桑原城
(くわばらじょう)

県指定史跡

            長野県諏訪市四賀    


▲桑原城は戦国期に諏訪氏の支城として整備された。甲斐武田氏の
諏訪攻めによって諏訪氏は滅んだが、その最期の舞台となった城である。
(写真・桑原城本丸。)

諏訪氏、無念の開城

 この城は諏訪氏被官であった桑原氏のものと伝えられているが、その築城時期については不明である。桑原氏の名は保元の乱(1156)時に源義朝麾下の武士として上社大祝(おおほうり)一族の諏訪五平と共に桑原安藤二、同安藤三が参戦したことが伝えられている。桑原氏は諏訪氏の支族として当地に根付いたもので後には城主桑原左近の名が見えると言われており、文明十五年(1483)頃までは同氏の存在が伝えられているという。その後の桑原氏のことは分からないようだ。しかし、桑原城そのものは上原城を本城とする諏訪惣領家の支城として存続していた。

 天文十一年(1542)七月一日、まさかの武田晴信率いる二万の大軍の襲来に慌てた諏訪頼重はわずか三百五十騎ながらも上原城を出撃、迫る武田勢の前に対陣した。健気としか言いようがない。

 翌二日、背後に高遠頼継の軍勢が迫った。高遠氏は諏訪一族である。同族の裏切りに憤慨した諏訪頼重は止む無く上原城下にまで陣を後退させた。この夜の軍議で頼重は「真向勝負の決戦を挑み討死あるのみ」と主張したが家臣に諫められ、無理やり馬に乗せられ、夜陰にまぎれて桑原城に後退した。桑原城は山頂部に本丸と空堀を隔てた二の丸を整備しただけの小城であるが仕方ない。上原城は諏訪方の手で放火された。すでに武田勢が城近くに迫っており、籠城の機を失っていたのかもしれない。

 三日、武田の大軍が桑原城下に布陣した。この日は雨で城下の田畑は水浸しになったと言われる。桑原城に集結した諏訪勢は小勢ではあったが、頼重の戦意に衰えはなかったようだ。なんといっても高遠頼継の裏切りだけは許せなかった。

 夕刻、頼重は風雨の中を近臣らと敵情検分のために尾根を下った。ところが、城兵の目には「大将が城を捨てた」と映ったのである。頼重らが城に戻ると城兵は逃げ散った後で、残っていたのは弟の頼高(諏訪上社大祝)と一族近臣二十人ほどであったという。

 翌朝、不安な一夜を明かした頼重主従のもとに武田側からの軍使がやってきた。すでに城は完全に包囲されている。

 軍使は和議の使者であった。開城に応じれば兵を引くという降伏勧告である。万策尽きた頼重には降伏を受け入れるほかなかった。しかし、高遠頼継の行為だけは許しがたかったのであろう、頼重は高遠討伐を条件に加えたとも伝えられている。

 五日、頼重と頼高の兄弟は甲府へ送られ、東光寺(甲府市東光寺)に幽閉された。

 二十日、頼重、頼高は切腹して果てた。頼重、二十七歳。諏訪惣領家は滅んだ。頼高は十五歳であった。武田晴信の妹で頼重の正室となっていた禰々(ねね)も悲嘆のなか翌年に死去した。十六歳であったという。頼重と禰々の嫡子寅王のその後の事もよく分からない。

 頼重が最後まで許せなかった高遠頼継は天文十四年(1545)に居城である高遠城を武田勢に取られ、天文二十一年(1552)に自刃させられたと言われている。


本丸から堀切越しに見た二の丸

▲東曲輪から本丸南側の腰曲輪をまわると堀切に出る。右が本丸、左が二の丸である。

 ▲国道20号から県道424号に入ると前方に桑原城の城山が見える。

▲国道20号四賀交差点から県道424号を約1km進んだ登り口の案内板。

▲登り口に立つ説明板。

▲登り口からの登山路は四駆であれば行けそうであるが、乗用車ではやめたほうがいいだろう。

▲登り口から10分ほどの所に広場がある。ここからは山路となる。

▲尾根筋に出て右が城跡方面である。

▲先の分岐からすぐに空堀の表示。

▲登り口から約20分で城跡の東曲輪に到着。

▲東曲輪の北側に首塚と呼ばれる高まりがある。土塁の名残りとも言われている。

▲説明板。

▲二の丸。先端が一段低くなっている。

▲二の丸から諏訪湖を展望。

▲二の丸から見た本丸。

▲本丸入口に建つ城址碑。

▲本丸。

▲本丸の東縁には土塁跡がのこっている。

▲本丸の井戸跡。

▲本丸から諏訪氏の上原城方面を望見。写真中央から少し下がったあたりか。
----備考----
訪問年月日 2016年8月17日
主要参考資料 信州の城と古戦場」
「諏訪高島城」他

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