波入江城
(なみいりえじょう)

                   豊橋市老津町            


▲ 波入江城跡の西側からの風景。樹木が鬱蒼と茂る部分が城址で、高台
となっている。戦国当時はこの高台の際まで海が迫っていたと思われる。

海の出城

 現在では城址の周囲を見渡しても海を見ることはできないが、戦国の当時は城の西側は三河湾に面していたものと思われる。城の名のごとく、波が打ち寄せる入江に面した城であったとみてよいだろう。
 城館資料によれば「戦国期に田原を本拠とした戸田氏の支城のひとつであったとされる」とある。具体的な城主名や時期にかんしては不詳となっている。
 「老津村史」には「西に海を臨む高台で今は畑となっている。戸田甚七郎及びその子庄右衛門が共に住居していたと云い伝えられているが、甚七郎という者は当村に居った戸田氏の中に見当たらず、庄右衛門は金左衛門ではないか、とも言われている」と記されている。
 立地状況からみても三河湾を掌握しようとする戸田氏の支城群のひとつであったことは間違いないだろう。まさに海の出城といった観がある。
 村史に記された戸田庄右衛門、又は金左衛門というのは戸田忠政のことで田原城四代目城主康光の弟である。
 天文(1532-55)の初期、忠政の叔父宣成が大崎城に居て吉田城の牧野氏と対峙していた。波入江城は田原城と大崎城を結ぶ繋ぎの城としての機能を果たしていたはずで、忠政は叔父を援けて大いに活躍したものと思われる。
 天文十六年(1547)、田原城主康光が竹千代(徳川家康)を駿府へ護送中に変節して織田方に引き渡してしまった。この事件で今川氏は大軍をもって田原城を攻め落とし、田原城の戸田氏を滅ぼしてしまった。
 この合戦で忠政は嫡男忠次とともに落ち延びて岡崎の松平氏を頼った。忠次は後に家康のもとで戦功を重ね、子孫は宇都宮藩主となっている。
 田原戸田氏の滅亡によって三河における今川氏の支配は揺るぎないものとなったが、城主の居なくなった波入江城はその後どうなったのであろうか。

▲ 城域の西側部分は祥雲寺の境内となっている。
----備考----
画像の撮影時期 2010/04
主要参考資料 「老津村史」他

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