大野城
(おおのじょう)

                   福井県大野市城町            


▲ 大野城本丸の荒々しい野面積みの石垣と復興された天守と天狗櫓。

美濃街道、
      押さえの城

 天正三年(1575)八月、織田信長による越前一向一揆の討伐が行われた。
 この時、信長は本軍三万を近江から北陸道を北上させて越前へ進攻させたが、別に美濃から山間を抜けて越前の大野郡にも軍を進めている。金森長近、原長頼らの軍勢であった。
 越前平定後、信長は金森長近に大野郡の三分の二を与え、三分の一を原長頼に与えたという。
 金森長近は大野盆地の西に南北朝時代から存在している戌山城(大野城の西約1`の山城)に入り、領地支配に取り掛かった。そして翌天正四年からは城下町の建設に適した亀山に築城を開始した。戌山城では盆地全体を見渡せないからであった。この亀山に築かれたのが大野城なのである。この盆地は往古より美濃街道の中継地として栄えた地であり、交通の要所であった。
 大野城の築城には四年の歳月を費やしたといわれている。山頂部を本丸として二層三階の大天守と二層二階の小天守、それに天狗書院を連立させ、山麓に二の丸、三の丸を設け、さらに城下町を建設した。
 この間、金森長近は手取川の戦、荒木村重の討伐にどに参陣している。天正十年(1582)の武田討伐戦では飛騨口の総大将を信長に命ぜられて信州へ攻め込んだ。具体的な経路や戦闘に関しては伝えられていないのが残念である。この年、信長は本能寺に斃れた。
 翌天正十一年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家の武将として江北に布陣したが、戦い半ばで前田利家とともに戦線を離脱、羽柴秀吉に降った。そのため、長近の所領は安堵された。
 天正十三年(1585)、長近は秀吉の命を受けて飛騨を攻略、翌年には大野から飛騨一国の国持ち大名として高山に移った。
 その後、大野城には長谷川秀一が入ったとされるが詳細は不明である。後に青木一矩が八万石で城主となった。
 文禄元年(1592)、織田秀雄が秀吉の命により五万石で大野城主となった。秀雄は信長次男信雄の嫡男である。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時には父の意向に従って西軍に属した。そのため戦後は改易された。
 慶長六年(1601)、越前国には結城秀康が六十八万石で封じられた(北ノ庄城福井城)。大野には秀康家臣の土屋正明が三万八千石を知行して入城した。正明は慶長十二年に主君秀康に殉死したために子の忠次が継いだが、幕府の禁忌に触れて慶長十四年に改易となった。替わって小栗正高が城代となった。
 元和九年(1623)、秀康の嫡男松平忠直はその乱行ぶりを将軍秀忠に咎められ、豊後へ配流となった。そして越前国内には福井藩の他に丸岡(丸岡城)、大野、勝山、木本といった小藩が立てられた。
 寛永元年(1624)、初代大野藩主として入城したのは松平直政で五万石であった。直政は結城秀康の三男である。寛永十年(1633)、信州松本七万石(松本城)に転封となった。
 直政の後、秀康四男直基が勝山三万石から大野に入封した。正保元年(1644)、出羽山形十五万石に転封となる。
 続いて秀康六男直良が藩主となった。延宝六年(1678)、直良没して子の直明が継いだ。天和二年(1682)、明石六万石に転封となる。

▲ 本丸天守への登り口で、「武者登り」と呼ばれる急な石段。築城当時のまま現在に至っており、積み直しなどの補修も行われていない貴重な遺構である。
 松平氏の後、大野藩主となったのは幕府老中土井利房四万石であった。その後は土井氏が八代続いて明治となった。
 全国の諸藩が財政難に苦しんだように大野藩も例外ではなかった。増税はもとより家臣の減知・減給が続いた。
 土井氏七代藩主利忠はこうした状況を打開するために、天保十三年(1842)「更始の令」を発して君臣一丸となっての藩政改革に取り組んだことで知られている。一から出直す、という意味合いであろう。
 また北蝦夷地(樺太)の開拓にも積極的で、そのために洋式帆船「大野丸」を建造したほどである。幕府は北蝦夷地を準大野藩領として認めたが、藩に利益をもたらすまでには至らなかったようである。
 ともかく、学問所の創設や軍制改革、藩営の商店大野屋の展開などに取り組んだ結果、藩内の団結を生み、士気が高まったことは藩主利忠が名君であったことを物語っている。
 城は安永四年(1755)の大火で城郭すべてを焼失した。寛政七年(1795)に再建されたが、天守は再建されなかった。維新後、廃城となり、亀山は大野町に払い下げられた。後に史跡公園として整備され、昭和四十三年(1968)に鉄筋コンクリートによって天守が復興された。なお、史実に基づいた再建ではない。ただ、野面積みの石垣だけは戦国期の築城当時のままである。
 ▲ 史跡公園となった大野城址へは北、西、南の3ヶ所の登り口が設けられている。この城門は南側からの登り口に設けられている。城門を通ると「ここから頂上まで1300歩・所要約20分・約900m」の看板が目に入る。
▲ 幕末の大野藩主土井利忠公によって北蝦夷地開拓のために建造された洋式帆船「大野丸」の記念碑。山頂への登り道の途中に建てられている。

▲ 土井氏七代藩主「土井利忠公像」。幕末期の英邁な藩主として知られ、「更始の令」に始まる藩政改革では大いに藩内の士気を高めた。

▲ 本丸に建つ大野城の創築者「金森長近之像」。

▲ 天守南側の防火用といわれる「お福池」。山頂に自然と湧き出た不思議な池である。

▲ 天守台への登り口は急な「武者登り」の石段とこの「駕籠道」と呼ばれる緩やかな石段が設けられている。

▲ 本丸に建てられた「越前大野城」の城址碑。

▲ 「百間坂」と呼ばれる登城路。藩士が登城に際して登った道であり、当時唯一の登城路であった。

▲ 幕末の名君土井利忠公を御祭神として明治15年(1882)に創建された「柳廼社(やなぎのしゃ)」。南登り口はこの社の裏手を通っている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/09

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