大野城
(おおのじょう)

                   愛知県常滑市金山      


▲ 大野城は佐治氏四代、大野水軍の城として知られているが、その事績については謎の
部分が多い。現在、城跡は城山公園として管理され、主郭には天守風の展望台が建っている。

知多大野水軍の拠城

 大野城、又は宮山城とも呼ばれるこの城を最初に築いたのは、三河からこの地に勢力を広げた一色氏であると伝えられている。貞和元年(1345)に一色範氏が大興寺(知多市)を再興したというから、この頃に知多へ進出したのであろうか。そして子の範光の代に城が築かれたとされている。
 その後、範光が三河守護になるなどして一色氏全盛の時代が半世紀ほど続いて応仁の乱(1467)となる。この間に知多の一色氏は半島を勢力下に置いて伊勢湾の海運を掌握したといわれる。ところが応仁の乱で西軍山名方に付いた一色氏はこれを機に衰退の一途をたどることになる。
 知多の一色氏も周辺諸豪との衝突を繰り返し、斜陽の一途であったと思われる。半島東部に阿久比氏、南部には渥美半島を制した戸田氏がそれぞれ城を築いて勢力を拡大していた。
 こうした危機を乗り切るためであろうか、一色氏は江州甲賀から佐治氏を重臣として招いたと言われている。一色氏と佐治氏の関連はよく分らないが、何らかの信頼関係があったのかも知れない。
 城址説明板によれば、こうして知多大野にやってきたのが佐治駿河守宗貞ということになる。没年が享禄三年(1530)というから、やってきたのは永正の頃(1504-21)であろうか。やがて宗貞は半島西側を支配して知多一色氏を凌ぐ勢いを示した。戦国の世は下剋上の世でもあった。やがて宗貞は大野城から一色氏を追って城主となった。
 そして二代上野守為貞は織田信長に臣従、三代八郎信方と続いた。
 永禄十一年(1568)織田信長は足利義昭を奉じて武力上洛を果たした。この年、信長の妹お犬の方が佐治三代信方のもとへ輿入れした。大野姫、大野殿などと呼ばれている。二人とも十六歳前後の若さであった。
 信長が妹を嫁がせてまで佐治氏を取り込もうとしたのはその水軍力にあったと言われている。翌永禄十二年(1569)からは信長の伊勢平定が進められるが、作戦遂行上、伊勢湾の海上権の確保が重要であったからとも考えられる。
 織田家の一族衆となった佐治信方であったが、元亀二年(1571)五月の長島一揆攻めで討死してしまった。そして妻お犬の方は大野を離れて細川昭元の室となった。
 大野城に当主として残されたのは、信方とお犬の方との間に生まれた与九郎一成であった。無論、まだ幼児である。
 天正十年(1582)、本能寺に織田信長が斃れ、その後継をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家の争いが表面化する。信方討死後、この十年余の間、佐治氏の動向は史上に見えないが、与九郎一成は当主として家臣団の支えを得て成長したものと思われる。また織田長益が後見となったとの説もある。

▲ 主郭物見台跡の佐治神社。右端に佐治与九郎一成の像が祀られている。
 さて、清州会議の結果、知多大野五万石佐治氏は清州城主織田信雄の配下となった。翌天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利した。この頃、信長の妹お市の娘三人姉妹の末っ子お江が大野城の一成に嫁いできた。佐治大野水軍を取り込むための秀吉の政略であったかもしれない。
 天正十二年(1584)、織田信雄が徳川家康と組み、秀吉と戦う。小牧・長久手の戦いである。この戦いにおける佐治一成の動向が今一つはっきりせずよく分らないが、信雄配下であることから反秀吉の立場をとったものと思われる。
 このため、秀吉は戦後すぐにお江を一成から離縁させて取り上げてしまい、さらに大野城を攻め落としたと言われている。ただ、この辺の事情を記した史料がなく、諸説あって明確ではない。
 落城後、大野は織田長益の所領となった。長益(有楽斎)は山上の城跡を嫌って平地の大草に築城(大草城)をはじめた。
 妻を取り上げられ、さらに城を失い、家臣らとも決別を余儀なくされた一成は伯父である安濃津城主織田信包の家臣となった。信包没後は京に隠棲、剃髪して巨哉と号した。寛永十一年(1634)没、六十五歳であった。
 ちなみに一成の妻であったお江は後に徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光の生母となった。
 ▲ 大野城址「城山公園」入口。南側からの登城口で最短コースでもある。
▲ 二ノ曲輪跡には遊具が設置されている。

▲ 主郭入口に設けられた城門。

▲ 主郭跡に建てられた城址碑。

▲ 佐治神社の佐治与九郎一成の像。

▲ 展望台から見た知多の海。
----備考----
訪問年月日 2010年11月6日
主要参考資料 「日本城郭全集」
 ↑ 「佐治与九郎水軍記 海の城」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