴海城
(なるみじょう)

              愛知県名古屋市緑区鳴海町城     


▲ 鳴海城は戦国当時、海に面した城であった。満潮時には城のすぐ下まで潮に浸かったといわれ、
なかなかの堅城であったと伝えられている。現在、城址は鳴海城跡公園となって子供たちの遊び場と
なっている。城跡を示すものは何もないが、周辺より高台となっており、要害であったことを偲ばせている。

今川の牙城

 鳴海城が今川の牙城としてその名を歴史に記すのは桶狭間合戦(永禄三年/1560)における織田、今川の争いの渦中に於いてである。
 それ以前の城史についてはほとんど伝えられていないようだ。築城者が愛知郡の安原備中守宗範という土豪で、応永年間(1394-1428)のことであったと伝えられている程度である。
 安原備中守亡き後、城は廃せられていたが、時が移って天文の頃(1532-55)に織田信秀が国境を固めるためにこの古城跡を取り立てて山口左馬助教継を城主とした。
 山口教継は笠寺(名古屋市南区)付近の土豪で、信秀に従って小豆坂合戦など対今川戦で戦功を上げるなどして信秀の信任が厚かったと言われている。しかし、天文二十年(1551)に信秀が没すると、今川勢力の強大さを体感しているだけに、このまま織田家に従い続けることに不安を覚えた。信秀の後を継いだ信長の「うつけ」ぶりも気に入らなかったのであろう。天文二十二年(1553)、教継はついに今川方へ寝返ってしまった。
 織田に反旗を翻した山口教継は大高城の水野氏を追い、沓掛城の近藤氏を語らって味方に引き入れた。そして岡部元信ら今川の軍兵を大高城、沓掛城そして鳴海城に駐留させたのである。
 一方の織田信長であるが、こうした山口氏の動きを傍観していたわけではなかった。自ら兵を率いて鳴海城付近に駒を進めては示威行動をとっていたと思われる。四月に起きた赤塚合戦はそうしたなかで起きたものであろう。
 赤塚合戦当時、鳴海城は山口教継の子教吉が城将をつとめ、教継自身は最前線となる桜中村城に籠っていた。
 合戦の日、鳴海城の教吉は三の山に兵八百で現れた信長を攻めるために兵千五百を率いて出撃、赤塚に陣取った。双方激しく戦ったが、結局勝敗はつかず、互いに捕虜を交換して兵を退いて終わった。
 その後、織田方の巻き返しが徐々に進んだようである。最前線であった桜中村城の山口教継や今川勢は駆逐され、鳴海城が対織田の最前線となってしまった。
 その責を負わされたのか、山口教継、教吉父子は駿府に呼び出されて切腹させられてしまった。これは山口父子が今川に反意を抱いて織田に付こうとしているとの噂を信長が流したためとも言われている。
 山口父子が滅ぼされた後、鳴海と大高に展開していた今川の重臣岡部元信が鳴海城主となって織田勢に対抗することになった。
 一方の信長は鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて対峙した。
 永禄三年(1560)五月、今川義元が二万五千の大軍を率いて尾張に迫った。清州城の信長を屠り、対峙状態の続く尾張の戦況を一挙に打開しようとしたのか、はたまた京に駒を進めて天下に号令しようとしたのか、その真意は分からない。
 十九日夜明け前から大高城の付城である丸根砦鷲津砦が今川勢の攻撃にさらされ、運命の戦いの一日が始まった。

▲ 鳴海神社境内に建つ「鳴海城址之碑」。昭和18年(1943)に建てられた。城跡公園から東へ100mほど離れているが、かつてはこの辺りも城域であったのだろう。
 この二砦が戦闘状態に入ると信長はわずかな馬廻りを従えただけで清州城を出陣、熱田社で兵を揃えた。この時の兵力はわずかに千ほどであったという。
 辰の刻(8時前後)、信長は熱田社から南進して丹下砦の兵を軍勢に加えて善照寺砦に入った。砦の守兵を含めて三千ほどの兵力になった。
 この時、鳴海城は織田勢の攻撃を受けた。善照寺砦に布陣した信長軍から佐々政次、千秋季忠ら三百ほどが攻めてきたのである。城攻めにしては少ない兵力であるが、鳴海城の今川勢は佐々、千秋ら五十騎ほどを討取って撃退した。
 実はこの城攻めの最中に信長は二千を率いて中島砦に移ったのである。鳴海城の岡部元信は眼前の敵に気を取られ、信長の動きに気付かなかったのであろうか。鷲津砦を攻略した朝比奈勢と協力すれば信長を挟み撃ちにできたかも知れないのだ。いや、信長は鳴海城を攻めさせておいて、その間に善照寺砦を出撃して間道を迂回、太子ヶ根から桶狭間の今川本陣を襲ったとされる。
 いずれにせよ、昼過ぎには信長が今川本陣を襲って義元の首を上げた。これによって今川勢は総崩れとなって戦場から逃げ去った。
 しかし、鳴海城の岡部元信だけは城を動かず籠城を続けた。そして討取られた義元の首と城を交換して帰国の途についたと言われている。
 戦後、鳴海城は信長の重臣佐久間信盛に与えられた。廃城の時期はよく分らない。信盛が刈谷城に移った天正三年(1575)、信盛が織田家を追放された天正八年(1580)、または現地説明板の天正十八年(1590)といった具合である。
 ▲ 鳴海神社。
▲ 鳴海神社鳥居前に建てられた史跡碑。

▲ 鳴海神社の城址碑の横に立てられた説明板。

▲ 城のあった高台は鳴海城跡公園となって遊具などが設けられている。

▲ 城址北側の東福院山門。鳴海城の廃材を用いて建てられたと伝わる。

▲ 東福院山門前の説明板。
----備考----
訪問年月日 2011年2月19日
主要参考資料 戦史ドキュメント桶狭間の戦い」
 ↑ 「古城の風景7」他

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