和田城
(わだじょう)

        神奈川県三浦市初声町和田        


▲ 和田城は鎌倉幕府草創の重臣で侍所別当であった和田義盛の
居館であったものだが、遺構等は無く、その詳細はよく分らない。
(写真・平塚農高初声分校南側道路沿いに建つ城址碑。)

侍所別当、和田義盛の古城

 和田城の主は三浦半島一帯に勢力を張る三浦一族の和田義盛であった。時は平安末期、義盛は三浦一族を率いる三浦大介義明の庶長子義宗の長男として鎌倉の杉本城に生まれた。父の死は十六歳の秋であったと言われるから応保二年(1162)のことであろう。義盛は家督と城を弟の義茂に譲り、自らはここ和田郷に移って居館を構えたのが和田城のはじまりとなった。

 当時の和田郷は三浦半島有数の穀倉地帯であったと言われている。良き土地を得ることは一族の繁栄を約束する。和田を名乗った義盛は武勇に優れ、弓矢にかけては右に出る者がないと言われるほどであったという。

 治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に三浦氏は一族を上げてこれに応じた。和田義盛も一族郎党を率いて和田の地から出陣した。ところが、増水した酒匂川を渡ることができず、さらに石橋山の戦いで頼朝軍が敗れたこともあって三浦勢は退却を余儀なくされ、三浦氏の本拠地である衣笠城に籠ることになった。しかし、平家方の攻撃によって三浦勢は半島を脱して渡海、安房に逃れるに至る。

 安房で頼朝らと合流した際に和田義盛は「天下を取った暁には侍所の別当に」任じてもらいたいと願い出たという。その後、鎌倉入りした頼朝は願い通りに義盛を侍所別当に任じた。頼朝の期待に応えるだけの働きを義盛が見せてくれたからであることは言うまでもない。

 侍所別当とは御家人らを統率する長官といった権威のあるものであったから義盛の面目躍如たる姿が彷彿される。

 平家滅亡後の建久三年(1192)、義盛は梶原景時の奸策によって侍所別当の職を取られてしまうが、その八年後の正治二年(1200)に景時失脚によって復職している。

 頼朝没後、先の梶原景時討伐に続く比企氏討伐、畠山氏討伐と幕府の内部抗争が続くが、頼朝以来の重鎮義盛の鎌倉における立場は揺らぐことはなかった。しかし、頼朝恩顧の重臣を排除しようとする北条氏の思惑は義盛の身辺にも迫りつつあった。

 三代将軍源実朝の建暦三年(1213)二月、二代将軍頼家の遺児千寿丸を奉じて北条氏打倒の謀反計 画が発覚した。この計画に加わっていたとして義盛の子義直、義重、甥の胤長らが捕縛されたのである。義盛は直ちに三人の赦免を願い出たのであるが胤長だけは許されず陸奥国への配流が決まった。北条義時による挑発行為であったのだ。その後も義時による挑発が続き、面目を潰された義盛はついに挙兵を決意するに至る。

 五月二日、鎌倉で激しい戦いが繰り広げられ、義盛の子朝比奈三郎義秀の奮戦が伝えられている。戦いは翌三日も激しく戦われ、新手を繰り出す北条方によって和田勢は次第に押され、子等をはじめ一族の者が次々と斃れた。その日も暮れかかる頃、ついに和田一族は由比ヶ浜に全滅してしまった。義盛、享年六十七歳であった。

 和田一族を滅ぼした北条義時は侍所別当職を兼ねることになり、ここに執権政治の基礎が定まったと言われる。

 和田城(館)がいつまで維持されたのかはよく分らず、現在はその痕跡すら留めていない。ただ、木戸脇、赤羽根、矢作といった地名が残されていると言われる。


▲和田義盛旧里碑。

▲鎌倉由比ヶ浜の和田塚に建つ「和田一族戦没地」の碑。

▲道路沿いの民家前に城址碑と説明板が立っている。

▲「和田城跡」の城址碑。

▲説明板。

▲城址碑前の道路。

▲和田義盛の在所と思われるこの地に大正10年に石碑が建立された。国道134号和田交差点を東に60mほど路地を入った所にある。

▲鎌倉由比ヶ浜の和田塚。和田義盛以下一族郎党は北条方と二日間の激闘の末に全滅した。
----備考----
訪問年月日 2013年1月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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