福井城
(ふくいじょう)

                   福井県福井市大手三丁目           


▲ 福井城の本丸と内堀。南東からの眺めで、正面は巽三重櫓
の跡である。本丸内に見える建物は福井県庁の庁舎ビルである。

北国の巨城

 福井城の仮想敵は加賀百万石の前田家である。関ヶ原合戦後、徳川家康は次男結城秀康を越前六十八万石に封じて北国の守りとした。
 加賀の太守前田利長は豊臣秀吉の盟友であった前田利家の嫡男である。関ヶ原合戦時には徳川方の東軍として戦ったが、大坂城の豊臣家にとっては最も親しい存在であることに変わりはなかった。
 この北の脅威に備えるために家康が選んだ地は越前北ノ庄であった。奇しくも織田信長が上杉謙信という北の脅威に備えて柴田勝家をして城(北ノ庄城)を築かしめた地であった。
 新たな北ノ庄城の工事が始まったのは慶長六年(1601)九月で、本丸と二ノ丸は家康自ら縄張りしたと言われている。基本的には柴田時代の城地と城下町を改修・拡張したといわれるが、本丸の位置は足羽川から離れた位置に変更された。総奉行は吉田修理好寛(一万四千石)、普請奉行に清水丹後守好正(一万千石/敦賀城主)がその任にあたり、また諸大名も手伝普請として動員された。城が一応の完成をみたのは慶長十一年(1606)とされている。
 初代藩主となった結城秀康は二代将軍秀忠の兄である。ただし母は違う。母は於万の方で、もとは家康の正室築山殿に仕える侍女であった。家康の子をはらんだ於万を築山殿の異常な嫉妬から救い出して匿ったのが重臣本多作左衛門重次である。於万は浜松城にほど近い中村家(中村屋敷)に預けられて秀康を出産した。
 天正十二年(1584)、わずか十歳で豊臣秀吉の養子となり、天正十八年(1590)には下総結城氏の名跡を継がされた。家康と秀吉の政略に翻弄された十代であったといえる。
 家康の嫡男信康は天正七年(1579)に信長の命により切腹させられていたため、家康は三男秀忠を後継者としていた。順序からいえば秀康が二代将軍となってもおかしくなかった。家康がそうしなかった背景のひとつとして豊臣家とのしがらみを断つという強い思いがあったと思われる。新たな徳川武家政権に豊臣体質は不要にして邪魔なものであったのだ。
 とはいえ、家康が秀康に大封を与え、北の守護神として北ノ庄に配したということは武将としての器量と資質を認めていたということでもある。
 また、秀康の越前藩は「制外の家」として御三家に次ぐ家格とされた。制外の家とは幕藩体制を超越したところにある家柄だということであろうか。秀康の生い立ちとその処遇を思いやってのことと思われる。
 秀康は城が完成した翌年の慶長十二年(1607)三十四歳の若さで病没した。
 二代藩主となったのは秀康の嫡男松平忠直である。結城姓は秀康のときに松平姓に復していた。慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では真田丸を攻め、夏の陣では真田勢を打ち破るなどして戦功随一と評され、その勇猛ぶりを見せた。しかしながらその行賞に不満を抱き、その後乱行が続いた。それが尾を引いて元和九年(1623)、将軍秀忠から隠居を命ぜられ、豊後へ配流となった。
 忠直配流後、嫡男光長が藩を継いだが幼少ということで越後高田二十六万石に移され、高田藩主であった松平忠昌が入れ替わって越前藩主となった。忠昌は結城秀康の次男である。

▲ 本丸天守台から見た「御廊下橋」。本丸の西側に架かる橋で、平成20年(2008)に復元された。藩主(五代昌親以降)の御座所である西三の丸と本丸を往復するための藩主専用の屋根付き橋である。
 この忠昌入府によって北ノ庄の地名が敗北に通ずるとして「福居」に改められた。「福井」と書かれるようになったのは元禄(1688-1703)の頃からと言われている。
 この時、越前国内には丸岡、大野、勝山、木本の小藩が立てられ、忠政の福井本藩は五十万石となっていた。その後も分知や除封などがあって七代藩主吉品の時には二十五万石にまで減った。後に支藩の併合や加増を経て三十二万石になったが藩財政は困難を極めたといわれる。
 幕末期、十六代藩主慶永が登場する。四賢侯として知られる松平春嶽である。春嶽は藩政改革のために橋本左内や由利公正を抜擢、また熊本から横井小楠を政治顧問として迎えた。
 また、春嶽は幕政にも関与している。将軍後継問題では一橋慶喜を推して井伊直弼らの慶福派と争って敗れ、また無勅許の日米修好通商条約にも反発している。こうした行動の結果、安政の大獄に巻き込まれて隠居、謹慎となり、橋本左内が処刑されてしまった。
 桜田門外の変(1860)後、再び春嶽は幕政に関与する。文久二年(1862)には政事総裁職に就いて公武合体を推進した。維新後は民部卿や大蔵卿を務め、明治三年(1870)に新政府から引退した。
 本丸にはかつて四層五階の天守があったが、寛文九年(1669)の大火で焼失して以来、財政難のためか再建されていない。
 明治後は水堀の多くが埋め立てられて市街地となり、現在では本丸と内堀を残すのみとなっている。本丸には県庁、県警のビルが建ち、藩政ならぬ県政の中心地としての機能を果たし続けている。
 ▲ 北東方向から見た本丸。
▲ 本丸北側石垣の内側の雁木の石段。

▲ 天守台に建つ「天守閣跡と福の井」と県への本丸跡寄贈の記念碑。

▲ 天守台にある井戸「福の井」。福井の地名の由来はこの井戸にちなんだと言われている。

▲ 天守閣石垣に隣接する控天守の石垣。石垣の歪みは昭和23年(1948)の福井震災によるものである。

▲ 天守台への急な石段。

▲ 福井城北側外堀に設けられていた「舎人門」。博物館建設にあたり発掘されたもので、江戸後期の姿を復元したものだと言われている。赤瓦で葺かれた高麗門である。

▲ 三岡八郎(由利公正)と横井小楠の像。本丸南側の堀端に立っている。両人とも幕末の福井藩で活躍した。

▲ 市立郷土歴史博物館前の「松平春嶽公」の像。幕末の四賢候のひとりに数えられた英邁な藩主であった。
----備考----
画像の撮影時期*2009/09

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