丸岡城
(まるおかじょう)

                   福井県坂井市丸岡町霞町一丁目    


▲ 丸岡城天守閣。現存天守のなかで最古の天守として知られている。

先鋒の城

 丸岡城の本丸に足を踏み入れると眼前に二重三階の小ぶりで飾り気のない板張りの天守が現れる。昭和二十三年(1948)の福井大地震で倒壊、昭和三十年の再建とはいえ、戦国当時の古材を生かしての復活である。いまだに柱や梁は戦国のにおいを放ち続け、訪れる人々を魅了してやまない。
 天正三年(1575)、織田信長は大軍を率いて越前の一向一揆を平定、北ノ庄に築城(北ノ庄城)を命じ、越前八郡四十九万石を柴田勝家に与えて北陸方面の備えとした。その際、信長は勝家の甥柴田伊賀守勝豊に四万石を与えて豊原に配した。
 豊原は九頭竜川北側の山間部で、豊原三千坊と呼ばれる寺院地帯であった。かつて朝倉氏や一向一揆方が拠点を置いた要害の地でもある。
 しかし、鉄砲と機動力が合戦の勝敗を決める時代となっては交通不便な山間の山城では分が悪い。家臣の屋敷地や経済を考えた城下町の建設も山城では困難である。すでに城の形態は山城から平城、あるいは平山城へと変わりつつあった。
 柴田勝豊もはじめは豊原の山間に築城を進めたようであるが、翌天正四年(1576)にはここ丸岡の独立丘を城地として新たに築城を開始した。同時に豊原の諸寺も丸岡に移し、城下町の一部にしている。
 天正五年(1577)九月、加賀に進撃した織田勢は上杉謙信率いる越後勢と手取川に戦い、大敗を喫した。勝った越後勢は深追いすることもなく引き返したが、もし謙信が越前への進攻を実行していたならば、最初に丸岡城が越後勢と戦火を交えたはずである。北陸の織田勢は柴田勝家の北ノ庄城が本陣であったから、丸岡城はその先鋒を担う城であったといえる。
 ところが、最強の敵であった上杉謙信が翌年三月に急死した。越前の織田勢は息を吹き返したように加賀平定を進め、天正八年(1580)十一月にこれを完了してさらに能登、越中へと軍を進めた。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変、それに続く清洲会議で勝家は近江長浜城六万石を得、七月には勝豊が長浜城主となり、丸岡城を出た。
 勝豊が出た後は勝豊家臣の安井左近家清が丸岡城在番となった。
 さて、長浜城に移った柴田勝豊は北ノ庄の勝家ら北陸軍団が雪で動けぬ十二月に羽柴秀吉の軍勢に城を包囲され、降伏してしまった。勝豊があっさりと城を明け渡した背景には柴田家中における不仲が原因といわれている。実際に勝豊は翌天正十一年(1583)三月には秀吉方の武将として江北に布陣しているから叔父勝家との訣別に未練はなかったと思われる。ただこの頃には勝豊の身体は病に侵されており、四月の賤ヶ岳の合戦直前に療養先の京都本法寺で息を引き取った。
 賤ヶ岳合戦で柴田勝家は敗走、北ノ庄城で自刃して果てた。丸岡城代安井家清もこの合戦で討死した。
 柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は丹羽長秀を北ノ庄城主とした。そして丸岡城には長秀の甥の青山修理亮宗勝が四万六千石で城主となった。
 天正十五年(1587)、青山宗勝没して嫡男忠元が城主を継いだ。忠元は関ヶ原合戦(1600)では西軍石田方に属して丸岡城の守りを固めた。戦後、所領没収、土佐に蟄居したといわれる。

▲ 本丸南側の石垣と井戸「雲の井」。まだ城が出来たばかりの頃、一揆の残党が時折攻めて来ることがあった。その度ごとにこの井戸から大蛇が現れ、城に霞をかけて危機を救ったという。こうした伝説から別名「霞ヶ城」と呼ばれるようになった。
 関ヶ原合戦の論功行賞で越前国は結城秀康に与えられた。丸岡城には秀康の重臣今村盛次が二万五千五百石で城主となった。
 慶長十七年(1612)十二月、百姓殺人事件に端を発した久世騒動によって今村盛次は封地没収となり、後に陸奥国岩城に流罪となった。
 翌慶長十八年、本多成重が四万三千石で丸岡城主となった。慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では秀康の後を継いだ松平忠直の越前勢とともに参陣、翌年の夏の陣では大坂城一番乗りの戦功を立てた。
 元和九年(1623)に松平忠直が豊後に蟄居となり、翌寛永元年(1624)松平忠昌が北ノ庄に入った。この際に越前にはいくつかの小藩が生まれ、丸岡藩もこの時に成立した。
 その後、本多氏が四代続き、元禄八年(1695)には有馬清純が五万石で丸岡藩主となった。有馬氏は八代続いて明治を迎えるのであるが、当初より藩財政は困窮を極め、数年の間に家中諸士二百人以上に永の暇を出している。現代でいうリストラであろう。
 ところで丸岡城の天守は現存12天守の内で最古のものとして知られている。明治十七年(1884)に民間に払い下げられ、昭和九年(1934)に国宝指定、昭和十七年(1942)に解体修理が実施された。昭和二十三年(1948)の福井大地震では天守が倒壊、同二十六年に国重要文化財の指定を受けて復旧工事が開始され、同三十年に完成して現在に至っている。
 ▲ 天守の建つ本丸の広場。城址は桜の名所百選に選ばれており、春には桜が咲き乱れる。もちろん、日本百名城にも数えられている。
▲ 伝説「人柱お静」の慰霊碑と供養塔。柴田勝豊の丸岡築城に際し、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるために、人柱を進言する者がいた。そこで貧苦に耐えながら二人の子を育てていた片目のお静が子の一人を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱となることを申し出た。お静は天守閣の中柱の下に埋められ、その後無事天守閣は完成した。しかし、城主勝豊は長浜に移ってしまったため、お静の子は侍に取立てられることはなかった。その後毎年堀の藻刈りをする卯月になると春雨で堀の水があふれた。人々はこれを「お静の涙雨」と呼んで小さな墓を建てて霊を慰めたという。

▲ 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑。これは慶長十八年に城主となった本多成重の父、本多作左衛門重次が天正三年(1575)の長篠合戦の際にその陣中から妻に宛てた手紙である。お仙とは仙千代のことで成重のことである。またこの手紙は日本一短い手紙としても有名である。

▲ 戦時中の解体修理の際に造られた笏谷石製の鯱。福井大地震で落下破損したもので天守入口の石段横に置かれている。本来は木彫銅板張りの鯱であったが戦時中のことで銅板の調達が難しく、石造りとなったものである。現在の鯱は木製銅板張りで復元されたものである。

▲ 「雲の井」近くの「雲井龍神」の祠。城主となった有馬氏によって勝利の守神として祀られたが、廃城後は荒れ果て、昭和40年(1965)に再興された。

▲ 天守閣の望楼部。丸岡城の天守閣の屋根瓦は真冬の極寒にも耐え得る笏谷石製の石瓦である。笏谷石は足羽山や一乗谷で採石される。総数約6000枚、重量は120トンにも及ぶといわれる。雨に濡れると青みを増して美観を増すという。

▲ 天守一階の出入口以外の南、西、北の中央部には出格子が設けられている。戦時には石落としとして使われる。

▲ 天守閣入口に設けられた直線登坂式の石段。

▲ 丸岡城歴史民俗資料館。右の石段を登ると本丸に出る。資料館前の碑は築城四百年祭の記念碑である。
----備考----
画像の撮影時期*2009/09

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