興国寺城
(こうこくじじょう)

国指定史跡、続百名城

                   静岡県沼津市根古屋         


▲ 興国寺城の天守台跡から南を展望。目前の平場が本丸跡であり、その西側(右)の
土塁が見事である。本丸の先の一段低くなったところが二の丸である。さらにその先
は三の丸となるがすでに宅地化が進んでいる。市街地のその先は駿河湾であるが、
遠方に伊豆半島が霞んで見える。早雲はここから伊豆を毎日ながめていたのである。

戦国とともに
       存在した城

 長享元年(1487)、伊勢新九郎盛時が駿河守護今川家のお家騒動を武力解決して龍王丸(氏親)を七代目当主に就けた。伊勢新九郎は後に北条早雲と呼ばれた人物である。龍王丸の母北川殿の兄であり、京都にあっては将軍の申次衆を勤める幕府官僚でもあった。

 新当主となった今川氏親は伊勢新九郎を勲功第一として富士郡下方十二郷を与えて興国寺城主とした。氏親が富士川以東の支配を確実にするためであったと言われ、また新九郎が伊豆進出を目標にしていたためとも言われている。

 伊勢新九郎は興国寺城の初代城主とされているが、いつの頃からか当地にはすでに城館が営まれていたものと思われ、その創築の年代は不明である。その城館跡に入った新九郎の手によって興国寺城は粗末ながらも城郭としての歴史を刻み始めたといえよう。

 伊勢新九郎は軍師として卓越した能力を発揮している。今川氏が遠江の支配を確立し、さらに三河にまで兵を進めえたのも新九郎の軍師としての采配があったからである。

 また領民に課す税率を四公六民にしたことでも知られている。当時は五公五民が普通とされ、領主によっては六公または七公というように過酷な取立てを行う者もあったといわれる。そうした時代に減税を実施したのである。苛烈な負担に疲弊する領民たちに活力と希望を与え、それがやがて国の力となると信じていたのであろう。

 延徳三年(1491)、伊豆韮山の堀越公方足利政知が没した。継母によって狂気を理由に牢に入れられていた長男茶々丸が牢を破り、継母円満院と二男潤を殺して二代目公方を称するという騒動が起きた。茶々丸の人間性に対する見方は種々あるが、それはともかく新九郎は伊豆討ち入りを決行して堀越御所を急襲、茶々丸を滅ぼしてしまった。そして韮山を居城として伊豆一国を平定してしまうのである。この頃、新九郎は早雲庵宗瑞と名乗った。

 早雲が韮山城に移ってからは重臣富永三郎左衛門政家が興国寺城を預かった。早雲は永正十六年(1519)に没したが、その後も後北条氏によって維持されたものと思われる。

 その後、駿東における後北条の勢力を一掃しようと立ち上がったのが九代当主今川義元であった。義元は甲斐武田氏と同盟を結び、富士川以東の駿河領から後北条勢を駆逐した。天文十四年(1545)の「河東一乱」と呼ばれる戦いがそれである。この戦いで興国寺城は今川氏の城となり、大々的に拡張、改修の工事が施された。

 今川方の城主の名は伝えられていないが、後北条勢との戦いは度々起きていたようで、天文二十年(1551)には一時的に後北条勢によって占拠されたこともあったようである。

 永禄三年(1560)、桶狭間合戦で今川義元が織田信長に敗死してからは今川氏の権勢も斜陽の一途をたどり、永禄十二年(1569)には武田信玄の駿河進攻によって滅びてしまった。

 今川氏の滅亡によって興国寺城は再び後北条氏の有するところとなり、家臣垪和(はが)伊予守氏続が城主となった。

 元亀二年(1571)には武田勢の攻撃を受けたが垪和伊予守らの健闘でこれを撃退している。

 その後、甲相の同盟が成り、興国寺城には武田勢が進駐した。城主は駿河支配を任された穴山梅雪の家臣保坂掃部介である。天正三年(1575)頃には向井伊賀守正重、天正十年(1582)頃には曽根下野守正清が城主となったと伝えられている。本丸北側の大空堀は武田氏によって改修された遺構のひとつと見られている。

 天正十年三月、武田氏が滅亡して駿河は徳川家康の領有するところとなり、興国寺城の曽根下野守は降伏開城して家康の臣下となった。替わって興国寺城主となったのは家康家臣の牧野康成であり、九月には松平清宗に替わった。天守台の石垣遺構は徳川氏時代以降のものと見られている。

 天正十八年(1590)の家康関東移封により駿府城には山中城攻めで活躍した豊臣家臣中村一氏が入り、興国寺城にはその家臣河毛惣左衛門尉重次が城主となった。

 関ヶ原合戦(1600)後、再び駿河は徳川領となり、天野三郎兵衛康景が一万石で城主となった。

 慶長十二年(1607)三月、城修築用の竹や木材を警備していた天野家の足軽が木材目当てに侵入した盗人を斬りつけるという事件が起きた。盗人は天領の村人たちであったため家康の側近本多正純の介入するところまで事は大きくなってしまった。正純は足軽を天領の代官に引き渡すように康景に命じた。しかし、康景は足軽に罪無く問題化してしまった責任は自らにありとして城主の地位も禄も捨てて出奔の道を選んだ。

 その後、康景は小田原西念寺を蟄居の場とし、慶長十八年(1613)に没した。万石の禄を捨て義を貫いたその行動は後に高く評価されることとなった。

 天野氏の出奔により興国寺城は廃城となり破却され、およそ百二十年の歴史の幕を閉じた。まさに戦国時代とともに存在し続けた城であったといえる。


本丸北側の西櫓台跡から見た大空堀。本丸側からの深さは20mほどはあろうかと思われる。堀の左に広がる平場は北の丸である

▲天守台南面の石塁。
 ▲ 本丸跡の穂見神社。神社の背後は本丸北側の大土塁となっている。
▲ 穂見神社裏から見た本丸東側の土塁。

▲ 天守台南斜面に残る石塁。崩壊防止の補強目的で施工されたものと見られている。

▲ 天守台跡。2棟の建物跡があったとされている。

▲ 本丸天守台跡から北側の空堀を見下ろす。まれにみる高さに感動する。

▲ 本丸北側土塁の西端、西櫓台跡。

▲ 大空堀。左が本丸側、右は北の丸である。堀は直線ではなく弧状となっている。

▲ 北の丸から空堀越しに見た本丸側法面。

▲ 本丸跡の穂見神社横に建てられた石碑。右が「初代城主北條早雲碑」、左が「興国寺城主天野康景碑」である。
----備考----
訪問年月日 2010年5月2日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「静岡県古城めぐり」
「静岡県の城物語」
「駿河今川一族」他

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