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■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2010

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。

城跡・史跡めぐり探訪記 2013

城跡・史跡めぐり探訪記 2012

城跡・史跡めぐり探訪記 2011



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12月19日(日)晴/赤羽根城深溝城(一色町、幸田町)
 いつものように早朝発。
 まず、蒲郡からひたすら西へ、一色町を目指した。ここには赤羽根城跡がある。現在城跡は一色高校と赤羽別院という寺院境内となっている。
 赤羽根城は戦国期に吉良氏に属していた高橋氏の居城として知られる。現地説明板によれば、東条城主吉良義昭に仕える高橋出羽守政信が城主であった頃、永禄四年(1561)であるが、この時に西条城の酒井勢(徳川家康の家臣)に攻められて落城したとある。ちょうど桶狭間合戦を機に岡崎に独立した家康が三河平定を進めていた時期である。
 次に車を返して幸田町の深溝城へと向かった。
 深溝城は言わずと知れた十四松平のひとつ深溝松平氏の居城である。城跡といっても工場や宅地となって遺構らしきものは見当たらない。ただ、城址碑が建つのみである。この城の最初の主は大庭氏であったが、大永年間(1521-28)に松平忠定が大庭氏を討って自分の城とした。その後四代続いて関東に移ったとされる。
 城跡の近くに深溝松平氏の菩提所である本光寺がある。ここには深溝城主であった四代の墓とその後肥前島原七万石の大名となってからの歴代の墓がある。大名となってからも死後は父祖の地に帰って眠りについたことになる。

 今年の訪城もこれで終わりとなりそうだ。計63ヵ所の城跡・史跡を訪ねることができた。健康であることの有難さを感じた1年でもあり、応援してくれる皆さんへの感謝の1年でもあった。

↑赤羽根城跡の赤羽別院の山門

↑深溝城址碑
12月5日(日)晴/岡崎城(袋井市)
 昨夜、御前崎にて一泊忘年会。浜松への帰りにちょっと寄り道して岡崎城跡へ行った。

 岡崎城といっても愛知県の徳川家康が誕生した城ではない。静岡県袋井市岡崎にある城跡である。遠州灘沿いの国道150号から県道41号を北上して約5kmほどのところにある。近くには横須賀城や馬伏塚城がある。岡崎城の城史についてはよく分からないようであるが、戦国期に四ノ宮右近の居城であったとも伝えられており、城址部分は城山と呼ばれているそうだ。四ノ宮右近という武士は今川氏の末期、永禄十一年(1568)に高天神城主小笠原氏に仕える今川方の武士としてその名が伝えられる程度で、詳細についてはあまりよく知られていない。

 現在、城址の大部分は茶園となっている。東西二つの曲輪で構成されており、遺構としては二つの曲輪の間の堀と土橋跡、そして損なわれた土塁跡が見られる程度である。堀跡の東側には北八雲神社の社殿がひっそりと佇んでいる。城址を示す何物もないところをみると史跡として保存する手立ては講じられておらず、放置状態にあるようだ。

↑岡崎城跡の遠景

↑堀跡
11月6日(土)晴/大草城大野城源義朝最期地河和城(知多半島)
 今日は尾張城址探訪の一環で知多半島へと車を向けた。秋晴れの上天気に恵まれ、気分も上々である。
 伊勢湾岸道を東海ICで降り、西知多産業道路を南下、最初の訪城先は知多市の大草城である。
 大草城は織田信長の弟である有楽斎長益の築城した城である。本能寺の変後に知多一万三千貫に封ぜられたことによる。しかし、2年後の小牧・長久手合戦後に秀吉に仕えて大坂に移ったために築城半ばで廃城となった。それでも普請の大方は完成していたようで、その縄張や遺構は今でも目にすることができる。城址は現在大草公園として整備されており、土塁や水堀を巡る歩道が設けられている。本丸跡には天守閣風の展望台が建てられ、そこからは伊勢湾が一望できる。
 大草城の南1.3kmほどの所に大野城(常滑市)がある。大野城への登城口は南北2か所にあるが、南側の登城口からなら楽に上ることができる。ほぼ城山と同じ高さまで住宅地となっており、そこに駐車場も設けられているからである。
 大野城は佐治氏四代の居城であったところである。天正12年(1584)小牧・長久手合戦後に佐治氏は追放となり、織田長益が城主となったが、水に乏しいことから大草に築城して廃城となったと言われている。
 次の目的地は大野城から20kmほど南下した美浜町野間である。野間は源義朝の最期の地として知られ、それにまつわる史跡がいくつかある。平治の乱(1159)に敗れた源義朝一行は京を落ち、東国へ逃れる途中にここ野間の長田忠致の屋敷に辿り着いた。しかしながら平家の恩賞に目がくらんだ長田父子は湯殿で無防備になった義朝を殺害して首を京に持って行ったという。頼朝が成人して平家を倒した後、長田父子は頼朝によって処刑された。
 野間大坊という寺院境内に義朝の墓や首を洗ったという血池があり、寺院の東側近くに長田屋敷跡、そのまた近くに長田父子を処刑したと伝わる磔の松がある。さらに1kmほど東に法山寺があり、ここに義朝が襲われた湯殿跡がある。ここには義朝の像も建てられていた。
 そろそろ昼時だということでさらに南下して南知多町に車を向け、海鮮に舌鼓を打って一服した。トモ坊は刺身盛り、私は名物エビフライを頂いた。
 再び車を返して三河湾側の美浜町へ向かった。ここに河和城がある。河和は「こうわ」と読む。
 河和城は渥美半島の田原城を本拠とする戸田氏によって築かれた。知多半島に拠点を設けた戸田氏の目的は三河湾の支配であったことは明らかである。城跡は主郭部には立ち入り可能であるがその他の部位には危険であり、立ち入ることが出来ない。主郭下の駐車位置からは三河湾が一望でき、対岸となる三河の山々が薄らと見えた。

↑大草城

↑大野城

↑源義朝公御廟

↑河和城
10月16日(土)晴/中島城蒲形城柏原城丹野城(蒲郡市)
 今日は蒲郡市内二度目の訪城である。豊橋から国道23号を西へ向かう。豊川市から蒲郡市へと市境を越えると大塚町である。ここに中島城跡がある。

 中島城は別名大塚城とも呼ばれる岩瀬氏累代の居城であった。戦国期、今川氏に仕えていたが、永禄三年(1560)桶狭間合戦後に松平元康(徳川家康)に攻められて落城した。その後、家康に仕えたが関東には随従せずに当地に居住し続け、明治に至った。
 現在も御子孫の方が当地に御健在である。城址碑が屋敷内に建立されているので、ご挨拶してから撮影させていただいた。

 次は蒲形城である。下ノ郷城とも呼ばれる鵜殿氏の居城跡である。鵜殿氏の本家は上ノ郷城を居城としており、分家した鵜殿長存が下ノ郷の初代となった。城址北側に長存開基の長存寺があり、鵜殿一族の墓碑が建立されている。
 車をここに置いて城址本丸のあったとされる蒲郡高校へと歩いた。もちろん遺構は何もない。しかしながら江戸期に竹谷松平氏が蒲形城址に屋敷を構えておりその土塁の一部が高校の南側住宅地の一画に残されている。以前は蒲形城址として市の指定史跡となっていたそうであるが、発掘調査の結果、江戸期の屋敷跡であることが分かり、指定が解除されたと言われている。今後開発のためにこの土塁も消滅してしまう可能性は大いにありうる。

