郡上八幡城
(ぐじょうはちまんじょう)

                   岐阜県郡上市八幡町柳町      


▲ 郡上八幡城の現天守閣は昭和8年(1933)に再建されたもので、
木造再建の城としては日本最古のものとして知られている。

郡上の関ヶ原

 永禄二年(1559)八月一日、東殿山城(赤谷山城)内において東常慶の長子常尭によって遠藤胤縁が暗殺された。
 東氏は鎌倉時代に新補地頭として郡上に来住して以来代々続いて、室町期には郡上全域にその支配を広めていた。天文十年(1541)には東常慶がそれまでの居城であった篠脇城から東殿山城(郡上八幡城の南、吉田川対岸の山上)を築いて移っていた。この当時、東氏の配下で台頭著しい遠藤氏が力を増していた。これを快く思わぬ常慶の子常尭が八朔の祝いとして遠藤胤縁を城へ招き、家来の長瀬内膳に命じて鉄砲で撃ち殺してしまったのである。
 兄の死を知った弟の遠藤盛数は直ちに千余の兵を集め、十四日には東殿山城の対岸牛首山(八幡山)に陣取った。兄の弔い合戦である。戦闘は十日に及び、二十四日に東殿山城は落城して三百年にわたり郡上を支配してきた東氏は滅びた。
 東氏に替わって郡上の支配者となった遠藤盛数は郡を二分して一方を兄胤縁の子胤俊に与えた。以後、胤縁系遠藤氏と盛数系遠藤氏による、いわゆる両遠藤による支配体制が続くことになる。
 東殿山城を奪った盛数はこの城が気に入らす、戦いの時に陣取った八幡山に築城して居城とした。郡上八幡城の歴史はここから始まる。
 盛数は井之口(岐阜)の斉藤氏に属して織田氏との戦いに活躍したが、永禄五年(1562)十月に陣中で病没した。郡上八幡城主となって僅か三年で亡くなったことになる。
 盛数の後を継いだ慶隆は胤俊の反抗や飛騨三木氏の侵攻といった艱難を乗り越えて郡内統一を成し遂げた。その後、慶隆は織田信長に属し、浅井・朝倉氏との戦いに明け暮れた。元亀(1570-73)に入ると本願寺や武田氏による反信長戦線の構築が活発となり、慶隆もこれに通じたが、信玄没後の信長による郡上討伐軍に直ちに降伏して服従を明らかにした。
 天正十年(1582)信長没後の清州会議で美濃は織田信孝の領国となり、慶隆はこれに従った。やがて信孝と羽柴秀吉が対立、慶隆は郡内の反信孝勢力を排除しつつ立花山に陣取った。しかし賤ヶ岳合戦に勝利した秀吉方の軍勢に包囲され苦境に陥いり、信孝が秀吉と講和したことを受けて慶隆も降伏した。
 天正十六年(1588)、遠藤氏は白川一万五千石に減封となり、八幡城には四万石で稲葉貞通が入った。所領を減らされた遠藤氏の家臣の三分の一が帰農や他家仕官によって遠藤家を去ったという。
 郡上八幡城は新城主稲葉氏の手によって大改修された。山上本丸に天守閣が築かれ、山腹平地に居館を構えて二ノ丸とし、近世城郭の体裁が整えられた。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の年である。八幡城主稲葉貞通は西軍として犬山城に出向き、東軍徳川勢の来襲に備えていた。岐阜城の織田信秀は両遠藤に対して西軍加担を勧めた。胤縁系の当主胤直はこれに応じて上ヶ根砦(白川町)に陣を構えた。
 しかし慶隆は弟慶胤とともに東軍に付くことを決し、使者を江戸の金森長近の許に走らせて、家康に八幡城攻めの許可を求めたのである。家康はこれを許し、郡上を与える旨の約束までしてくれた。

▲ 天守閣から南側を展望。正面左側の高い山が東氏の居城とした東殿山城である。
 八月二十八日、所領地の賀茂郡(白川町)を出陣し、三十日には八幡城近くに迫った。金森長近の援軍金森可重勢も八幡城西の尾壺山に布陣した。九月一日より攻城開始。八幡城には稲葉貞通の末子道孝と家老稲葉土佐ら少数の兵が守っていたが激戦であったと言われている。翌二日、稲葉側の使者が慶隆に講和を求めた。慶隆は講和を受け入れて赤谷(愛宕公園)に陣を移した。
 ところが三日未明、慶隆の陣所が突如として稲葉貞通勢の急襲を受けたのである。犬山城にいた貞通が危急を聞いて戻ってきたのである。慶隆は何とか落ち延びて金森可重の陣所に入った。翌四日、貞通は和議を申し入れ、慶隆もこれに応じて陣を解いた。
 十四日、慶隆は美濃赤坂に参陣して徳川家康に謁見、本戦では本隊旗本の後詰として配置された。
 郡上八幡城の稲葉貞通は剃髪謹慎、家康の命により伊勢に出陣した。戦後は豊後臼杵五万石に転封となった。
 関ヶ原合戦後、慶隆は郡上二万七千石を与えられて郡上八幡城主に返り咲いた。ちなみに西軍に付いた遠藤胤直は家康に許されず、追放となった。
 慶長六年(1601)から八年にかけて慶隆は八幡城本丸を松ノ丸、桜ノ丸に分けるなどの改修を実施した。
 その後約九十年、慶隆、慶利、常友、常春、常久と五代続き、この間に城下町の整備が進んだ。遠藤氏最後の城主となった常久はわずか七歳で重臣によって毒殺されたという。当然、嗣子無く断絶となるところであったが家名の存続は許されて常陸下野の内一万石を弟胤親が継いだ。
 郡上八幡城にはその後、井上氏二代、金森氏二代、青山氏が七代続いて明治を迎えた。
 ▲ 二ノ丸(後に本丸)跡に建てられた「山内一豊と妻の像」。一豊の妻は遠藤盛数の妹であったと言われている。
▲ 山頂の駐車場に立てられた城内の案内図。

▲ 天守西側の隅櫓。凌霜の森への入り口である。

▲ 「力石」。寛文七年(1667)の修築の際に人夫の作兵衛が城下の河原から背負って運び上げたものと言われる。奉行の村上貞右衛門がその力量を激賞すると彼は感涙して力尽きその場で息絶えたという。奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じた。昭和8年の再建工事の時に草の中に捨てられていたのを嘆き、碑として安置したものである。重さは350kgという。

▲ 天守閣北側の一画は「凌霜の森」と名付けられ、戊辰戦争で幕軍とともに官軍と戦い続け会津若松城の戦いで降伏した凌霜隊の碑が建っている。

▲ 天守の建つ桜ノ丸に設けられた門。再建天守閣への出入り口である。

▲ 天守正面。内部には右の付櫓から入る。

▲ 天守から東側を展望。

▲ 天守閣入口では遠藤慶隆公が訪問者を出迎えている。
----備考----
訪問年月日 2010年9月4日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「新八幡城ものがたり」他

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