神岡城
(かみおかじょう)

                   岐阜県飛騨市神岡町城ヶ丘      


▲ 神岡城は史跡としては東町城と呼ばれている。天守台跡に建つ模擬
天守は昭和45年(1970)に三井金属鉱業によって建造されたものである。

武田の出城

 永禄七年(1564)、武田晴信(信玄)の侍大将飯富三郎兵衛尉が一軍を率いて北飛騨に進軍、江馬氏の本拠地高原郷へ進駐してきた。
 この頃、北飛騨地域は越後の上杉氏と甲斐の武田氏が互いに傘下に取り込もうとしていた所であった。武田氏は永禄(1558-70)に入った頃から度々北飛騨に兵を入れて江馬氏を取り込んできたが、上杉氏の力が及ぶとそちらになびくといった状態が続いていたのである。
 そこで、江馬氏を完全に武田方に取り込むために晴信は勇猛果敢をもってなる飯富三郎兵衛尉とその一軍を派遣したのであった。飯富三郎兵衛尉はこの翌年に武田家重臣で断絶状態にあった山県姓を与えられ、その後は山県昌景と名乗ることになる。
 江馬氏の居城高原諏訪城の城下に進駐した三郎兵衛尉は当主江馬時盛から三男信盛を人質として差し出させ、さらに武田勢の拠点とする城を築かせたのである。その城がこの神岡城(東町城)ということなのだ。
 縄張は三郎兵衛尉によると言われているが、城址を散策しても武田流城郭の特徴は見出せない。石垣が多用されているところから、築城後大いに改築されたものとも思われる。
 さて、人質まで出して武田方への臣従を誓った江馬氏であったが、一枚岩ではなかった。元亀四年(1573)、武田信玄が没すると江馬時盛の嫡男輝盛が上杉方へ属することを主張して父子不和となり、この年に輝盛は父時盛を討って当主の座についたのである。
 天正四年(1576)、上杉謙信へ臣従した輝盛が武田方の撤収したこの城を支城または居館として利用したであろうことは考えられる。城址説明板には江馬氏家臣河上中務尉に守備を命じたとある。
 天正十年(1582)、輝盛は飛騨の主の座を賭けて三木氏との決戦に臨んだ。この戦い(八日町の戦い)で輝盛は不覚にも首を敵の手に渡して討死してしまった。代々北飛騨に覇を唱えてきた江馬氏の終焉は呆気なかった。この戦いを飛騨の関ヶ原と例えられている。
 江馬氏を滅ぼした三木氏の飛騨支配は長くは続かなかった。天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近(越前大野城主)によって三木氏は討伐され、滅びた。
 金森氏が飛騨の領主となると神岡城にはその家臣山田小十郎が城代となった。
 元和元年(1615)、一国一城令により金森氏の旅館として存続したようだが、元禄五年(1692)の金森氏の転封によって破却された。

▲ 城跡外側の堀跡。幅は広いが深さが無い。破却に伴って埋め戻されたのであろうか。あるいは長い年月の間農地となっていたために浅くなってしまったのかもしれない。
 ▲ 神岡城跡への入り口。
▲ 土橋の両側はこのように浅い堀となっている。

▲ 本丸入口に設けられた城門。

▲ 三井金属鉱業叶_岡鉱業所創業百年を記念して建造された模擬天守。

▲ 天守から展望した神岡の街。山間を流れる川は高原川である。

▲ 城跡には二重の堀跡が遺されている。これは本丸の三方を囲む内側の堀跡である。

▲ 城址西側はそのまま崖となっている。

▲ 模擬天守が建造された際に移築された古民家。郷土館として公開されている。

▲ 史跡としての名称は「東町城」となっている。
----備考----
訪問年月日 2010年9月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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