 この竹谷松平家の大手門であったとされる高麗門が市博物館前に移築復元されているので一見して次の目的地である柏原城へと車を向けた。
 この柏原城も鵜殿氏の分家である鵜殿長祐を初代としている。長祐は家康に仕えて三河一向一揆との戦いに活躍するが、永禄七年(1564)の針崎合戦で討ち死にしてしまった。嗣子なく兄長持(本家上ノ郷城主)の次男長忠が跡を継いだ。長忠の娘は家康の側室(西郡殿)となり、その娘(督姫)は池田輝政に嫁いだ。この縁で長忠の子孫は鳥取池田家に仕えることとなった。柏原城は長祐、長忠の二代で廃城となったようだ。
 現在は城址一帯雑木林となって踏み入ることも困難なようである。ちょうど近くで農作業されている方に城址へ入る道はないか尋ねてみた。「そこだよ」と教えていただいた。城址南側の一画が竹林となっており、わずかに林の中に入れそうな所があった。遺構といえるのか分からないが竹林の中に平坦地が広がっていた。曲輪の一部であろうか。しかし城山の奥にまでは踏み入れそうもないので断念した。

 再び中島城跡まで車を返して丹野城を目指した。丹野城は標高364mの御堂山山頂にある。中島城跡から北へ向かい、しばらくすると道は林道となる。相楽山荘キャンプ場が終点となる。ここに山頂への登山口がある。ここから山頂の城址まで20分ほどである。念のためにトレッキングシューズに履き替えたが、道はコンクリートで舗装された遊歩道となっており、老若男女を問わず気楽に登山が楽しめそうだ。
 丹野城は文明元年(1469)に三河守護細川氏の被官荻原芳信が全福寺の僧徒を動員して築いたと言われる。しかし、城の歴史は続かず、その翌年に牧野氏の攻撃を受けて落城したという。芳信は城を落ちて逃れようとしたが備後林(御津町赤根)まで来たところで家臣の裏切りに合い、馬上自刃して果てたと伝えられている。
 山頂部を主郭としてその周囲を帯郭が取り巻いている。西北側には堀切が現存しており、石積みも一部に見ることができる。城址碑前からは蒲郡市街と三河湾が一望でき、要衝の位置にあることが分かる。

↑中島城(大塚城)

↑蒲形城/竹谷松平家の土塁

↑柏原城

↑丹野城 主郭

↑丹野城 堀切
 10月10日(日)曇後晴/田沢城渋川城(浜松市引佐町)
 昨夜来の雨で今朝は曇、しかし所々青空が見えていたので午後近くには晴れると確信して出かけることにした。
 今日の目的地は井伊氏の本拠地井伊谷から国道257を北上した山間の地である。目指す城址は田沢城である。
 この田沢城、城館資料では所在地だけが記載されているだけのものであったから、具体的な城史はないものと訪れることもなく今日に至っていた城跡であった。
 ところが、二ヵ月ほど前に浜松市在住のSさんよりメールをいただき、さらに調べると井伊氏の支城として南北朝の争乱によって落城したことが伝えられていることが分かった。Sさんのすすめがなかったらこのまま忘れ去ってしまっていただろう。
 このSさん、渋川(田沢城の西)のご出身で城山には幾度となく訪れており、今回ご一緒させていただいたしだいである。田沢の集落から林道をひたすら登り続けるのであるが、本当に山頂まで続いているのであろうかと思われるほどダートな部分もあり、単独では心細くなってしまうだろう。Sさんのおかげで気分がまぎれ、気付いたら山頂であった。
 山頂には中部電力とドコモ東海の無線中継所が設けられており、電波塔が二基、天を衝いて建っていた。周辺は削平されているが、これは電波塔建設に伴って整地されたものであろう。城址としての遺構は残されていないようである。周囲の立木が視界をさえぎっており、展望はきかないが、木々の間からわずかに遠く浜松の平野部と遠州灘が霞んで見えた。
 田沢城跡を下山して渋川城跡へ向かった。田沢から20分ほどのところである。渋川城はすでにアップ済みで今回は再訪となる。Sさんのご教示で城の存在した当時に堀として利用されていたと言われる川を確認したかったのである。
 左足が不自由でリハビリ中であるにもかかわらず、私の誘いに快く応じてくれたSさんにはこの場を借りて改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

↑田沢城 城山山頂

↑城山山頂から南を展望

↑渋川城 田の向こうの低い丘
 9月4日(土)晴/郡上八幡城桜洞城高山城松倉城神岡城(岐阜県)
 早朝5時発。東名から東海環状、東海北陸道と高速道路は渋滞も事故もなく快適だ。今日は飛騨の城が目的である。
 最初の訪城は「郡上八幡城」である。正確にはここはまだ美濃国になる。郡上八幡ICに近づくと高速上から右手の山上に天守が見える。自然と闘志が湧いてくる。
 郡上八幡は山内一豊の妻千代の生まれ故郷ということもあって山麓の二の丸跡には「山内一豊と妻の像」が建っていた。ここから天守のある山上へと向かう。道は狭いが一方通行となっているから対向車とのすれ違いに気を使わずにすむから安心だ。山上の駐車場に着いたのは7時半頃だった。天守開場が9時であるから周辺を散策して時間を潰したが、それほど広くもないので券売所前で待つことにした。天気は快晴、今日も暑くなりそうだ。すでに30度近くになっていると思われた。係りの方が8時半頃に開門してくれたおかげで一番乗りできた。天守は昭和8年(1933)に木造で再建されたものである。木造再建の城としては日本最古ということだ。
 郡上八幡城は永禄2年(1559)に遠藤氏がそれまでの領主であった東氏を倒して郡上の支配者となって築城されたものである。秀吉時代に一時稲葉貞通が城主となったが、それ以外は元禄5年(1692)まで遠藤氏の居城であった。
 天守見学を早々に切り上げて次の目的地へと向かう。のどかな風景の山間を1時間ほど走らせて国道41号へ出る。温泉で名高い下呂に近いところだ。目的の城は桜洞城である。
 桜洞城は戦国時代に飛騨一国に覇を唱えた三木氏飛躍の城である。城址の北側は桜谷と呼ばれる谷間となっており、西側は飛騨川が天然の水堀の役目を担っている。しかし東と南側は平地となっているのでさほどの要害性は感じられない。遺構は破壊され放置状態となっている。わずかに空堀と土塁が残り、崩れた石積みの痕跡が見られる程度である。崩れかけた土塁上に「桜洞城址」の文化財標柱が立っていた。
 ここから国道41号を北上、1時間ほどで高山市街である。観光客がやたらと目につく。外国人観光客も多い。そんな中を高山城をめざして車を進める。かつての二の丸跡に駐車場が設けられていた。かなり車が駐車しているが城内には人気が少ない。おそらくここに停めて街の観光に繰り出しているのであろう。たしかに高山の町並みには古き良き時代の雰囲気が漂ってはいる。しかし、城にこそ歴史があるのだ。
 駐車した二の丸跡には遊具などが置かれた公園となっている。その真ん中に馬上姿の金森長近公の銅像が建っていた。本丸はこの二の丸の南側山上である。人気のない登城道を汗だくになって登る。
 この高山城はもともと高山氏の城であったが、天正七年(1579)に桜洞城の三木氏によって滅ぼされた。その後、金森長近が飛騨を領するとこの高山城を改修して居城とした。各曲輪は石垣で築かれていたようだが、現在はそのほとんどが無くなっている。わずかに本丸部分に見られる程度である。
 石垣の遺構がよく残っているのは高山城の西数kmにある松倉城である。高山市街から飛騨民俗村飛騨の里を目標に移動する。松倉城はこの飛騨の里からさらに林道を進む。すると小さな公園があって駐車もできるようになっている。ここから遊歩道が城址まで整備されている。
 松倉城は桜洞城の三木氏が高山城を落として勢力を広めた際に築城されて三木氏の本拠となった城である。本丸、二の丸、三の丸と石垣が現存している。草木に覆われた石垣のその姿はまるで太古の遺跡を連想させる。本丸からの眺望はすばらしく、遠く北アルプスの山並みが望見できる。
 さて、つぎは本日の最終目標、神岡城である。ここには小型の模擬天守が建てられている。高山からさらに一時間ほど北へ向かう。奥飛騨と呼ばれるほどに山深いところであるが、神岡の町はよく開けてそれを感じさせない。
 神岡城は飛騨の名族江馬氏の居城であった。しかし、この城も松倉城を居城とする三木氏によって攻め滅ぼされてしまった。この地を追われた江馬氏は後に金森長近の軍に加わり案内役を務めるなどしたが、結局は長近に反旗を翻して敗北、最後の当主江馬時政は自刃して潰えた。
 神岡は鉱山の土地でもある。神岡城天守は三井金属鉱業の創業百年記念として建てられたもので丸岡城や犬山城を模したといわれている。
 午後5時前、車に戻った。ここから浜松まで約4時間だ。寝不足もあって今日の計画はちょっとハードだったかなと思う。年のせいかな(^_^)

