大草城
(おおぐさじょう)

                   愛知県知多市大草      


▲ 大草城本丸跡。大草城は普請(土木工事)のみで未完成の城である。
本丸の隅には昭和54年(1979)に天守風の展望台が建てられた。

織田有楽斎、
     築城を手掛ける

 織田有楽斎長益は織田信長の末弟である。武人というより補佐役、調停役、茶人といった感が強い人物であるが、この大草城はその有楽斎が手掛けた唯一の城跡であろう。
 歴史は細部を探ろうとすると分からないことが意外と多い。有楽斎がここに城を築こうとした時期も諸説あって明確ではないのだ。天正二年(1574)、天正十年(1582)、または天正十二年(1584)であるとも言われている。
 天正二年(1574)とするのは、この地域を領していた佐治信方(大野城主/大草城の南約1.4km)が伊勢長島の合戦で討死した後、幼少の一成の後見役を信長が長益(有楽斎)に命じたと言われることによるものだ。天正十年(1582)とするのは、信長が本能寺に斃れた後、清州城主となった織田信雄の臣となった時に有楽斎が当地に封ぜられたというものである。天正十二年(1584)説は小牧・長久手合戦の後、佐治氏が没落したためその領地と家臣らを引き継いだというものである。
 有楽斎が平地の小山であった当地に城を築こうとしたのは、大野城(別名・宮山城)は山高く、水に乏しく、住するに不適であったからだと伝えられている。これが事実であれば、有楽際は佐治氏の去った後に大野城に入城したことになろうか。
 合戦を考慮した峻険な山上の城よりも居住性を優先した有楽斎独自の城、それが大草城であったといえる。
 城址を訪れると平坦な本丸の広さが印象的である。ここに屋敷を建て、庭を造り、のんびりと知多の海を眺めて暮らしたい。有楽際の心の奥にそんな想いがあったのかも知れない。
 しかし時の権力者は有楽斎をいつまでも知多の海辺に放ってはおかなかった。天正十八年(1590)織田信雄が豊臣秀吉によって改易となった。この時、秀吉は有楽斎を御伽衆に加え、摂津味舌二千石を与えた。有楽斎は大坂に呼ばれたのである。ついでながら剃髪して有楽斎を名乗るのはこの後のことである。
 大草城の築城工事も普請の大半は完成したとはいえ、未だ作事(建物)には取り掛かっていなかった。有楽斎移転によって仕方なく工事は中断された。
 関ヶ原合戦後、尾張は徳川家のものとなり、尾張藩五十二万石徳川義直の家臣山澄淡路守英龍に大草の地が給され、寛文六年(1666)に城址西南に屋敷が構えられた。大草城址は立入禁止となり保全された。このため江戸期を通じて荒らされることなく明治に至り、現在もその旧態をよくとどめていると言われている。

▲ 本丸南側の堀。亀がたくさんいる。
 ▲ 大草公園の入り口。本丸搦手口にあたる。入口坂道の両側に駐車スペースが設けられている。
▲ 本丸跡に建てられた天守風の展望台。

▲ 展望台から眺めた知多の海。

▲ 本丸北側の土塁。

▲ 二の丸。

▲ 本丸と二の丸の間の土塁。

▲ 二の丸東側の土塁上の遊歩道。

▲ 本丸東側の堀。

▲ 二の丸東側の堀。
----備考----
訪問年月日 2010年11月6日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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