大高城
(おおだかじょう)

              愛知県名古屋市緑区大高町城山     


▲ 大高城は丸根砦、鷲津砦とともに国指定の史跡となって
いる。かつては四方を二重の堀が回っていたという。現在
では、わずかな堀跡や土橋、土塁跡を見ることができる。

家康、開運の城

 大高城は桶狭間合戦時(永禄三年/1560)に松平元康(徳川家康)が敵中を突破して兵糧を搬入、その後陣取った城として知られるが、その歴史となるとあまり詳しくは伝えられていないようだ。
 城主として最初に伝えられるのは花井備中守である。永正年間(1504-21)に築城されたという。花井氏は南北朝期に尾張守護であった土岐氏の家臣であり、知多郡北部に土着して守護代と呼ばれていた時期があった。花井備中守はその一族であろうか。その後、緒川城の水野氏の勢力が拡大して天文、弘治(1532-58)の頃には水野忠氏・忠守父子が城主であったと伝えられている。
 この頃、織田信秀が尾張の実力者となり、三河への進出を繰り返していた。三河との国境に近いこの周辺の国人土豪たちも信秀の配下に付き、大高城の水野氏もそれに従ったと思われる。
 天文二十年(1551)、織田信秀が没して信長が家督を継ぐと、その実力を疑って尾三国境の国人衆に織田離反の動きが出た。信長の「うつけ」の評判がその動きに拍車をかけたとも言われる。鳴海城主の山口教継も離反組の一人であった。
 山口教継は今川方への手土産とばかりにここ大高城の水野氏を追って、奪い取ってしまったのである。教継は信長に対抗するために今川氏の駿河衆の駐留を要請した。大高城には今川家臣朝比奈筑前守輝勝が城主として赴任したとされる。
 桶狭間合戦の前年、永禄二年(1559)には大高城に対する織田方の付城として鷲津砦丸根砦が築かれ、織田勢が駐屯した。
 織田、今川の緊張が高まるなか、大高城には今川義元の妹の子である上ノ郷城主鵜殿長照が城主となって守りを固めた。しかし、織田方の包囲によって大高城は孤立、兵糧難に苦しめられてゆく。
 永禄三年(1560)五月、今川義元が二万五千の大軍で尾張に迫り、十八日沓掛城に着陣した。この夜、兵糧の絶えた大高城へ兵糧の補給作戦が決行された。これが今川の先陣をつとめる松平元康と松平勢によって行われた「大高城の兵糧入れ」である(兵糧入れの年次は永禄元年、又は二年ともされる)。鵜殿長照と元康は後日、上ノ郷城で干戈を交えることになるが、この時は手を取り合って喜び合ったことだろう。
 兵糧搬入を成功させた松平勢は大高城で休む間もなく丸根砦の攻撃に向かった。砦攻略の戦いは十九日の夜が明けても続き、十時頃になって陥落したという。桶狭間に向かいつつあった義元が砦陥落の報に喜び、鵜殿長照に替わって元康を大高城主としたとも言われている。
 いずれにせよ、丸根砦を攻略した松平勢は不眠不休で戦ったことになり、義元の命を待つまでもなく大高城に引き上げた。

▲ 本丸と二ノ丸の間には空堀がめぐらされている。これはその空堀に設けられた土橋である。
 ところが、陽が傾く頃になって義元討死の報が大高城に入ったのである。
「うろたえるでない。戦場には虚偽の噂が多く流れるものじゃ」
 元康は動揺する将兵を静め、確実な情報の入るのを待ったという。
 やがて織田方である伯父の水野信元が派遣した浅井道忠が大高城に入り、義元討死の確実なことを報せ、松平勢撤収の先導役をつとめたという。義元討死によって周辺は敵地となったわけであるから元康に残された道は信長に降伏するか、敵中を突破して戦場を離脱するかの二つしかなかったのだ。
 元康はこの日の夜中、戦場離脱の道を選んだ。
「岡崎に戻る」
 この一言で松平勢の士気が一挙に高まったことは言うまでもないだろう。今川の軛(くびき)を解いて自立への第一歩が始まるのだから。大高城が家康開運の城と言われる由縁であろう。
 この後の事は周知のように元康は岡崎城を居城として今川との縁を絶ち、信長と結んだ。そして三河を平定して戦国の荒波を乗り越えて行くことになる。
 松平勢の去った大高城はどうなったのか。戦後、織田支配下となった大高城には元城主水野氏が入ったようだが、やがて廃城となったと言われる。元和二年(1616)、尾張徳川家重臣志水忠政が大高他合わせて一万石の領主となり、城跡に館を構えて代を重ね、明治に至ったという。
 ▲ 大高城二の丸。
▲ これも二の丸。本丸の南側一帯に広がっている。

▲ 本丸に建てられた城址碑。

▲ 本丸跡から丸根砦方面を展望。

▲ 本丸北側の腰曲輪。

▲ 本丸北側登城口に建つ「史跡大高城跡」の碑。
----備考----
訪問年月日 2011年2月19日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
 ↑ 「新説・戦乱の日本史」他

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