↑郡上八幡城

↑桜洞城

↑高山城

↑松倉城の本丸石垣

↑松倉城の三の丸石垣

↑神岡城
8月13日(金)晴/安城城安城古城山崎城(安城市)
 今日はトモ坊とあてもなく東名高速を西へ向かった。当初は知多半島の城めぐりを考えていたのだが、出発時間も遅く、夕方の迎え火(お盆)までには帰宅しなければならずで、高速を走りながら安城の安城城を目的地と決めた。岡崎ICで高速を下り、国1を西へと向かう。岡崎城前を通過して矢作橋を渡ってしばらくすると安城市である。

 とりあえず安城市歴史博物館へと向かった。この博物館の敷地とその周辺はかつての安城城の跡なのだ。博物館に入って目についたのが吹き抜けロビーの二階部分の壁に置かれた松平清康公の座像である。館内は撮影禁止であるが、清康公の撮影はOKとのこと、さっそくパチリだ。ここでパンフや資料を買い込み、城跡の散策をはじめた。

 現在では安祥城と表記されているが、これは江戸期に入ってからのことで、それまでは安城城と呼んでいたのである。岩津城で勢力を伸張しつつあった松平氏が文明三年(1471)にその居城をここに移して四代続いた。この四代目が清康で、彼の代に岡崎城に居城を移した。その後も松平氏の城であったが織田氏と今川氏の争奪戦の場となり何度か戦いが繰り返されたようだ。家康独立後は織田信長との同盟となり、安城城は廃城となった。

 さて、この付近の城跡は、とパンフを見ると安城古城址と山崎城址の二つが近くにある。今日はここに寄って帰ることとした。

 安城古城は安城城の西約500mの住宅地域にある。安城城を築城して移るまでの和田氏五代の居館であったという。戦国期の織田、松平、今川の抗争時代にも松平氏がここに兵を入れたと言われている。

 山崎城は安城城の北東約1kmにある。現在は山崎神明社の境内地となっているが、本殿裏には当時の堀跡がしっかりと残っている。方形掻揚げの城であったようだ。松平広忠(家康の父)の叔父松平信孝は天文十二年(1543)に広忠を見限って織田方に通じ、ここに築城した。それから6年後、今川勢と松平勢は安城城を攻め落したが、この時に山崎城も落城したと言われている。

↑安城城本丸の切岸

↑安城古城

↑山崎城の堀
8月11日(水)晴/丸岡藩砲台(福井県坂井市)
 家族旅行二日目。粟津温泉での一泊であった。例の如くわが家の女御たちはのんびりと朝風呂三昧、チェックアウトは10時直前。今日の予定は、かつての加賀百万石時代村で今では日本元気劇場となっているテーマパークである。
「そうだ、東尋坊に寄ってみようか」と私。「あっ、行く行く」と女御たち。というわけで東尋坊へと車を向けた。東尋坊近くの越前松島海岸に丸岡藩の築いた台場跡が残っているのである。実はここに寄ってみたかったのだ。
 県道7号沿いに丸岡藩砲台跡の案内板と駐車場が設けられている。車を降りた瞬間、ここは沖縄かと間違うほどの暑さと強い日差しに驚いた。日本列島猛暑続きではあるが、異常な暑さである。駐車場から海岸に向かって降りるとすぐに砲台跡が目に入った。弧状に胸壁が築かれ5ヶ所の砲眼が海上に向けて開いている。
 嘉永五年(1852)、幕府の沿岸警備強化の命により丸岡藩によって築かれたものである。大砲こそないが、砲台そのものはほぼ完全に近いかたちで残っているように見える。紺碧の空と海を背景にした武骨な石塁は、かつて熱い時代のあったことを私の網膜に訴えているような気がした。
 この後、東尋坊に寄り、イケメン目あての元気劇場へと向かったしだいである。

↑丸岡藩砲台跡

↑砲台跡の砲眼
8月10日(火)晴時々曇/鳥越城(石川県白山市)
 恒例の夏の家族旅行。今回は妻と次女と私の三人とあいなった。いうまでもなくわが家の女御たちには歴史なんぞに興味はないらしい。でも、プランは私任せなのだ。「旅館に入るにはまだ早いから少し遠回りするよ」と鳥越城の訪城となったしだいである。
 鳥越城は加賀一向一揆の最後の砦となったことで知られている。発掘調査が実施され、国の史跡にもなっており、それなりに中世の山城の姿を目にすることができる。
 場所は北陸道小松ICから国道360を東へ約40分、山間の田園地帯が広がるのどかなところにある。城址を北に臨む国道沿いに道の駅「一向一揆の里」がある。ここから田んぼの向こうに(北側)鳥越城の城山が一望できる。またこのエリア内には白山市立「一向一揆歴史館」があり、鳥越城址で発掘された遺物が陳列紹介されている。
 私たちは歴史館の映像シアターで一向一揆の歴史を学び?、城址へと向かった。城址頂上までは車道が整備されており、駐車場も設けられている。車を降りると目前に曲輪の切岸が見上げる高さに迫っている。ここは後二の丸の直下にあたる。
 城址は最高所の本丸を中心にほぼ南北に曲輪が配されている。本丸に接する南側の曲輪を前二の丸、北側の曲輪を後二の丸と呼んでいる。同様に前三の丸と後三の丸が続いている。
 わが家の女御たちは日傘を差して本丸へとさっさと歩いて行く。私は途中の三の丸や二の丸に踏み入り、手当たりしだいにカメラを向けてシャッターを押す。いよいよ本丸だ。本丸虎口は枡形になっている。枡形門と石積みが復元されている。そして本丸門も再現されている。
 本丸からは先ほどの道の駅と綺麗に区画された緑鮮やかな田んぼが眼下に見える。この城に立て籠もった一向宗門徒たちが命を賭けて守ろうとしたもの。それが垣間見えたような気がした。
 この城に立て籠もった門徒勢を山内衆といった。山内衆の抵抗も空しく柴田勝家軍によって鳥越城は落城、天正十年三月に手取川の河原で三百余人が磔に処せられて山内衆の抵抗は潰された。
 「ここの人たちは河原で殺されたんでしょ」わが家の女御たちもなんとなく感慨深げであった。歴史館のシアターのおかげである。私の説明などどこ吹く風なのに....(^.^)

