上ノ郷城
(かみのごうじょう)

                   蒲郡市神ノ郷町          


▲ 上ノ郷城の城域のほとんどは宅地、農園となっているが、部分的に土塁などの遺構が残存し
ている。左に見える城址碑の建っているところが土塁であり、その内側の畑地は二ノ曲輪である。

戦国鵜殿氏、
      孤塁に滅ぶ

 鎌倉期、ここ蒲郡(竹谷荘、蒲形荘)は熊野別当の領する所となっていた。その関係で熊野新宮所在の鵜殿氏が海路やって来て土着、ここに城砦を築いたのが上ノ郷城のはじまりと思われる。
 鵜殿氏の全盛期は長持の代で、現在の蒲郡市のほぼ全域を支配していたと云われている。長持は駿河・遠江の戦国大名今川義元の妹を娶って、今川氏の三河進出に大きく貢献した。鵜殿氏自体もこの頃には周辺地域に一族が城砦(下ノ郷城(蒲形城)不相城柏原城)を構え、有力な国人領主として勢力を拡大していた。
 今川氏の三河進出の先駆けとなることで家の繁栄を築いた鵜殿氏であったが、戦国の世はある日突然に一転する。永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間で織田信長に敗れ、討死してしまったのである。
 この時の鵜殿家の当主は長持の子長照であった。長照は数百人の鵜殿勢を率いて今川軍の先陣となって大高城の守備に就いていた。大高城は松平元康(徳川家康)の「兵糧入れ」で有名となったが、織田軍に囲まれて孤立していた鵜殿勢にとってはこの時の元康が神のように見えたことであったろう。近い将来、この元康と干戈を交えることになろうとは、長照はこの時夢想だにしていなかったに違いない。
 永禄五年(1562)二月、西三河を平定した松平元康は東三河平定の手始めとして上ノ郷城の攻略に乗り出した。まず竹谷城(蒲郡市竹谷町)の松平清善が上ノ郷城を囲んで攻城を開始した。すでに鵜殿一族の分家(下ノ郷、柏原)衆は松平方に付いた。したがって鵜殿本家のみが今川方のままでいたのである。鵜殿長照にとっては軽々しく今川の恩義を裏切ることができなかったのであろう。
 松平清善の軍勢は城兵七十人を討取って気勢を上げたが、長照以下城兵の守りは堅く、なかなか落ちなかった。そこで元康は自ら進んで名取山に陣取り、久松俊勝、大久保忠勝、松平忠次らに攻めさせた。しかし、それでも落ちなかった。そこで、元康は甲賀忍者を城中に忍ばせた。そして火を放たせ、その混乱に乗じて兵を突入させた。上ノ郷城は忍者の活躍によって落城した最初の城とも云われている。戦いの結果、長照以下城兵の悉くが討死して果てたという。
 ところが長照の二人の息子氏長と氏次は生捕りになっていた。後日、この二人と駿府に残されたままになっている元康の妻築山殿、嫡男信康と娘の亀姫の三人が交換された。
 落城後の上ノ郷城には久松俊勝が城主として入った。俊勝の妻は家康の母である於大の方(再婚)である。俊勝の後、嫡男康元が城主を継いだが天正十八年(1590)の家康の関東移封に従い下総関宿城二万石の大名となった。

▲ 本曲輪跡。遠方(西方)に見える山は元康が陣取ったという名取山方面である。
 久松氏の去った後は吉田城に十五万二千石の大名として入った池田輝政の支配下に置かれた。関ヶ原合戦後、池田氏が去るとともに廃城となったと思われる。
 ちなみに人質交換で駿府に送られた長照の息子達のその後はどうなったのであろうか。氏長は遠江二俣城の松井氏に属せられたが、永禄十一年(1568)に家康の遠江進攻が始まると徳川に降って家臣となり、後に旗本となった。氏次は松平家忠に仕え、慶長五年(1600)に伏見城で石田三成ら西軍の攻撃を受けて討死した。
 ▲ 本曲輪跡から南を望見。蒲郡市街と三河湾が一望できる。
▲ 本曲輪跡に残る井戸跡。

▲ 二ノ曲輪の土塁上に建てられた城址碑。
----備考----
画像の撮影時期*2008/07

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