田沢城
(たざわじょう)

                   浜松市北区引佐町田沢      


▲ 田沢城のあったとされる城山の山頂は現在、無線中継所となって大きな
電波塔が建っている。ちょうど静岡県と愛知県の県境にあり、山頂部は愛知県
側にあるようだが、歴史的経緯を考えると田沢城は遠江(静岡県)の城であった。

勤王に殉じた
         井伊氏北辺の城

 田沢城は天山(あてやま)城とも呼ばれ、南北朝時代に存在した城として伝えられている。
 延元三年(1338)、後醍醐天皇は南朝の退勢挽回を期して親王を海路、陸奥と遠江に伊勢から出帆させた。船団は遠州灘沖で暴風雨に見舞われ、陸奥を目指した義良親王らは散り散りとなったが遠江を目指した宗良親王の一行は何とか遠州灘沿岸の白羽に上陸することができた。
 この宗良親王を迎えたのが後醍醐天皇が頼みとした井伊遠江介道政であった。道政は嫡男高顕とともに宗良親王を奉じて三嶽城に南朝の旗を掲げ、千頭峯城奥山城大平城といった支城群に一族の軍勢を配して幕府軍との戦いに備えた(道政、高顕父子は江戸期の系図にはなく明治後の系図に載せられている)。
 この時、ここ田沢の地にも井伊氏一族である田沢氏が居を構えていた。当時の当主は田沢彦次郎頼直と伝えられている。頼直も子の大炊助通直とともに本家である道政の義挙に応じてこの山上に砦を構えたものと思われる。
 翌延元四年(1339)、幕府軍の井伊攻めが始まった。高師兼、高師泰、仁木義長らの軍勢が遠江に進撃して諸城を攻略しながら三嶽城に迫った。
 三嶽城は延元五年(1340)正月に落城。宗良親王らは井伊氏最後の城となった大平城に移ってなおも抗戦したが、ここも八月に至りついに落城してしまった。親王らは信濃に落ち延び、遠江における南朝勢力は壊滅した。
 田沢城は三嶽城の落城に先だつ前年の秋頃に落城したと言われている。幕府方の誰が攻め、どのような戦いがあったのか、残念ながらそれを伝えるものは無いようだ。
 ここで異説がある。南朝方最後の城となった大平城の所在が通説の浜松市浜北区ではなく北区引佐町渋川の大平ではないか、というものである。三嶽城を落ちてさらなる要害を求めるならば平野部に近く標高の低い浜北大平城(標高104m)よりも渋川大平城(標高657m)のほうが理にかなっているようでもある。
 宗良親王らが渋川大平城に立て籠もったとすると、田沢城は怒涛の如く押し寄せる幕府軍の前に立ちはだかったことになる。
 いずれにせよ、田沢頼直、通直父子は寡兵ながらも親王守護の大義を背負って戦い、そしてこの城とともに散ったと伝えられている。

▲ 頂上手前の林道脇に立てられていた案内板。

▲ NTTドコモ引佐無線中継所のフェンスに掲げられていた説明板。田沢城のあったこの山は城山(じょうやま)と呼ばれている。

▲ 愛知県側からの登山道。

▲ 田沢城は井伊氏支城群のなかでは最高所(標高657m)にあり、浜松の平野部及び遠州灘までが望見される。
----備考---- 
訪問年月日 2010年10月10日 
 主要参考資料 「田沢風土記/田沢城考」
 ↑ 「古城47号」他 

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