↑道の駅から見た鳥越城

↑復元された枡形門と本丸門

↑本丸から眼下に広がる田園。
8月1日(日)晴/不相城形原城竹谷城五井城(蒲郡市)
 猛暑続きのなか、蒲郡市内の4城を訪城した。
 気温の上昇する前にと早朝から出掛けたのであるが、8時頃には汗だくとなってしまった。それでも、城めぐりで流す汗は楽しい。
 本日最初の登城先は不相城である。蒲郡中心部の南端に位置する丘城である。昭和初期に観光地化され、城址である丘にはホテルが建てられた。今でも竹島海岸は多くの観光客で賑わっているようだ。
 朝7時着。観光地の朝はまだ静かである。城址である蒲郡プリンスホテルへと車を乗り入れた。遺構は残されていないが、ホテル自体が城郭建築を連想させるような造りに見える。アンティークな雰囲気と天守をイメージさせる展望台?に自然とカメラが向いてしまう。
 不相城は上ノ郷城を本城とする鵜殿氏一族の城のひとつである。上ノ郷城鵜殿氏最後の城主長照の叔父長成が築いた城である。永禄五年(1562)に松平元康(徳川家康)によって上ノ郷城は落とされ今川方の鵜殿長照は討死した。一族の下ノ郷城と柏原城の鵜殿氏は松平方について一族の存続を図ったが、不相城の長成は長照とともに今川方について松平勢に抗した。上ノ郷落城とともに長成は不相城を落去して吉田城(豊橋市)に向かったと伝えられている。
 次に形原城へ向かった。蒲郡市西部形原漁港近くである。形原城は長享年間(1487-89)に松平與副(ともすけ)が居城として以来松平氏が代々続き、形原松平と称された。家康時代には酒井忠次の配下で戦功を重ねた。現在は主郭跡に城址碑が建ち古城稲荷社が鎮座している。また城址内には「お妙塚」の碑がある。形原六代家信の幼少時代、北条の間者に命を狙われた際に乳母のお妙が身をもって幼君の一命を救ったのだと伝えられている。
 さて、次は竹谷城である。車を北へ返して県道383へ出たところの交差点の北側にある竹薮に覆われた丘が城址である。車で訪城する場合に気がかりなのが駐車場所である。駐車場の設けられている城址より無い場合の方が多い。ほとんどの場合が路駐となる。しかしここ竹谷城の場合、城址の全周が住宅地となり、かつ道幅が狭いのだ。路駐することもできない。さいわい300mほど東にショッピングセンターがあったのでそこに突っ込み、歩くことにした。わずか数百mであるが、猛暑の炎天下ですぐに汗だくである。そして竹薮に突入、主郭跡に城址碑があった。カメラを構える腕に薮蚊の大群が猛襲する。カメラがブレないように我慢してシャッターを切る。早々に退散してしまった。
 竹谷城は竹谷松平氏の居城である。四代清善が上ノ郷城の鵜殿氏攻略に戦功があり、その後も代々家康に仕えて六代家清は三河吉田三万石の大名となった。
 薮蚊の攻撃でぼこぼこになった腕のかゆみに耐えつつ五井城へ向かう。ここも松平一族の居城であったところである。遺構としてはかつての堀跡の一部が池として残っているのみである。また、付近の長泉寺と真清寺の山門がかつての城門を移築したものと伝えられている。長泉寺には五井松平氏五代の墓がある。長篠合戦時、五代景忠は長篠城に奥平氏とともに籠城して戦い抜いたことで知られる。

↑不相城址に建てられたホテル

↑形原城址古城稲荷

↑竹谷城址

↑五井城址の堀跡
7月17日(土)晴/百度屋敷多米城(豊橋市)
 梅雨が明けた。梅雨の間、ずっと籠城が続いていたが、今日は資料調査(図書館)ついでに豊橋市内の二城を訪ねた。百度屋敷と多米城の跡である。
 百度屋敷の百度は「ずんど」と読む。もしくは羽田村古城とも呼ばれている。豊橋駅の西約1kmの花田町内にある。かつての内郭にあたる部分には工場が建ち、外郭部分は住宅地となって遺構は見られない。城主としては土豪石原百度兵衛、その後は鋤柄百度右衛門の名が伝えられている。両人とも酒井忠次に仕えて石原氏は姉川合戦に、鋤柄氏は長篠合戦において戦功をあげている。
 多米城は豊橋市東部の多米東町にあり、城域を貫く県道4号は多米トンネルを経て静岡県に通じている。城域を寸断しているのは県道ばかりではない。かつては城の南側を流れていた川も治水のためか、城内を東西に貫通している。城址とされる区域は完全に宅地化されて何ものも残されていない。かつての地籍図をもとに想像を凝らすほかない。城主は多米権兵衛元益である。元益は後の北条早雲こと伊勢新九郎と昵懇の仲であったようで、早雲の小田原攻めで活躍、この地を去って青木城(横浜市)に移った。多米氏は代々後北条氏に仕えて活躍したが、秀吉の小田原攻めに至り、一族の多くが討死してしまった。最後の当主多米長定は箱根山中城で討死した。このように由緒ある城跡でありながら碑のひとつもないのは寂しいかぎりである。

↑百度屋敷跡に残された古木

↑多米城址と朝倉川
6月5日(土)晴/長篠設楽原古戦場(新城市)
 今日は早朝より快晴。初夏の日差しを浴びながら、織田・徳川と武田の両軍が激突した連吾川周辺域の戦跡・遺跡を二時間ほどかけて歩いた。

 設楽原歴史資料館を起点にウォーキングを開始した。7時半である。資料館は設楽原の南北に流れる連吾川の東岸、信玄台地と呼ばれる台地上にある。資料館南側に大小の信玄塚と宝篋印塔、合戦陣没者供養塔などがある。合戦後、村人が戦死者の遺体を葬った場所である。

 信玄塚から台地を下り設楽原に出た。のどかな田園風景が広がっている。連吾川に沿って南へ向かう。川といっても幅2mほどの細流である。対岸に東郷中学の校舎が見えるところで川を渡る。この付近が古戦場南部の激戦地で「竹広激戦地」の石標が建っている。武田方の山県昌景勢と徳川勢が激闘を交えたところである。

 東郷中学前に「長篠役設楽原決戦場」の石碑が建ち、その北側台地が家康物見塚である。このあたりは徳川勢が布陣したところである。 東郷中の南側を迂回し、西側に出て北へ向かう。校庭の柵が馬防柵になっており、いかにも古戦場の只中にある学校らしい。「平成の馬防柵」と名付けられていた。

 この柵にに沿って行くと前方に神社の鳥居が見える。そこが徳川家康の本陣跡である。三方原の合戦で武田信玄に苦杯を飲まされ、その後も武田勝頼の侵攻に苦しめられ続けてきた家康にとってこの戦いは反転攻勢のチャンスとなりうるものであった。合戦に臨む家康以下八千の将士の士気は最高潮に達していたに違いない。

 再び連吾川まで戻り、川の西側を北上した。約400mほどのところに連吾川に架かる柳田橋がある。この橋の東側に「柳田前激戦地」の石標が建っている。武田方内藤昌豊隊と織田勢の激戦地である。内藤勢は一ノ柵、二ノ柵まで破ったが三ノ柵で織田の鉄砲隊の斉射を浴びて崩れ去った。柳田橋の欄干の東側には騎馬武者(武田方)、西側には鉄砲を構える足軽(織田方)の描かれたレリーフ板が埋め込まれていた。

 柳田橋から北側左手に復元された馬防柵が見える。柵の背後の丘陵が弾正山と呼ばれるところで、合戦時に織田信長が督戦した位置である。とりあえず、丘に上がってみようと思い、橋から西へ向かって歩いた。緩い上り坂を登りきったところに「歴史の見える丘」と題する説明板が立てられており、周囲は工場地帯となっていた。戦国当時、この辺は草刈場で見通しがよかったそうだが、現在では樹木や建物でかつての戦場は俯瞰できない。

 再び柳田橋の手前まで戻り、左側の馬防柵の方へ向かった。柵は約100mほど南北に構えられている。柵列の北隅に「土屋右衛門尉昌次戦死之地」の史跡碑が建てられている。土屋昌次勢は真田勢とともに織田の馬防柵めがけて突撃したが猛烈な鉄砲の弾幕によって崩れ、昌次は柵際で討死を遂げたという。碑のそばに立てられた古戦場いろはかるたの看板に「土屋昌次柵にとりつき大音声」とある。壮烈な討死の様子が目に見えるようである。土屋昌次の碑のそばに堀と土塁で構築された馬防柵が復元されている。「名和式鉄砲構え」と名付けられている。各種文献や時代考証によったものだそうだ。

 馬防柵の西側の道を迂回してさらに北へ向かう。先の柳田橋の北300mほどのところの橋で連吾川の東へ出た。ここから200mほど北側に樹木の生茂る小さな独立丘が見える。このあたり一帯は「大宮前激戦地」と呼ばれるところで、戦線の北端にあたる。

