高遠城
(たかとおじょう)

国指定史跡

            長野県伊那市高遠町東高遠    


▲高遠城は諏訪一族の高遠氏の本拠地に武田氏の手によって伊那
支配の拠点として築かれた。武田氏の末期、唯一織田氏の攻撃に
抗戦したことで知られる。江戸期には高遠藩の府城として続いた。
(写真・本丸東側の虎口。問屋門と石積みは廃城後のもの。)

武田の末路に花を添えた高遠の城

 高遠の地は南北朝期以来、諏訪氏の支族高遠氏の領するところであった。戦国期、高遠氏の当主であった高遠頼継は本家の諏訪支配の野望を抱いて甲斐の武田晴信と連携し、天文十一年(1542)の諏訪攻めに加わって出陣している。諏訪惣領家の諏訪頼重(上原城桑原城)は武田に降伏して切腹、諏訪氏は滅びた。諏訪の地は武田氏と高遠氏で二分されたが、三ヵ月後に高遠頼継は上原城の武田勢を追い払って諏訪一帯をその支配下に置いた。武田晴信は直ちに出陣して諏訪の高遠勢を攻撃、高遠頼継は根拠地高遠への撤収を余儀なくされた。
 天文十四年(1545)、武田晴信は追討ちをかけるように上伊那へ軍を進め、高遠城、福与城を攻めて支配下に置いた。高遠頼継は降伏して甲府へ出仕したという。
 天文十六年(1547)、武田の伊那進出の拠点として高遠城が築城される。築城地が旧来の高遠氏の居城地であったのかは不明とされており、この時の高遠城が新築されたものなのか、旧来の城を大改修したものなのかは今のところ断定することはできないようである。築城に際しては山本勘助や秋山信友らの関わりが伝えられている。なお、高遠頼継は天文二十一年(1552)に死去している。自害させられたとも言われている。
 弘治二年(1556)、伊那地方の郡代的立場にあった秋山信友が高遠城主となったと言われる。永禄五年(1562)には武田勝頼が高遠城主となり、秋山信友は飯田城に入ったとされる。
 元亀元年(1570)、武田信玄の義信廃嫡により勝頼は後継者として躑躅ヶ崎館に入り、高遠城には信玄の実弟武田信廉が城主として入った。元亀四年(1573)には秋山信友が美濃岩村城に出向したことで信廉が飯田城、大島城の城代を兼ねたとされる。
 信玄死後の天正二年(1574)、武田信廉は信玄の父信虎を高遠城に引き取っている。信虎はこの年、城内で死去した。
 天正九年(1581)、織田信長との対決に備えて北信森城主であった仁科盛信が高遠城主となった。盛信は信玄の五男で勝頼の異母弟にあたる。
 天正十年(1582)二月、織田信長は甲州征伐の軍勢を進撃させた。伊那路の武田方の諸城はろくに戦わずして自落するなか先陣織田信忠の軍勢五万は破竹の勢いで進み、三月一日には高遠城の西方貝沼原に布陣した。信忠は降伏勧告の使僧を高遠城に派遣したが、仁科盛信は僧の鼻や耳を削ぎ落して追い返し、徹底抗戦の覚悟を見せた。諏訪上原城に進出していた武田勝頼の援軍を頼みとしていたのであろうか。ところが、この時点で勝頼はすでに上原城を引き払って新府城に後退していたのである。
 翌二日早暁より織田勢の高遠城攻撃が始まった。大手口に森長可、団忠正、毛利長秀らの軍勢が殺到し、搦手口は織田信忠みずからが攻撃を指揮して柵を破り号令したという。一方の城方は仁科盛信以下副将の小山田昌成、大学助兄弟、飯島民部少輔ら城兵が奮戦したが、怒涛の織田軍には抗すべくもなくその日のうちに盛信、昌成らが自決して戦いは終わり、城は落城した。戦わずして崩れゆく武田方のなかで徹底抗戦したのはこの高遠城のみであった。城兵四百余人が討死、織田方も三百人が討死したと言われている。
 高遠城の落城した翌日、武田勝頼は新府城に火を放って脱し、重臣小山田信茂の岩殿城を目指したが裏切られ、十一日ついに田野にて妻子共々自害して果てた(景徳院)。

 六月、本能寺の変後、信濃の様相が一変する。武田旧臣の保科正俊、正直父子が後北条方として高遠城を占拠して城主となった。保科氏は天正壬午の乱後、徳川方に属して生き残る。
 天正十八年(1590)、保科正直は家康の関東移封に従って下総多胡に移り、伊那郡は豊臣家臣毛利秀頼(飯田城)の所領となった。秀頼没後は妹婿の京極高知が継いだが、豊臣期における高遠城の状態はよく分からないようだ。
 慶長五年(1600)関ケ原後、保科正光(正直の子)が二万五千石で高遠城に入り、高遠藩が成立した。正光は嗣子に恵まれず、徳川秀忠の隠し子幸松(正之)を養育していた。
 寛永八年(1631)、正光没して正之が三万石で家督を継承した。
 寛永十三年、正之は出羽山県藩二十万石に加増移封となり、鳥居忠春が三万二千石で入部した。
 元禄二年(1689)、鳥居氏二代藩主忠則が家中不取締により改易となる。
 元禄四年(1691)、内藤清枚が三万三千石で高遠城に入り、以後八代続いて明治に至る。


▲二の丸東側の土塁。

▲高遠城址北ゲート入口。

▲橋の両側は二の丸と三の丸を隔てる空堀である。

▲城址公園入城口。観桜期は有料だが、訪れた時(夏季)は無料開放状態であった。

▲二の丸。城内の木々はすべて桜。観桜期の人混みが嘘のように人がいない。

▲天下第一桜の碑。城址の桜は明治7年(1874)頃から植え続けられ、現在のようになった。

▲二の丸から空堀越しに本丸への入口に架かる「桜雲橋」。もともと木橋が架かっていた。

▲桜雲橋を渡った本丸虎口にある「問屋門」。高遠城下本町の問屋役所にあった門で、昭和20年代に町の有志によって買い戻され、募金によって現在地に移築された。

▲問屋門から本丸にかけて積まれた石垣。元々、本丸虎口であったが、この石積みは廃城後のものとされている。

▲本丸。無数の桜が緑の葉を揺らしていた。

▲本丸に移築された太鼓櫓。元々は三の丸東の搦手門にあったという。廃城時、無くなることを惜しんだ人々の寄付で維持され続け、朝8時から夜8時まで偶数時に太鼓が鳴らされていた。昭和18年(1943)の戦時下、敵機に気づかれては危険とのことで中止されたそうだ。

▲本丸南側の南曲輪。

▲二の丸東側の土塁と空堀。

▲城址公園北ゲート口の城址碑。

▲二の丸北側三の丸の藩校「進徳館」。

▲進徳館。最後の藩主内藤頼直は「興国のもとは藩士を育成するにあり」として万延元年(1860)に藩校を開いた。
----備考----
訪問年月日 2016年8月18日
主要参考資料 日本城郭総覧」
「信州の城と古戦場」他

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