佐原城
(さわらじょう)

        神奈川県横須賀市佐原3         


▲ 佐原城は三浦氏の本拠衣笠城の東を守るような位置にある。城主佐原義連の子孫は戦国期に
三浦氏を復活させ、会津に根付いた子孫も同じく戦国大名葦名氏として歴史に名を留めている。
(写真・佐原城址碑と説明板。)

三浦一族、佐原氏の古城

 佐原の地に住して城館を築いたのは衣笠城主にして三浦氏四代目当主三浦大介義明の末子十郎義連である。地理的には衣笠城の東約3kmの台地上にあり、北と東側の低地は当時久里浜からの入り江となっていたと言われる。当時三浦氏は船(水軍)を多数保有して海上を自在に往来して安房にまでその勢力を拡げていたが、この佐原城が水軍基地としての機能を有していたとするのは考え過ぎであろうか。

 治承四年(1180)、頼朝挙兵に三浦一族はこぞってこれに応じた。しかし悪天候に阻まれて石橋山に進出した頼朝らとの合流に失敗してしまう。平家方の軍勢は石橋山の戦いで頼朝勢を敗走させ、返す刀で三浦氏の本拠である衣笠城に殺到してきた。

 一族とともに衣笠城に籠城した佐原十郎義連は三浦義澄とともに大手の木戸口を守って奮戦したことが伝えられている。しかし、衣笠城の戦いは多勢に無勢で落城は必至とみた三浦一族は城を脱して安房へ渡海、再起を期することになった。城を脱する際に当主義澄の父義明は老身であるがゆえにその命を源氏再興のために捧げたいとただ一人城に残り、城を枕に自刃して果てた。

 安房に渡った三浦一族は頼朝らと合流して鎌倉入りを果たし、さらに佐原義連は源義経らとともに平家討伐に向かった。一ノ谷の戦いでは義連が鵯越の逆落としを真っ先に駆け下ったことが伝えられている。

 文治五年(1189)の奥州合戦にも参陣して武功を上げ、陸奥国会津の地を与えられた。その後、会津には義連の孫光盛が葦名氏(若松城)を名乗って勢力を培い、室町期には戦国大名として覇を唱えるに至るのである。

 義連没後、幕府権力を掌握しようとする北条氏にとって三浦一族は邪魔な存在になっていた。建暦三年(1213)には三浦一族の和田義盛(和田城)が北条氏に討たれ、宝治元年(1247)にはついに三浦一族は滅ぼされてしまった。

 ところが義連の孫盛時のみは北条方に与党していたのである。そのため、合戦後には三浦介に任ぜられて三浦宗家を引継ぐことになった。かろうじて三浦一族の命脈は義連の子孫によって保たれたことになる。戦国期には再び勢いを盛り返したが、何の因果か再び北条氏(早雲/後北条氏)に滅ぼされてしまうのである(新井城)。

 城跡そのものは宅地化と開発が進んで見るべきものもなくわずかに残った森の片隅に石碑が建つのみである。また、城跡の西南800mほどの所にある満願寺には佐原義連の廟所が市指定史跡として保護されている。


▲「佐原十郎義連城跡」の碑。明治二十六年九月八日佐原里民建之とある。

▲横須賀市岩戸の満願寺にある伝佐原義連廟所の五輪塔。

▲城址碑横に立つ説明板。

▲開発が進む城址碑付近。周辺地域に比べてかなりの高台となっている。

▲佐原義連廟所のある満願寺。
----備考----
訪問年月日 2013年1月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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