 激戦地の石標の建つ農道を進み、小さな独立丘へ向かった。丸山と呼ばれる丘である。織田軍の佐久間信盛勢がこの丘に布陣して武田軍の攻撃に備えていた場所である。武田軍の右翼は猛将馬場信房勢であった。馬場勢の猛攻に佐久間勢は耐えられず、この丘を捨てて柵内に退散したという。馬場信房はこの丘を占拠したところで、初戦に勝ったとして勝頼に退却を進言したと伝えられている。ここから東に見える丘陵が才ノ神と呼ばれるところで勝頼が本陣を進めたところである。無論、勝頼にその気はなく、戦いは続行された。真田兄弟が斃れ、馬場信房の手勢も八十騎ほどに激減した。さらに北方から木下秀吉勢の横撃を受けてこの方面の武田軍は崩れ去った。

 丸山前の道路を東に向かって歩く。約700mほどで東郷東小学校前に出るが、その手前に丘へ上がる整備された階段が目に付いたので上がってみた。「五味輿惣兵衛貞氏之墓」がそこにあった。五味貞氏は武田浪人組に属して鳶ヶ巣山方面で討死したと言われ、塩瀬久兵衛が首をここに埋めたとの言い伝えによるものだそうだ。

 東郷東小の西側の小路を南へ向かう。小学校から200mほどの左側に少し入ったところに「土屋右衛門尉昌次之碑」がある。戦死の地は馬防柵のとこであるが、後に墓碑がここに建てられた。

 さらに300mほど南に歩くと資料館への入口近くに出る。信玄塚のあるところだ。塚の西側の畑の中に「原隼人佐昌胤之碑」が建っている。原昌胤は内藤昌豊らとともに武田軍の中央戦線で突撃に加わり討死した。原昌胤の碑の前の路を南へ150mほど行くと右に下る路がある。ここを下りたところに「山県三郎兵衛昌景之碑」がある。山県勢は武田軍左翼に布陣して正面の徳川勢と激闘した。昌景も鉄砲に撃たれて絶命し、従士によってここまで運ばれたということである。

 これでざっとではあるが戦場を一周することができた。資料館に戻ったのは9時半、約2時間5・6kmくらいの道のりであったかと思われる。心地よい初夏の日差しを浴びてこれまた心地よい汗をかくことができた。

 最後に「織田信長戦地本陣」の跡に立ち寄った。ここは車での移動である。古戦場の柳田前激戦地から直線で約1kmほどの位置の茶臼山がそうである。決戦の前日、信長はこの地で武田の設楽原進出を確認して翌日の決戦に備えた。茶臼山はもともと山城の築かれた古城跡であったといわれている。信長の本陣跡には神社が建ち、信長の歌碑などが建てられている。鳥居の南側は階段状の曲輪跡を思わせるような地形が見られた。

↑信玄塚(小塚)

↑竹広激戦地

↑平成の馬防柵(東郷中学校)

↑騎馬武者のレリーフ(柳田前激戦地)

↑再現された馬防柵

↑現在の連吾川

↑大宮前激戦地から見た丸山

↑山県昌景と配下の墓碑群

↑織田信長戦地本陣(茶臼山)
5月30日(日)曇後晴/牟呂城(豊橋市)
 豊橋市牟呂町の牟呂城跡へ出掛けた。
 戦国当時、三河湾の海岸がこの城のかなり近くにあったようだ。築城者は現在の蒲郡市域に勢力をもっていた鵜殿氏ということである。三河湾を制するための出城として築かれたものであろうか。城主として鵜殿兵庫頭の名が伝えられている。上之郷城(蒲郡市)の鵜殿氏本家は三河平定を進める徳川家康に敵対して滅ぼされてしまうが、他の一族は皆家康に従って戦国時代を生き抜いた。上之郷城の戦いの際に牟呂城の鵜殿兵庫も家康に降ったようだ。
 城は土塁と堀から成る方形単郭であったようだが、現在は土塁の一部が残存するのみである。その土塁の上に祠が祀られているが、そのおかげで破壊されずに残ったのだといえる。

↑牟呂城跡の土塁
5月15日(土)晴時々曇/小長谷城(川根本町)
 6時発。東名相良牧之原ICから大井川に沿って約50kmほど北上した、川根本町の千頭に向かった。目的は小長谷城である。諸書には小長井城とも書かれているが現地表記は「小長谷城」である。大井川の急流を利用した要害堅固の城である。
 城址は徳谷神社の境内地となっており、本丸跡に拝殿や社務所の建物が建っている。本丸まで車の乗り入れが可能だ。車から降りて城址に立つと、神社独特の清浄さと新緑の草木が放つ森の空気が全身を包んでくれる。日々忙しい現代人にはかけがえの無い貴重な場所ではないだろうか。ただ、立っているだけで心身ともに癒されてくるのが判る。しかもここには戦国時代人の生きた証しが数百年の時間を越えて目の前に広がっているのである。
 小長谷城は駿河土岐氏の裔でこの地に土着した小長谷氏歴代の居城であった。戦国期には今川氏に属していたというが、その事績については詳しく伝えられてはいないようだ。今川氏が武田氏に追われた後には武田氏に属したと言われている。
 城址の遺構から武田氏による改修が加えられたと見られる箇所が散見できる。元亀年間(1570-73)当時、ここに武田の一軍が駐屯して遠江進出の拠点としていたのであろう。神社裏手に残る堀、土橋、出曲輪などはいかにも武田流のにおいがする。
 神社の鳥居の建つ場所が虎口跡のようで、そこから三の丸、二の丸、本丸と階段状に高くなっており、それぞれに土塁の遺構が残されていた。

↑小長谷城本丸の徳谷神社

↑本丸東側の空堀(1号堀)
5月4日(火)晴/中尾生城(浜松市/旧龍山村)
 今日は久々の北遠の山城攻略に出掛けた。旧龍山村の中尾生城である。読み方は「なかびゅう」と読むようだ。
 5年前に登城を試みようとしたのだが、当時の情報では村人の案内が必要であるとか、道なき道を直登しただとか、何やら大変な覚悟で臨まなければ登城は果たせないような山城だったような気がする。そんな訳で反対側の山腹から城山を撮影しただけであった。
 その後、城郭同好の方々がこの山城を攻略していることを知り、その情報から登城路も設けられていることが分かった。地元にいながらビビッていた自分が恥ずかしい。
 国道152を天竜川に沿って北上。早朝の山の空気はうまい。秋葉ダム手前で白倉川沿いに西に向かう。しばらく行くと中日向上バス停があり、ここで右折して川を渡る。後は道なりに進むだけだ。当然、道は狭いので対向車には注意だ。途中から林道に変わる。未舗装なので車高の低い車は底を擦るので要注意だ。Uターンは無理、とにかく前に進むのみ。やがて「城山稲荷登山口」の案内板が立っている。3台分ほどの駐車スペースが確保されていた。
 登山口からは15分ほどで城山山頂に着いた。途中には案内板があって道に迷うこともなく、しかも斜度も緩やかで、のんびり歩けば息を切らすこともない。
 山頂の本曲輪跡には小さな稲荷社が建っている。杉の木立が無ければ北遠の山並みが一望できるはずだ。本曲輪に至る前に鳥居が立っているが、そこが二の曲輪らしい。本曲輪の西側下には空堀の遺構が残っている。登城の際に歩いてきたところだ。
 城の歴史の詳細は分からない。戦国期、天野氏と今川氏の有する支城のひとつであったと見られている。今川氏の没落する直前の時期に奥山兵部と奥山左近がこの城を預かっている。現在に残る遺構や曲輪の姿は彼らによって改修・補強されたものだろう。
 山を下りながら視界の開けたところから望む北遠の山並みはすばらしい。果てしなく続く山塊を眺めていると、そこには南朝方の隠れ里があり、様々な後南朝伝説が秘かに伝えられており、自然の雄大さとともに歴史のロマンがよみがえり、なぜか心身ともに癒される思いがした。

