大崎城
(おおさきじょう)

                   豊橋市船渡町            


▲ 大崎城址(正面の森)を北側から望見。戦国当時は城そのものが岬状に
なっていたが、現在では周辺の埋立てが進み、景観が大きく変わっている。

雌伏二十年の古城

 永正三年(1506)十一月、田原城主(二代)戸田憲光は今川氏親と和を結び、共同して牧野古白の吉田城(今橋城)を落とした。これより、戸田氏と牧野氏の吉田城をめぐる因縁の戦いが繰り返されることとなる。
 吉田城を手中にした戸田憲光は次男金七郎宣成を城主にして守らせた。
 それから十二年後の永正十五年(1518)、牧野氏は今川氏との関係を修復して今川の大軍とともに吉田城を囲み、城の明渡しを戸田氏に迫った。牧野勢を率いたのは古白の遺児といわれる信成である。
 城主戸田宣成は退城を余儀なくされ、城を明渡した。その胸中を察するならば口惜しさで満ちていたに違いない。
 城を退城して一旦は田原城に戻った宣成であったが、牧野氏の領土拡張を阻止するために、ここ大崎の地に城を築いて城主となった。これがこの大崎城である。吉田城奪還を胸に秘め、自ら境目の最前線に立ったのだといえよう。
 城は梅田川が三河湾に注ぐ河口部の高台を利用して築かれた。築城には近在の村から人足が徴発された。現在の八幡社の裏に残る堀跡には杉山堀の名が伝えられている。杉山村(豊橋市杉山町)の人たちによって掘られたものであろうとされている。
 享禄二年(1529)、驍将松平清康による東三河進攻によって吉田城が落ち、城主牧野信成は討死した。その行くところ敵なしの勢いによって周辺の諸豪たちはこぞってその膝下に参じ、田原城主(四代)戸田宗光も清康に降った。
 松平勢によって落とされた吉田城は、松平方に通じた牧野成敏が城主となった。
 ところが、松平清康は天文四年(1535)に守山で横死してしまい、その後の松平勢力は急速に減退した。しかも、駿河の今川義元も遠江の平定に忙しく、三河どころではなくなっていた。つまり、東三河から東西の二大勢力がともに影響力を失った空白の時期が生まれたのである。
 大崎城の戸田宣成はこの空白の時期を逃さなかった。天文六年(1537)、宣成は吉田城を襲った。牧野成敏を追い出して奪還を果たしたのである。まさに雌伏二十年、耐え続けてきた甲斐があったというものであろう。

▲ 本丸と二の丸(幸稲荷)の間の大堀切。
 しかし、戸田宣成の吉田城主としての期間は長くは続かなかった。今川氏が遠江の平定を終え、西三河の松平氏の求めもあって三河進出に乗り出して来たのである。天文十五年(1546)、今川義元の命を受けた天野安芸守の吉田城攻撃によって宣成は城を枕に討死して果てたのであった。その翌年には戸田氏の本拠田原城も今川勢によって落とされ、田原城の戸田氏は滅んだ。
 戸田氏の去った大崎城はその後放置されていたが、慶長六年(1601)に旗本中島重好がここに陣屋を構え、九代続いて明治に至っている。
 ▲ 大崎城二の丸。現在、幸稲荷の建つ曲輪である。ここには本丸跡の標柱が立っているが、本丸はこの南側の曲輪である。
▲ 本丸西側に残る土橋。

▲ 幸稲荷の鳥居の横に立てられた堀に関する説明板。大崎城の空堀の大きさは三河有数のものであると記されている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/09

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