竹谷城
(たけのやじょう)

                   蒲郡市竹谷町         


▲ 竹谷城の南側からの全景。周囲は住宅地となり、城跡は竹藪に覆われている。

竹谷松平の意地

 竹谷松平氏は松平三代信光の長男(次男とも)守家を始祖とする十四松平の一氏である。
 一般的には、守家ははじめ額田郡蓬生(よもぎう/岡崎市)に住したが、ここでは天下に志を示せぬと竹谷に出て来て土地の豪士牧山喜三郎から七百貫文の土地を買い受けて天文十六年(1547)に城を築いたと言われている。
 しかしながら、竹谷移住の経緯はともかく、年代的に全く合わないのでこの説は信頼性に欠けると言わざるを得ない。
 天文十六年といえば、始祖守家から守親、親善と続いて四代目の清善の代である。岡崎城の松平宗家は広忠の代で、駿遠の太守今川氏の庇護下に気息奄々の状態であった。この年には竹千代(家康)が人質として駿府へ送られる途中に戸田氏の変心によって織田氏に渡されてしまうといった事件も起きている。
 この時期、三河の大半は今川氏の支配下にあり、東三河の諸氏は人質を出して今川氏に従っていた。竹谷松平清善も同族の形原松平氏(形原城)とともに人質を今川方へ出していた。
 永禄三年(1560)、桶狭間合戦で今川義元が敗死すると三河の情勢は一変した。岡崎城に松平元康(徳川家康)が今川氏を見限り、自立したのである。松平宗家の復活に清善ら松平一族がこぞって元康に臣従を誓ったことは言うまでもない。
 しかし今川方とてこうした状況を座視してはいなかった。吉田城外で三河諸氏の人質を処刑して見せたのである。清善が人質として出していた娘(資料によっては妻とも)もこの中に含まれていた。清善の怒りと悲しみは察するに余りある。
 永禄五年(1562)、清善は隣接する鵜殿氏の上ノ郷城攻略の先陣となって活躍した。その後は子の清宗が戦陣に立ち、吉田城攻めに続く遠江攻めでも活躍した。
 元亀三年(1572)、武田信玄による遠江攻略に対応して浜松城を居城としていた家康は領内固めに苦心していた。
 浜名湖北岸に捨て置かれた宇津山城を再利用して武田勢の侵攻に備えようとしたのもその一環であった。ところが、守将を買って出る者がいないのである。戦国最強ともいえる武田勢に囲まれてはひとたまりもないことは明らかであったからだ。
「それがしにお命じくだされ」
 六十八歳になった清善が申し出たのである。十四松平筆頭の意地と覚悟が再び戦場へと駆り立てたのであろう。
 家康は千貫文の加増をもって清善の忠節に報いた。清善、天正十五年(1587)没。
 五代清宗は興国寺城主などをつとめ、六代家清は天正十八年(1590)に武蔵八幡山一万石を拝領、関ヶ原(1600)後には三河吉田城三万石に封じられた。
 慶長十七年(1612)、家清の後を継いだ忠清が急死、無嗣により断絶、所領は没収されてしまった。
 しかし、家清の弟清昌が西郡五千石を賜って竹谷松平の名跡を継ぎ、下ノ郷城(蒲形城)跡に屋敷を構えて明治に至った。

▲ 本丸跡に建てられた城址碑。
 ▲ 城址本丸入口の案内板。住宅地の間を通って竹藪の小路を進むと城址碑が建っている。
▲ 本丸の周囲は竹藪に囲まれているが中央部は畑(ミカン)となっている。

▲ 出丸跡から本丸を見る。
----備考----
訪問年月日 2010年8月1日
主要参考資料 「蒲郡の古城」
「蒲郡の諸城」他

 トップページへ三河国史跡一覧へ