↑城山登山口

↑中尾生城本曲輪

↑北遠の山並み
5月2日(日)晴/沼津城山中城興国寺城蒲原城(伊豆、駿河)
 GWの渋滞に巻き込まれないことを祈りつつ、4時半に出た。街はまだ寝静まっているが、高速道路だけは別世界だ。渋滞はないが、車の流れは混雑ぎみだ。PA/SAは満車状態。休憩なしで一気に沼津ICまで飛ばした。
 沼津、7時着。早朝の市街地はまだ車が少ない。とはいえ、路駐は気が引ける。沼津城の本丸跡である中央公園周辺のPに乗り入れた。
 沼津城はかつて武田氏によって築かれ、三枚橋城と呼ばれていた城であった。武田氏が伊豆の北条氏に対するためのものであったのだ。それが、天正十年(1582)に徳川家康が駿河を制圧するにいたり、三枚橋城の高坂昌宣は城を捨てて甲州に逃れたため、城は家康のものとなったのだ。この時に沼津城と名が改められたという。
 現在では市街地化して城のあったことすら想像することもできなくなってしまっている。本丸跡の公園に石碑が建つのみである。
 沼津から国道1号を箱根方面に向かう。国史跡にもなっている山中城だ。障子堀、畝堀で名高い北条氏の城である。
 山中城は北条氏が本拠地小田原城を防衛するため、箱根方面に築いた城で最も力を入れたと言われている。北条流築城術の粋を集めて築かれた城であったが、豊臣・徳川勢の猛攻の前にわずか数時間の戦闘で落城してしまった。いかに名城といえども人を得て初めて堅城となるのだ。酷なようだが北条方の指揮に問題があったのではないだろうか。
 それにしても、戦国期の山城がほぼ完璧な姿で私たちは目にすることができるのだ。貴重な歴史遺産といえる。
 山中城は国道1号で分断されている。現代の箱根街道はにぎやかだ。スポーツカーや改造車で若者たちが行き交っている。かつてここで血みどろの戦いがあったことを、彼らはたぶん知らないだろう。
 再び1号を返して沼津へ向かい、興国寺城へ向かった。沼津市西部の根古屋という所である。
 興国寺城は伊勢新九郎こと北条早雲が居城とした城であり、ここから伊豆の堀越公方を滅ぼして戦国大名としての第一歩を踏み出したところである。現在見られる遺構は天文十八年(1549)頃に今川氏によって拡張されたものであろう。早雲の去った後は今川氏と北条氏が争奪を繰り返し、武田氏の駿河進攻後は武田の城となった。武田氏の後は徳川氏と城主はめまぐるしく替わった。
 ここも国指定史跡となっており、発掘調査と遺構の保存が進められているようだ。規模的には広大というほどでもないが、本丸の三方を取り巻く巨大な土塁と空堀の遺構は一見に値する。
 興国寺城から国道1号をさらに西へ向かう。途中、昼食を済ませて富士川を渡り、蒲原へ向かった。目標は蒲原城だ。
 ナビの設定ミスであらぬ山道へと迷い込んでしまった。再び返して蒲原の町中に戻る。ちょうど道路に掲げてあった観光案内板の絵地図で確認、かなり行き過ぎていた。気を取り直して城を目指す。
 蒲原城は駿河を攻略した武田氏とこれに対抗する北条氏が戦った城である。創築は今川氏によるが、城番が置かれた程度の城だったようだ。永禄十一年(1568)に武田氏が今川氏を追って駿河を攻略した際に北条氏がこの城を確保した。翌年、再度駿河に進攻した武田軍と城を守る北条軍との間で攻防戦が繰り広げられ、北条軍は壊滅した。
 本丸跡に立って南を見ると、眼下に東海道、その先に駿河湾が広がっている。この城から海をはじめて目にする武田の兵たちは何を思ったか。青々と広がるその景色に、すべてを忘れてただ見入っていたに違いない。


↑沼津城本丸跡/中央公園


↑山中城岱崎出丸の畝堀


↑興国寺城本丸と土塁


↑蒲原城善福寺曲輪と駿河湾
4月25日(日)晴/伊庭城波入江城北裏城杉山城(豊橋市)
 豊橋市南部の4城を訪ねた。
 いずれも細い路地ばかりで、車による訪城には要注意だ。
 豊橋バイパス大崎インターを降りて大崎町の伊庭城から訪城を開始した。

 伊庭城は土豪伊庭藤太が築いたと言われているが、具体的なことはよく分からない。城址とされるところは畑地となっているが30m四方の高まりとなっており、土塁の名残と思われる部分もあった。




 波入江城は伊庭城の南約1kmのところにある。祥雲寺の裏手が墓地となっているが、高台となっていて城址であったことを伝える地形である。墓地の入口に「波入江城の跡に…」と書かれた板が掲示されていた。
 城史は戦国期に田原城の戸田氏の支城であったというのみで詳細は分からない。





 北裏城は波入江城の南西500mほどの近さにある。車幅一杯の道を右に左にとハンドルを切りながら進む。対向車があれば万事窮すである。運よく対向車なく城跡に着くことができてホッとした。城跡といっても農耕地となっていて明確な遺構といものは見られないが、長方形の土壇状の畑が城址の名残を伝えているのみである。
 城主としては戸田忠政の名が伝わっているが、詳しいことは分からない。





 杉山城は北浦城の南3km程のところにある。城址は寶林寺の境内となっている。山門前が堀跡かと思われるような地形となっており土橋状の通路から門内に入るようになっている。ここも本堂の裏手の高台が墓地となっており、城址とされている。
 城主として杉浦右衛門太夫、杉山久助俊輝といった土豪の名が伝えられている。

↑伊庭城

↑波入江城

↑北裏城

↑杉山城
4月3日(土)晴/勝幡城清洲城蟹江城荒子城阿久比城(尾張)
 5時半発。今年2度目の尾張国城郭探訪である。
 東名から東名阪道へ入り、清洲西で降りた。清洲城をひとまずやり過ごして勝幡城へ向かった。

 勝幡城は織田信長の生誕地であると言われている。創築は信長の祖父信定によってなされ、父信秀がここを拠点に勢力を拡大したことで知られている。信長は天文三年(1534)の生まれで、その翌年には信秀はここ勝幡城から古渡城に移ったとされているから、信長の居た時期はほんのわずかな間だったことになる。しかも信秀は平手政秀を守役として乳呑み児の信長を那古野城に居城させたというから、ここ勝幡城は信長ゆかりの城というよりは父信秀が尾張の実力者としての足場を固め、織田家(信長)雄飛の出発点となった城といえよう。
 こうした意義深い城跡であるが、宅地化されて遺構は残されていない。石碑が建つのみである。朝陽に映える城址碑をカメラに収め、再び来た道を返して清洲城へと向かった。

 清洲城は信長が尾張平定の居城としたところであり、乾坤一擲の決意を胸に秘めて桶狭間へと出陣した城である。
 8時、清洲城到着。五条川べりと信長の銅像の建つ公園には桜が満開であった。桜花爛漫、桶狭間方向を見据えて立つ信長像も今日ばかりは目前の桜に見とれているようだ。天守閣開門までの時間、周辺を散策、復興天守閣の威容をカメラに収めた。復元天守ではないが、不自然な違和感を感じさせない造りである。ま、見る人によってであるが。開門と同時に登閣して内部を見学。

 次に向かったのは蟹江城である。伊勢との国境に近いこの城は天正十二年(1584)の長久手合戦後に起きた蟹江合戦の舞台となった城として知られている。信長亡き後、羽柴秀吉と徳川家康が衝突した小牧・長久手合戦は戦術面では秀吉の大敗に終わった。しかし、東軍(家康方)蟹江城代の謀反を機に、秀吉は一矢を報いようと軍勢を蟹江城に向けて乗っ取ろうとしたのである。ところが、徳川勢に城を囲まれ、目的を果たせずに又もや惨敗を喫したのであった。
 当時の蟹江城には満潮ともなれば船で城への出入ができたという。宅地化された現在の蟹江城址からは想像することすら難しい。ここも石碑がひとつ建つのみである。ただ、石碑の近くの民家前に本丸井戸の跡が残されている。貴重な遺構である。

