渋川城
(しぶかわじょう)

                   浜松市北区引佐町渋川      


▲ 渋川城は山城が主流の戦国期の城としては珍しく山里の小高い丘を利用して築かれ
た。合戦を目的とするのではなく、領地支配と街道確保のための城であったようだ。

渋川井伊氏の城

 渋川城は室町期にこの山里を領していた渋川氏の居城跡であったと思われ、スロウ(城)とか堀合、殿垣内といった字名からも当所に城があったことを物語っている。
 渋川氏は井伊氏八代泰直の子直助が上野左衛門次郎を名乗って分家したのに始まる。直助の子直貞が渋川太郎二郎を名乗ったことから、当地に移ったのも直貞の頃であったかもしれない。直貞は南朝の宗良親王の守護にあたったとする説もあり、時期的にもその頃かと思われる。
 貞直の後、直秀、直幸と代を重ね、井伊谷の本家井伊氏に匹敵する力を持っていたと言われるほどに栄えた。戦国時代の永正(1504-21)期、遠江守護をめぐる斯波氏と今川氏の争いで、井伊氏は今川方に属して勝者となったが、渋川氏は斯波方に付いたと言われ、一族は散り散りになったようだ。
 現在、城址北端部には井伊氏関連の墓石が並んでいる。これは江戸時代末期に殿界戸(城址、殿垣内と同じか)にあったものを移したと言われている。これらの墓石には直之、直貞、直秀、直幸、直親、於寿丸など井伊氏や渋川氏の名がみられる。
 城址とされる部分は南北に細長い丘となっているが、大半が農地となっており遺構などは見られないようだ。
 丘の西側には道路に沿って川が流れており、天然の堀となっていた。
 東側は田畑となっており、丘から50mほどのところを小川が流れている。そして南東側の窪地に流れ込んでいる。この窪地も堀跡であったと言い伝えられている。
 現在の渋川はつつじ祭りなどで有名であるが、小学校が廃校になるなどして過疎化の波には逆らえずにいる。そして戦国の昔、ここに城があったこともいつしか忘れられてしまうのであろうか。

▲ 城址北端に苔むす墓塔群。井伊氏・渋川氏の墓で、江戸末期に現在地に移されたという。

▲ 城址東側を流れる小川。堀跡であると伝えられている。

▲ 城址西側の堀を兼ねたと言われる川。

▲ 城址北端の墓塔8基の前に掲げられている説明板にはその名が記されている。
----備考---- 
訪問年月日 2004年9月26日 
 再訪年月日 2010年10月10日 
 再編集 2010年11月 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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