若松城
(わかまつじょう)

国指定史跡・百名城

               福島県会津若松市追手町       


▲ 若松城は別名鶴ヶ城と呼ばれる。蒲生氏郷が築き、会津松平氏が守り続けたこの
城は会津武士道を象徴する城として今もなお、訪れる者を歴史の彼方に誘っている。
(写真・再建された若松城天守閣)

会津士魂を培った堅城

 若松城は一般的には会津若松城又は鶴ヶ城と呼ばれている。若松の地名は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置によって蒲生氏郷が四十二万石(後に検知・加増で九十二万石)で封じられた際に名付けられたものである。それまでは黒川と呼ばれ、戦国大名葦名氏の本拠地であった。若松城はその葦名氏の居城であった黒川城を大改修して築かれたものである。

 葦名氏は三浦一族の佐原義連(佐原城)が源頼朝から会津の地を与えられて三代光盛の時に名乗ったものである。故郷である相模国三浦郡葦名に因んだものと言われている。しかしながら、会津の直接支配に入ったのは七代直盛の時で、南北朝期の康暦元年(1379)のことであった。直盛によって造られた東黒川館がやがて増改築の結果、若松城の前身である黒川城となって行くのである。葦名氏の繁栄も十六代盛氏の頃までで、天正十七年(1589)には伊達政宗によって滅ぼされてしまった。そして黒川城は正宗の居城となったのである。

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐(小田原城)に引き続き奥州へ駒を進め、小田原陣に遅参した伊達政宗から会津を没収して蒲生氏郷に与えたのであった。

 蒲生氏郷による若松城の築城は大坂城を参考にしたとも言われる。天守閣は層塔式七層、下見板張の黒い大天守であった。氏郷は城下の産業振興にも力を注いでおり、その後の会津発展の基盤を築いたといえる。

 文禄四年(1595)、氏郷病没、享年四十歳。嫡子秀行が継いだが、十三歳の幼少であったことに加えて家臣の騒動を理由に慶長三年(1598)、宇都宮十二万石(宇都宮城)に移されてしまった。

 蒲生氏の後に会津入りしたのは越後の上杉景勝(春日山城)であった。出羽庄内と佐渡を加えた百二十万石という大封である。しかし、この年に秀吉が死去すると天下の形勢は徳川家康を中心に動き出す。上杉家は対徳川に備えて軍備増強を進め、慶長五年(1600)二月には若松城に代わる神指城(若松市内)の築城を開始した。六月、家康はついに会津征伐の軍を発した。このため神指城の工事は中断され、国境に近い白河城の修築が優先された。

 関ヶ原合戦(慶長五年九月)で家康が勝利すると上杉景勝は米沢三十万石に減封となり、再び蒲生秀行が六十万石で封じられることになった。

 慶長十六年(1611)、大地震が会津を襲った。マグニチュード7と推定され、死者3700人、倒壊二万余戸、23の村が山崩れにより没したとされる。この地震で若松城の石垣が崩れ、七層の天守閣も傾いてしまった。

 地震の翌年、秀行(三十歳)没。嫡男忠郷が継ぐ。寛永四年(1627)、忠郷(二十五歳)没。嗣子なく改易となった。

 蒲生氏の後は加藤嘉明が伊予(松山城)から四十万石で若松城主となった。寛永八年(1631)、嘉明没して明成が継ぐ。この明成の時に傾いたままだった天守閣が再建され、五層白亜の天守閣が誕生した。しかし、重税や農民の逃散、家臣騒動などによって明成は会津四十万石を幕府に返上、改易となった。

 寛永二十年(1643)、出羽山県から保科正之が二十三万石で会津藩主となった。正之は二代将軍秀忠の落胤で信濃高遠城主保科正光の養子となって成長したのであった。正之は幕閣としても活躍、藩政の基礎を固めたことで知られる。三代正容の時に松平姓となり、代々続いて幕末に至った。

 九代藩主松平容保が幕府から京都守護職を命ぜられ、新選組もその配下にあったことはよく知られている。戊辰戦争における会津の戦い(明治元年/1868)も白虎隊の自刃などとともに多くの物語が現在に語り継がれている。

 戊辰戦争で砲弾を受け傷付いた若松城は明治七年(1874)に石垣と堀を残して殆どが取り壊された。昭和四十年(1965)に再び天守閣が再建され、現在に至っている。


▲天主閣から見た走長屋とその先端の干飯櫓。

本丸東側虎口に架かる廊下橋と内堀。

▲本丸への出入り口は三ヵ所である。これは西出丸から本丸西の帯曲輪に至る土橋で梅坂と呼ばれている。

▲本丸西の帯曲輪にある上杉謙信公の仮廟所とされたと思われる場所。

▲本丸への表門である鉄門。

▲天主閣と走長屋多聞櫓。

▲「荒城の月」碑。明治31年(1898)、土肥晩翠が若松城を詩材として作詞した。

▲本丸最南端に位置する月見櫓跡。

▲本丸御殿跡から見た天守閣。

▲奥御殿跡。

▲本丸東側の枡形虎口。

▲本丸東側の高石垣。

▲本丸北側にある鶴ヶ城稲荷神社。南北朝の頃、葦名直盛が初めて当地に館を築く際に苦心し、稲荷社に祈ったところ霊夢により狐の足跡をもとに縄張を決めたという。

▲北出丸の入り口である大腰掛。戊辰戦争時、新政府軍はついにここを突破できなかった。

----備考----
訪問年月日 2012年5月4日
主要参考資料 「やさしい会津の歴史」
「名城を歩く8・会津若松城」他

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