沓掛城
(くつかけじょう)

               愛知県豊明市沓掛町        


▲ 沓掛城は桶狭間合戦(1560)前夜、駿河・遠江・三河の三国を支配する戦国大名
今川義元が尾張進攻の大軍を率いて宿陣した城として知られるが、一方で時代の荒波
に翻弄されて滅びた城主のいたことを忘れてはならない。(写真・沓掛城本丸と城址碑)

戦国の荒波に翻弄された城主

 沓掛城主近藤景春は鳴海城主山口教継の誘いに乗って織田を見限り、今川方となった。天文二十一年(1552)春のことであった。教継の誘いが恫喝的なものであったのかどうかは分らないが、大勢力の狭間にある弱小土豪としては生き残るために大勢に従うほかなかったのであろう。
 弱小土豪とはいえ、近藤氏は二百年以上沓掛城主として続き、景春は九代目という歴史を刻んできている。初代宗光は正中二年(1325)に後醍醐帝に召されて出征、笠置山の戦いで勤皇に殉じた。その後、重高、長安、景吉、義行、景重、景政、伊景と続いて景春の代となったのである。景春ははじめ岡崎城の松平広忠に属していたが、後に尾張の織田信秀(信長の父)の支配下に入っていたのだった。
 今川方となった景春は沓掛城を今川勢の常駐拠点として提供したようだ。それまで居館程度の城であった沓掛城が今川氏の手によって堀、土塁、曲輪、馬出を備えた城に生まれ変わったのはこの時のことであったと見られている。そして、今川家臣浅井政敏が兵を率いて駐留、対織田戦に備えた。
 永禄三年(1560)五月十二日、今川義元が二万余の大軍を催して駿府城を出陣、浜松、岡崎を経て十八日にはここ沓掛城に着陣した。この夜、全軍の攻撃部署が城内で決せられ、義元は城内を宿所とした。
 翌十九日、沓掛城を出発した今川勢は桶狭間に展開したが信長の巧みな機動によって本陣が襲われ、義元はあえなく戦場に斃れてしまった。まさかの敗北である。今川勢は瓦解して思い思いに戦場を離脱、本国へと敗走してしまった。沓掛城を守っていた浅井勢も城を捨て去った。

 今川勢の去った沓掛城に戻った景春は敗残の四百余人とともに城に立て籠もり、織田勢の来襲に備えた。景春は今川勢撤収後も鳴海城に留まっていた今川重臣岡部元信と連携して織田方水野氏の刈谷城を攻めようと出撃したといわれるが、果たせずに戻っている。
 二十一日、戦勝に勢いづいた織田勢が沓掛城に攻めかかってきた。景春以下、城を守って奮戦したが敵わず、城を脱して散り散りになったのであろう。景春は城外の天神山で討死したと言われる。
 戦後、沓掛城は梁田政綱に与えられ、天正三年(1575)織田信照、天正五年(1577)川口久助と城主が変わった。久助は関ヶ原合戦で西軍石田方に属したために捕えられ、沓掛城は廃城となった。
 近藤氏のその後は景春の孫重勝が堀秀政に仕えて一万石を領知するなどしたが代を経るにしたがい紆余曲折を経て五千石(山本陣屋/飯田市)の旗本となって明治に至っている。景春が戦死したという付近には江戸時代に景春の子孫である旗本近藤政明が建てたという墓(東郷町部田)が今でも残っている。


▲ 諏訪曲輪から本丸を望む。
 ▲ 沓掛城跡は城址公園として整備されている。
▲ 城址公園の見取り図。

▲ 本丸西側の諏訪曲輪。

▲ 本丸。右側に井戸跡がある。

▲ 本丸西側の堀。

▲ 二の丸から本丸を望む。

▲ 本丸東側の堀。

▲ 本丸北側の堀。堀の北側(右側)は城址公園の駐車場となっている。

▲ 本丸南虎口に建つ城址碑。
----備考----
訪問年月日 2012年2月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「愛知の山城ベスト50を歩く」他

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