蒲形城
(かまがたじょう)

                   蒲郡市上本町          


▲ 蒲形城の跡は学校や市街地となって城跡を示すものは何もない。
本丸跡であったとされる部分は現在高校の敷地となっている。

下ノ郷鵜殿氏の古城

 源頼朝の異母弟で義経と並んで平家追討戦に活躍した蒲冠者源範頼という武将がいる。範頼は一ノ谷の合戦のあった寿永三年(1184)にその戦功によって三河守に任ぜられた。その関係からか、蒲形の名の由来はこの蒲冠者範頼の所領となったことによるとも言われているが、どうだろう。
 その後、正治元年(1199)には鎌倉幕府の安達盛長が三河国守護となり、その代官善耀(ぜんよう)が築城したとも伝えられているが、これもはっきりとは分からない。
 それから時は流れて戦国時代となる。この地域(蒲郡市域)には熊野の鵜殿氏が土着して勢力を張っていた。鵜殿氏来住の時期は定かではないが、鎌倉時代の長政を初代とするとも言われている。
 この長政から六代目長将(上ノ郷城主)の時、弟長存が分家して城館を構えた。これが蒲形城であり、下ノ郷城とも呼ばれている。分家築城の時期はよく分からないが、推測では明応(1492-1501)の頃ではないかと思われる。城の規模や形態については遺構として残るものがなく、江戸期に描かれた絵図によるほかないが、それによると水堀に囲まれた方形の本丸を中心として周囲に外郭を備えたものであったようだ。
 長存(天文十二年/1543没)を始祖とする下ノ郷鵜殿氏は二代玄長、三代長龍と続く。長龍の時、鵜殿氏は存亡の危機に直面する。
 この当時の鵜殿氏は今川氏の有力家臣として威勢が良かったが、永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が敗死した後は孤立感を深めていた。そこへ岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)が永禄五年(1562)この地に攻め込んできたのである。
 鵜殿氏は本家である上ノ郷城とここ下ノ郷城(蒲形城)そして柏原城不相城に分家して城館を構えていたが、下ノ郷と柏原の鵜殿氏はこの時松平方に付いた。家名存続のためであったかも知れない。戦いは本家上ノ郷城主長照が城を枕に討死して終わった。
 その後、下ノ郷鵜殿氏は酒井忠次配下に置かれたと言われている。天正十八年(1590)四代長信の時、家康の関東移封に従い、下総北相馬に移り、蒲形城を去った。長信、天正二十年(1592)没。跡目相続が認められず、翌年に改易となった。
 慶長十七年(1612)、吉田城主(三万石)であった竹谷松平忠清が急死により無嗣断絶となった。幕府は家名の絶えるのを惜しみ、忠清の弟清昌に西郡(蒲郡市)五千石を与えて封じた。
 この松平清昌が屋敷を構えたのは蒲形城跡の東南部分であったようだ。竹谷松平(竹谷城)の名跡を引き継いだ清昌の後は大名格の旗本として代々続いて明治に至った。

▲ 竹谷松平氏の屋敷に築かれた土塁の遺構。昭和32年(1957)に蒲形城の名残として市の文化財に指定されたが、調査の結果松平氏の陣屋跡であることが分かり、平成17年(2005)に指定が解除された。
 ▲ 稲荷社の西側(左)にも土塁があったが道路整備によって除去された。
▲ 竹谷松平氏屋敷跡に残る土塁。道路設置などによって破壊されつつある。

▲ これも竹谷松平氏時代の土塁。

▲ 蒲形城跡の県立蒲郡高等学校。

▲ 蒲郡市博物館前に復元移築された「竹谷松平家大手門」。文化十五年(1818)建造と推定されている。

▲ 下ノ郷鵜殿氏の墓と「鵜殿氏諸々之霊供養碑」。
----備考----
訪問年月日 2010年10月16日
主要参考資料 「蒲郡の諸城」他

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