躑躅ヶ崎館
(つつじがさきやかた)

                  山梨県甲府市古府中町           


▲ 館跡南側の堀。この朱橋を渡ると武田神社の境内地となる。
かつての中曲輪で武田氏の主殿があった場所である。

武田三代の府城

 永正四年(1507)、武田信縄(のぶつな)の急死によってその家督を受継いだのが信直(後の信虎)で、弱冠十四歳であった。信直は内紛続きの甲斐国内を戦いと和平によって徐々に平定範囲を広げ、同十六年には本拠地を石和からここ躑躅ヶ崎に移した。これ以後、躑躅ヶ崎の館は信玄、そして勝頼へと三代六十二年にわたり武田の本拠地としてその名を歴史に留めることになる。
 信直は新館に移った翌年からその背後に詰城とする山城の構築をはじめた。要害山城がそれである。
 躑躅ヶ崎の館は平時における武田本家の居住地であり、甲斐国守護としての政庁でもある。信直が名付けた甲府という地名は甲斐国の府中を意味している。つまり甲斐国の首府、中心地であるとの意である。館域は堀と土塁を方形に廻らせた単純な造りであるが、その土塁の高さと堀の深さと広さはちょっとした城郭に匹敵する規模である。
 大永元年(1521)に信直は左京大夫・従五位下に任ぜられたのを機に信虎と名を改めた。
 この年十月、躑躅ヶ崎の館は大きな危機に直面した。今川方の大軍が目と鼻の先にまで迫ったのである。
 この軍は今川氏親の部将福島兵庫正成(まさなり)を大将とする駿河・遠江の将士約一万五千であったと云われている。甲府に迫った福島正成は、障害物の少ない館の西方から攻めようと登美丘(甲斐市)に布陣した。
 躑躅ヶ崎の信虎は馳せ参じた二千の兵を率いて西に向かった。要害山に籠るのは最後の手段であり、それは躑躅ヶ崎の館を灰にすることでもあるのだ。館を守るには自ら進んで敵を撃退するほかないのである。

 ▲ 中曲輪と西曲輪に架かる土橋。
 十月十六日未明、戦機が熟し、飯田河原に於いて両軍が激突した。武田軍は圧倒的多数の福島軍を相手に果敢な戦闘を展開してこの戦いを引き分けにもち込んだ。
 その後、福島正成は陣を進めることなく滞陣を続けて信虎の出方を見守り続けた。
 信虎の室大井夫人はこのとき身重であったため、万一に備えて要害山城へ避難していたが、十一月三日男子が産まれた。後の晴信(信玄)である。福島軍と対峙している武田の陣中は世継ぎの誕生に歓喜した。
 十日早朝、信虎は士気が上がり一丸となっている軍を動かした。福島正成の陣に近い上条河原に布陣したのである。
 福島正成は慎重であった。意気上がる武田の士気が下がるのを待つかのように兵を動かさずに信虎の陣を見守った。
 戦機が熟したのは十三日後の十一月二十三日であった。雪の舞い散るなか両軍は激突した。武田軍にとっては存亡を賭けた戦いなのである。熾烈な戦いは一日中続いた。日が暮れ、信虎は一隊を率いて福島の陣の裏手に廻り込み、敵本陣に夜襲をかけた。夜になって油断していた福島の陣は武田軍の突入を受けて狼狽、多くの部将が討たれ、大将の正成も討取られてしまった。
 年が明けて一月中には甲斐国内から今川方は一掃され、躑躅ヶ崎の館は信虎以下の将士の奮戦によって守られたのである。信虎二十七歳のことであった。

▲ 武田神社は大正八年(1919)に造営された。祭神はいうまでもなく武田晴信である。

▲ 「信玄公御使用井戸」。社殿の脇にあり、今も水を湛えている。

▲ 中曲輪と西曲輪を区切る堀跡。

▲ 西曲輪北側の馬出と土橋。

人は城、人は石垣、人は堀

 その後、武田氏は信濃へその領土を拡張して戦国大名としての名を上げてゆく。
 しかし、信虎の軍事優先の強行路線にやがて民心は離れ、家臣らは嫡男晴信に期待をかけるようになっていった。ご存知のように晴信は父信虎を追放して実権を握った。信虎の欠点を知り尽くした晴信は堅実な路線を歩み、家臣と民心を得て大成していったのである。
 躑躅ヶ崎の館も晴信の手によって拡張され、曲輪が増やされた。しかしそれは防御のためではない。手狭になった館を拡張したに過ぎない。「甲陽軍鑑」に、「人は城、人は石垣、人は堀…」とあるが、それを物語るかのように晴信は国内に城を築くことはしなかった。
 永禄、元亀の頃(十六世紀半ば)には、信玄の版図は信濃、駿河、遠江、三河にまで広がった。しかし、人の寿命には勝てず、元亀四年(1573)四月十二日、五十三歳を一期として病没した。
 信玄の後を継いだ勝頼は織田信長との対決を余儀なくされ、徐々にその勢力範囲は狭められていった。天正九年(1581)、勝頼は新府城を築いてそこへ移った。この時、勝頼は後顧の憂いを断つかのように老臣らの諫止を受け入れずに躑躅ヶ崎の館に火を放ったのである。
 こうして躑躅ヶ崎の館は武田三代の府城としての役目を終えた。同時にこれは戦国大名武田氏の終焉でもあった。勝頼は翌年三月、田野に追い詰められ、自害して果てた(景徳院)。
 武田滅亡後、甲斐は徳川家康のものとなり、さらに豊臣時代には羽柴秀勝、加藤光泰らによって甲府城の築城がはじまり、浅野長政、幸長父子によって完成した。この甲府城が完成するまでの間、躑躅ヶ崎の館跡には天守台が設けられるなどしており、何らかのかたちで使われていたようである。

▲ 館跡の北側に広がる石垣の遺構群。

▲ 武田神社入口に建つ「史蹟武田氏館跡」の石碑。
----備考----
画像の撮影時期*2007/03