まつもとじょう
(まつもとじょう)

                  長野県松本市丸ノ内           


▲ 北アルプスの銀嶺を背景にそびえる松本城天守閣。天守右手の朱塗りの縁
を持つ櫓は寛永11年(1634)に松平直政によって増築された月見櫓である。

深志城から
      松本城へ

 深志城といえば天文十九年(1550)七月、武田信玄が信濃守護小笠原長時を府中(現・松本市)から追い出した際に手に入れた城である。
 もともとは永正年間(1504〜21)に小笠原氏家臣の島立右近貞永が築いた城である。小笠原氏そのものは戦国の様相に対応して府中東部に山城(林城)を築き、そこを本拠としていた。
 さて府中に進出した信玄は山頂の林城などより利便性の高い深志城の方を武田の拠点として選んだ。そして馬場民部少輔信房(後に美濃守信春)を城将に任じて大改修を命じたのである。以後、三十年以上にわたり深志城は武田の重要拠点として機能し続けたのである。
 天正十年(1582)、強豪ををもってした武田も滅亡の悲運に見舞われ、深志城には徳川家康の支援によって小笠原長時の息貞慶が入った。父祖の地に返り咲いたわけである。深志城が松本城と改名されたのはこの時のことである。
 天正十八年、小田原落城によって豊臣秀吉は家康を関東に移し、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の徳川領を豊臣系の武将で固めた。松本城には石川数正が八万石で入った。
 石川数正は徳川譜代の重臣であったという過去がある。家康の駿府人質時代には艱難を共にし、また三河平定にも功績があり、酒井忠次と並び徳川家の筆頭老臣という立場にあったのだ。その数正が家康を見限り、秀吉の許へ夜逃げ同様にして走ったのである。秀吉得意の人たらしに乗ったとも、家康と気性が合わなかったとも云われている。
 いずれにせよ石川数正は豊臣大名として松本城主となったのである。

▲ 松本城天守閣。右側が乾小天守、左側が辰巳付櫓とその手前月見櫓である。昭和11年に国宝となり昭和30年の解体復元工事を経て現在に至っている。
 石川数正は領国の安定支配に力を注ぐと同時に城の普請にも力を入れた。現在見られる天守閣と小天守が完成したのは文禄四年(1595)頃といわれている。数正はこれより先、文禄元年に朝鮮の役のために名護屋へ出陣して病没しているから、天守の威容を目にすることはなかった。数正の後は子の康長によって継がれ、天守、石垣、濠、櫓、太鼓門、黒門が完成した。さらには城下町も整備されるなどしてその後の松本藩の基礎が出来上がったといえる。
 ところが世の中は甘くない。幕府は石川家にやるだけのことをやらせておいて、慶長十八年(1613)十月に大久保長安事件縁坐の罪により突然改易処分にしたのである。表向きの名目は何であれ、徳川家を裏切った過去を許してはいなかったといえようか。

▲ 本丸入口である黒門。昭和35年及び平成2年の復元である。

▲ 「清正公駒つなぎの桜」加藤清正をもてなした石川康長が土産に駒二頭を出して、気に入った方をどうぞと云ったところ清正は康長の目利きに遠慮して二頭とも貰い受けたという。その時に駒を繋いだのがこの桜木であるという。

悪政と善政と

 石川氏の後再び小笠原氏が松本城主となった。貞慶の子秀政である。秀政は大坂夏の陣で戦死、その戦功により子の忠真は明石十万石に栄転した。
 その後は戸田康長、康直、松平直政、堀田正盛と続いた。そして水野氏六代八十三年の治世が続くことになる。
 貞享三年(1686)十月、中萱村の多田加助を中心とした農民一揆が起きた。凶作であるのにもかかわらず藩は三割増しの年貢米を強要していたからである。とうとう取立て役人の殺害事件にまで発展してしまったのである。時の藩主は水野氏三代目忠直であった。
 加助ら農民数千人に及ぶ一揆は城の大手門前に迫り、年貢を従前の率に戻すように訴えた。幾度かの押し問答の末、藩は加助らの要求を認めたのである。加助ら一揆に参加した人々は胸を撫で下ろしてそれぞれの村に戻って行った。
 ところが藩はその日のうちに一揆の主導者らを次々に捕縛、加助ら八人とその縁者二十一人を打ち首獄門の極刑に処してしまったのである。なんとも無慈悲な藩としか云いようがない。
 この水野氏、享保十年(1725)に六代目忠恒が江戸城内において発狂、刃傷に及んだということで改易となった。

▲ ニノ丸御殿跡。

▲ 城址入口に建つ「国宝松本城天守」の石碑。
 その後、再び戸田氏が藩主となり九代続いて明治を迎えることになる。この戸田氏五代目藩主光悌(みつよし)の時代に天明の大飢饉(1784)という全国的な凶作の時期があった。
 光悌は領民の救済に努力し、自ら冷飯を摂って危機を乗り切ったという。おかげで藩内では餓死者がほとんど出なかったということである。この年、農民たちは大手門前に二千俵の米を積み上げて藩に受取りを願い出た。藩の救済政策にたいする恩返しであったのだ。
「是非とも受け取って下せえ」
「いや、受け取るわけには参らぬ」
 変わった押し問答の末、領民に分配することになったという。涙の出るようなはなしである。
 善政とはまさに指導者の姿勢そのものなのである。
----備考----
画像の撮影時期*2006/05