 次は荒子城に向かった。荒子城は加賀百万石前田利家ゆかりの城跡である。利家は秀吉とともに信長のもとで頭角をあらわし、信長亡き後は秀吉の良き協力者として一生を終えた。
 名古屋臨海高速鉄道の荒子駅前には「前田利家公初陣之像」が建っている。馬上凛々しく槍を構えた姿である。

 今日の最後の訪城地は阿久比である。名古屋から南下、知多半島の半ばに阿久比城がある。古来、久松氏の居城跡である。この城は家康の母である於大の方の再嫁先であったことでも知られている。岡崎城の松平広忠のもとに嫁いだ於大の方は天文十一年(1542)に家康を生んだ。しかし、実家の水野氏が同十三年に織田方に離反したため、広忠は今川氏に遠慮して於大の方を離縁したのである。その後嫁いだ先がここ阿久比城主久松俊勝だったのである。俊勝と於大の方の間に生まれた3人の男子は家康から松平姓を与えられ、久松松平氏として江戸期には大名や旗本として栄えた。
 現在、城址には石碑が建ち、僅かに土塁と思われる遺構も見受けられる。ここも桜が満開で風に花びらが舞うさまは、戦国を生きた人々の潔さとともに数々の悲哀を乗せて宙を舞い、そして地を彩っているように思えた。

↑勝幡城跡

↑清洲城復興天守

↑蟹江城跡

↑荒子城跡

↑阿久比城跡
3月20日(土)晴後曇/赤岩城(豊橋市)
 今日は午後から天気が崩れるとの予報だ。朝の晴れ間を見て県境を越えてすぐの赤岩城に出掛けた。
 赤岩城は多米峠を介して三河と遠江の国境に近い山城だ。県道4号沿いにある赤岩山赤岩寺が登城口となる。門前の駐車場から登山開始だ。寺の裏山が城跡である。境内を歩き、奥へ向かうと山上に向かって続く長い石段が現れる。息も絶えだえとなり、足を止めながら登るほかない。登りきった所に御堂がある。そこからもう少し登ったところが城址だ。「林間広場」と表示されていた。ということは公園化のために多少の手が加えられて遺構が改変されている部分もあるかもしれない。
 その広場自体が曲輪跡であり、尾根筋方向に三段の曲輪で構成されているようだ。落ち葉を踏みしめながら上り詰めて最高所に立つと眼下に大きな堀切が現れる。かなりの深さがある。尾根筋から攻め寄せる敵兵は確実にここで阻止できる。まぎれもない戦国の山城だ。
 そんな赤岩城であるがその歴史はというとよく分からないのだ。松平清康との合戦で吉田城外に壊滅した牧野氏の一族牧野新三郎が命からがら戦場を落ち延び、ここ赤岩寺に逃れたと云われていることから牧野氏に関連する城であったのかもしれない。
 城址の南側の御堂付近には赤岩の名の如く奇岩絶壁の光景を見ることができる。その高い岩壁の中ほどから役の行者が見下ろしていたのには驚いた(^。^)

↑赤岩城の大堀切

↑頭上高く、岩壁から「役の行者」が…
2月20日(土)晴/岩倉城犬山城羽黒城楽田城小牧山城(尾張)
 5時発。犬山、小牧周辺の訪城に出かけた。小牧ICを降りたのはまだ7時前だった。例によって、駐車に困りそうな所は早朝の交通量の少ない時間帯を狙う。


 本日最初の訪城は岩倉城だ。城址碑は県道沿いに建っている。かつては広大な城域を有していたようだが、現在は宅地化して遺構はない。
 岩倉城は尾張上四郡を領する守護代織田伊勢守信安の居城であったが、永禄二年(1559)に織田信長によって攻め落とされた。信長はこれで尾張八郡をおさめたことになる。


 次は犬山城だ。尾張と美濃の境である木曽川に面した丘の上にある。現在では数少ない現存天守を有する国宝の城である。
 まず、木曽川の上流側から断崖上に見える天守を撮影。午後ならば、下流側からの方がいいだろう。そして一旦川を渡り、木曽川越しにワンショットといきたい。国境に睨みを利かす戦国の城、といった風情をかみしめたいところだ。
 永禄七年(1564)、信長はこの城を落とすと池田恒興を城主とした。その後、織田信雄など城主が幾度も入れ替わったが、元和四年(1618)に至り成瀬氏が城主となってからは同氏が代々続いて明治に至った。平成の現在に至ってもなお成瀬氏所有という、全国でも稀有な存在の城である。


 再び道を返して小牧方面に向かう。小牧に至る途中に羽黒城と楽田城の城址がある。
 羽黒城は竹薮に覆われた中に城址碑が建っているとの情報であったが、幸いに竹の8割近くが伐採されて城址の周辺の地形がよく確認できる状態になっていた。古墳の墳丘部を利用したというのもよく分かった。
 羽黒城の創築者は梶原氏で戦国期には信長に仕え、本能寺で信長とともに滅びた。小牧・長久手合戦時、秀吉方の森長可が布陣して徳川勢と戦った戦跡でもある。


 楽田城も小牧・長久手合戦時に秀吉が布陣した城としても知られている。かつて信長によって落とされた城のひとつであるが、その当時であろうか、二階の天守閣が建てられていたともいわれ、わが国最初の天守閣ともいわれている城でもある。
 現在、城域は小学校となり、校門前に城址碑が建つのみである。


 本日最後の訪城地は小牧山城だ。頂上には模擬の天守が建ち、名神高速を走っているとその天守が必ず目に入る城だ。主郭まで15分ほどであるが、その途中には土塁やら空堀の遺構が目にとまり、城郭ファンを退屈させることはない。
 永禄六年(1563)に信長がここに城を築き、清洲城から移った。次なる目標は美濃攻略だとの意気込みが伝わってくる城である。小牧・長久手合戦では徳川家康が本陣とした城として知られる。


 本日の予定は順調に進んだため、まだ陽は高いが帰路につくことにした。

↑岩倉城跡

↑犬山城と木曽川

↑羽黒城跡

↑楽田城跡

↑小牧山城模擬天守(歴史館)
2月6日(土)晴/久能城石脇城(駿河)
 今日は観光気分で出かけた。強風に雪がちらつく寒い朝であったが日中の天気は快晴であった。 東名高速を東へ、静岡インターから日本平へと向かった。

 久能山は20年以上前に訪れており、今回は二度目となる。当時は千段以上の石段を海側から登ったものだが、寄せる年波には勝てず、今回は日本平からロープウェーを利用しての登城だ。

 久能山は現在、徳川家康の埋葬地となったことで東照宮の境内地となっているが、戦国時代、ここは武田信玄が要害の地と見立てて城砦化したところなのである。久能山ロープウェー駅、ここが二の丸であり、東照宮の社殿が建つ区域が本丸だ。残念ながら参道とその付近以外は立ち入ることができないので、他の城跡のように資料片手に歩き回ることはできない。

 社殿のさらに奥深くに家康公の埋葬された神廟がある。静かな森の空気に包まれて厳かな雰囲気が漂っている。歴史好き、城好きならずとも、誰しもが手を合わせたくなる場所でもある。

 久能城訪城の後、数ヶ所の訪城を予定していたのだが、昨夜の寝不足のせいか、どうも気乗りがせず、帰路につくことにした。まぁ、県内だし、いつでも来れるから今日はいいか。と、相棒のトモ坊にも理解してもらった。

 とはいえ、このまま帰るのも何だし、ということで焼津市の石脇城に立ち寄ることにした。

 石脇城は室町の中頃に今川家の協力者となった伊勢新九郎が初めて城主となった城として知られている。伊勢新九郎は後の北条早雲のことである。現在は大日堂やら八幡社が建つ境内地、もしくは墓地となっている。遺構らしきものはないようだ。寒風に木々が揺れ騒ぐなか、物足りない思いを胸に無人の城跡から退散した。

