高田城
(たかだじょう)

県指定史跡、百名城

        新潟県上越市本城       


▲ 高田城は大坂の陣(1614)開戦の年に急造された平城であ
る。家康六男の松平忠輝が越後支配の府城とするために
築かれた。(写真・平成5年(1993)に復興された三重櫓)

大坂冬の陣直前、
        江戸背後固めの城

 戦国期の越後は言うまでもなく上杉謙信の領国であり春日山城がその居城であったことは周知の通りである。謙信亡き後、御館の乱を制して春日山城主となった上杉景勝は慶長三年(1598)に会津転封(若松城)となって越後を去った。替わったのは豊臣大名の堀秀治であった。越前北ノ庄城主十八万石からの転封であった。越後春日山四十五万石への栄転であったが与力大名も付属されたため、実質的には十万石余であったといわれる。

 堀秀治は関ヶ原合戦時(1600)、会津に移った直江兼続の扇動で起こった上杉旧臣らによる一揆鎮定の功によって徳川家康から所領を安堵され、幕藩体制下に組み込まれることになった。このためか秀治は山城の春日山城ではなく新たな府城として福島城(上越市港町)の築城を開始した。慶長七年(1602)のことである。しかしながら慶長十一年(1606)に秀治は三十一歳の若さで没してしまった。

 福島城は秀治の死の翌年に完成して後嗣の嫡男忠俊が入城して二代藩主となった。とはいえ、わずか十二歳であったから重臣堀直政が補佐した。

 しかし、堀家を束ねて家康信頼厚い堀直政が翌慶長十三年(1608)に六十二歳で没すると越後福島騒動と呼ばれる御家騒動によって福島藩は慶長十五年(1610)に改易となった。この御家騒動は豊臣大名であった堀家排除の口実となってしまったようだ。

 新たに藩主となったのは家康六男松平忠輝である。越後六十三万石とそれまでの信濃川中島十二万石(松代城)を加えて七十五万石という大封であった。

 高田城はこの忠輝によって築かれたものである。福島城廃城の理由は水害を受けやすい立地であったためとも言われている。築城開始は慶長十九年(1614)三月で、伊達政宗、上杉景勝、前田利常、蒲生氏郷、最上家親ら13の大名が幕命による国役普請として工事に携わった。

 工事は急ピッチで進められ、約四ヶ月後の七月上旬には完成した。十月には、家康は諸侯に大坂への出陣を命じて自らも駿府城を出発している。大坂との開戦に間に合わせようと築城を急がせたことは明らかである。そのため、石垣を造らず、天守閣も建築されなかった。本丸西南隅の二層櫓が天守閣に替わる高田城のシンボルとなったという。

 初代城主となった松平忠輝は大阪夏の陣に参加した。この翌年(元和二年/1616)、家康が没した直後に将軍秀忠から改易を命じられた。夏の陣の不行跡と舅の伊達政宗と共謀して家康に反意を持ったことなどが理由とされている。

 その後、酒井家次、忠勝(十万石)、松平忠昌(二十五万九千石)、松平光長(二十六万石)そして延宝九年(1681)に天領となった。高田城の二重櫓が地震で倒壊した後、三重の櫓として再建されたのは寛文五年(1665)藩主松平光長の時であった。

 貞享二年(1685)、稲葉正住が十万三千石で入城して再び高田藩を立藩した。元禄十四年(1701)、戸田忠真が六万七千石で封じられた。宝永七年(1710)、久松松平定重が十一万三千石で新たな藩主として封じられて五代続いた。寛保元年(1741)には榊原政永が十五万石で高田藩主となり、六代続いて明治に至った。

 明治三年(1870)に焼失した三重櫓は平成五年(1993)に鉄骨ではあるが木材を使用した木質構造という形で再建された。


本丸南側の大手口に架かる極楽橋。平成14年(2002)3月に復元された

▲本丸付近に残る土塁。
 ▲ 極楽橋を渡って本丸へと向かう。
▲ 本丸に踏み入ると土塁が目につく。高田城は石垣を用いずに造られた近世城郭なのだ。

▲ 本丸跡の碑。現在は上越教育大付属中学校が建てられている。

▲ 本丸南西隅に再建された高田城のシンボル、三重櫓。

▲ 三重櫓から西方の山並みを望見。

▲ 三重櫓前に掲げられている高田城絵図。
----備考----
訪問年月日 2012年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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