↑久能城本丸入口に相当する楼門

↑久能城大手門(一ノ門)から駿河湾を展望

↑石脇城跡入口の城址標柱
1月31日(日)曇/波瀬城(田原市)
 インフルから立ち直り、体調も万全だ。曇り空であったが、肩慣らし程度に出かけることにした。
 目的地は波瀬城跡。田原市と豊橋市の境に近い。現在は雷電神社の境内地となっているようだ。神社の東側に方形の一段高くなった畑地がある。殿屋敷と呼ばれているらしい。城としての遺構は見当たらない。神社の裏側が土段状になっているが、城の遺構なのかは分からない。
 城史に関しても曖昧なものでしかない。将軍足利義政の命によって渡辺豊後守弘が築城したと伝えられている程度だ。渡辺豊後なる人物についてもよく分からないし、政治に無関心であった義政がこんな所に築城を命じたというのも腑に落ちない。
 こんなんでまとめられるか、心細いかぎりだ。

↑波瀬城址の雷電神社
1月4日(月)晴/徳島城(徳島市)
 8時半、徳島城。蜂須賀小六家政が阿波一国の府城として築いた平山城だ。阿波髄一の山城と言われた一宮城を去り、平地に城を築いたのだ。「地の利を頼まず、人の和を得べし」と反対する家臣らを諭したという。
 城址には復元した「鷲の門」以外の建造物は何もない。石垣と堀が残るだけである。しかし蜂須賀家14代280年の長きにわたり阿波・淡路25万7千石を支えてきた風格が、緑泥片岩という阿波独特の石材を使った石垣から伝わってくる。他国の城にはない、緑色をした石垣とその色を映し出してさらに濃い緑になった堀の水が、なぜか心を癒してくれる。
 現在の徳島城博物館の建つ広場は御殿のあった場所だ。本丸、二の丸、三の丸は御殿裏の山上に築かれている。急な石段をあえぎながら登りきると広大な本丸に出る。ここからは徳島市街が一望だ。本丸を支える石垣は御殿を取り巻く整然とした石垣とは趣きを異にしていた。山上の石垣はまだ戦国の荒々しさを遺しているように感じられた。
 10時、名残は尽きないが帰ることにした。帰路の高速の渋滞が気にかかる。夕方近くにはお決まりの渋滞ヶ所ではピークに達するはずだ。昼前後には関西を抜けたい。
 予想したように豊田から浜松まで渋滞。高速を降りて山間の一般道で浜松へ。19時半帰着。1,150kmの阿波遠征であった。

↑徳島城の鷲の門

↑徳島城本丸の石垣
1月3日(日)曇時々晴/海部城日和佐城和食城牛岐城勝瑞城西条東城川島城(徳島県)
 前日の夜9時に浜松発。正月渋滞の解消した深夜早朝の高速を快調に西へと向かった。目的地は四国の阿波国だ。海沿いの城跡をたどりつつ徳島市近郊へと引き返す計画だ。
 というわけで、鳴門ICから寝静まった徳島市街を抜けて真っ暗な一般道を南へと疾走。本日最初の目標、海部城へと向かった。
 5時半、海部城址近くの鞆浦漁港に到着。阿波南端、土佐との国境までわずかなところだ。夏場であれば、すぐに登城開始といきたいところだが、まだ暗闇だ。日の出まで1時間以上ある。港の一画に乗り入れ、しばしの仮眠。

 7時、行動開始。海部城は鞆城とも呼ばれる。天正5年(1577)に長宗我部元親による四国平定の最初に血祭りに上げられた城である。城主は海部友光といった。城址近くには城址碑や阿波水軍の森志摩守の墓がある。登城は港側に設けられた津波非難路から城山に登った。津波避難所としても活用されているようだ。

 8時、日和佐城に到着。連ドラ「ウェルかめ」の町だ。城主は日和佐肥前守。天正5年、海部城に続いて長宗我部軍が押し寄せ、日和佐氏は降伏した。城山には天守閣風の施設が建てられているが、史跡としての遺構は保存されていないようだ。施設への入館もかなり以前から閉館状態のようだ。町としてはやっていけないようで、民間に委託されたという看板が立てられていた。

 9時、和食城着。仁宇城とも呼ぶ。城主は土豪の仁宇氏。蜂須賀氏入国時に在地勢力を結集して一揆を起こして抵抗した。仁宇谷一揆だ。その後、蜂須賀氏の阿波九城のひとつとなった。ただ、城址といわれる場所と城址碑の建てられている場所が別になっている。いまひとつしっくりいかない城跡でもある。

 10時半、牛岐城着。阿南市役所の近くである。またの名を富岡城ともいう。城主は新開遠江守。足利時代初期に細川氏に従って入国、土着した。天正10年(1582)、長宗我部元親は和議を持ちかけて新開氏を呼び出し、酒肴の席で騙し討ちした。現在の城址には展望台が建ち、LEDの電飾で派手に飾られていた。そして「恋人の聖地」の金色のプレートが掲げられていた。一方で史跡公園としての整備も行われているようだ。古図によれば瓢箪型の城のようで、展望台の丘の北側に神社のある丘が見える。新開神社だ。新開氏を祀っているのであろうか。とにかく行ってみることにした。ところが神社の丘の周囲を一周してみたが入口が見つからないのだ。住宅地と急斜面の地肌が見えるだけである。あきらめようかと迷いながら神社の南側の通りをうろうろしていると家と家の間、人ひとり通れるほどの隙間の向こうに石段が見えた。これだ、と思い神社の丘に登ることができた。
 この後、予定では徳島市一宮町の一宮城であったが、徳島へ向かう国道が渋滞していて12時を回ってしまった。このペースだと本日最後の訪問地勝瑞城では日が暮れてしまう恐れがある。急遽、コース変更。迂回路をとりながら勝瑞城へと向かった。

 13時、勝瑞城着。阿波守護細川氏八代の府城であり、三好氏三代の城館であったところだ。国の史跡に指定され、周辺では発掘調査が進行中でもある。城址には見性寺が建ち、三好三代の五輪塔が並んでいる。寺の周囲は水堀がめぐり、土塁跡なども残されていた。京都では管領として権力を振るった細川氏、その細川氏を追って権力を手中にした三好氏である。舞台は京都であったとはいえ、地元の勝瑞でも同じようなことが起きていたのだ。しかも絶世の美女といわれた小少将がからむ愛憎劇が展開され、下克上につぐ下克上によって勝瑞城は亡国の城になり下がってしまった。天正10年、長宗我部によって落城。

 14時、西条東城着。美女小少将の父岡本美作守の居城跡だ。小少将はこの城で生まれたのであろうか。美作守は勝瑞城の細川持隆に仕えていた。この関係で美作守の娘小少将は持隆の側室となったが、後に細川家臣の三好義賢に鞍替えして持隆を謀殺してしまった。これがもととなって阿波の国情は衰退の一途をたどり、長宗我部によって滅びてしまう。まさしく傾国の美女小少将というべきか。城址には史跡碑と小祠が建つのみだ。しかも住宅地のはざ間にあり、傍の民家は廃屋のようでもある。しかも石碑のすぐ傍に乗用車が放置されている。なんとも情けない光景だ。ただ、祠に正月のしめ飾りがされており、忘れられた存在でないことが救いといえよう。

 14時半、川島城着。城主は川島兵衛之進。長宗我部との戦いで岩倉城にて討死。蜂須賀氏入国により阿波九城のひとつとなり、林道感が城主となった。ここにも、復元でも再建でもない天守閣風の施設が建てられている。この施設の西隣に川島神社がある。ここが二の丸跡となる。さらに西側に行くと高くなり、その先は岩の鼻と呼ばれるところに出る。岩の鼻は巨岩絶壁の断崖上のことで、岩頭まで行くことができる。もちろん柵はあるが足がすくむほどの高さである。
 15時半、さてどうするか。カメラ撮影に適した時間帯もあと1時間ほどだ。冬場の日没は早いのだから仕方がない。ここから徳島市内まで1時間半くらいか、相変わらず道の交通量は多い。本日の城めぐりは切り上げてホテルへ向かうことにした。

↑鞆浦の漁港と海部城址

↑日和佐城

↑和食城跡とされる蛭子神社。

↑牛岐城跡

↑勝瑞城跡と見性寺

↑西条東城

↑川島城