堀越御所
(ほりごえごしょ)

              静岡県伊豆の国市四日町        


▲ 堀越御所は鎌倉公方(関東公方)として鎌倉入りを果たせなかった足利政知が
当地に居館を構えたものである。発掘調査によって庭園の池などが発見されたが
建物跡が、建物跡が発見されておらず、史跡名称も「伝堀越御所」となっている。今
後も発掘調査が継続され、史跡公園として復元・整備される予定とのことである。

鎌倉入りできなかった
             鎌倉公方

 長禄二年(1458)、足利政知は八代将軍義政の命を受けて伊豆国へ入った。
 この頃、関東地方を戦乱(享徳の乱/1455〜)の渦に巻き込み、将軍に反発し続ける鎌倉公方足利成氏は幕府軍の駿河守護今川義忠によって本拠地鎌倉を焼き払われたために下総古河に拠点を移し、古河公方を称していたのである。そこで将軍義政は成氏に対抗するために僧籍にあった弟を還俗させ、鎌倉公方として関東へ向かわせたのである。それが足利政知であった。
 ところが、伊豆入りした政知は関東の諸将の支持を得られなかったためか、鎌倉入りどころか伊豆から東へ行くことができなくなってしまったのである。
 結局、政知はここ堀越に御所を構えて落ち着いてしまったのである。隣国駿河には今川氏という頼もしい守護大名がいたことも政知をここに落ち着かせた要因のひとつであったであろう。これ以後、政知は堀越公方と呼ばれることになった。
「伊豆も関東のうちじゃ」
 よく関東のことを関八州(相模、武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房)と呼ぶが、室町時代のこの時期は甲斐と伊豆も関東の内に数えられていたのである。
 幕府方と古河公方成氏との争いは文明十四年(1482)の和睦に至るまで二十年以上も続いた。和睦の結果、伊豆一国のみが堀越公方領として認められた。結局は古河公方と堀越公方の併存状態はその後も続くことになる。
 伊豆一国の領主に落とされてしまったとはいえ、政知はれっきとした足利一門である。晩年にはわが子義澄を将軍に就けようとして十代将軍義材廃立を画策するなどしている。結局、計画半ばで自身は病没してしまうが、細川政元によって義澄が十一代将軍になっている。十三代将軍義晴以降の義輝、義栄、そして最後の将軍となった義昭らはいずれも政知の血流である。
 ところで、政知の嫡男茶々丸である。茶々丸は政知の先妻の子で、素行不届きの理由で廃嫡とされ、牢に入れられていたという。延徳三年(1491)に政知が没すると茶々丸は牢を破り、継母円満院(将軍義澄の母でもある)とその子で後嗣となっていた潤童子を殺して公方の座に就いてしまったのである。しかも重臣の外山豊前守や秋山蔵人らまで殺してしまい伊豆国内は乱れた。
 この混乱に乗じて伊豆へ乗り込んできたのが興国寺城主伊勢盛時(北条早雲)であった。当然、盛時の最初の攻撃目標となったのはここ堀越御所であった。茶々丸は御所の裏山である守山に立て籠もり、防戦したが敵わずに自害したと言われる。山麓の願成就院には茶々丸の墓が今に伝えられている。茶々丸の最期には別説もあり、伊豆諸島へ逃れた後に武蔵へ入って上杉氏を頼り、そして甲斐の武田氏を頼ったと言われている。さらには明応七年(1498)に下田の深根城に立て籠もり、ついに力尽きて自害したとも言われている。

▲ 願成就院の「足利茶々丸公方御墓」。伊勢盛時、後の北条早雲に攻められた茶々丸は願成就院の背後の守山に立て籠もり、一般的にはここで自害して果てたと伝えられている。
 ▲ 御所跡の様子。発掘調査の後はこのように埋め戻される。今後もさらなる調査が継続されるようだ。
▲ 史跡前に掲げられている説明板。右上の写真は発見された御所の池。

▲ これも史跡前に掲げられた説明板。発掘の状況が図示されている。

▲ 御所跡に置かれている「亀石」と呼ばれる大石。かつて御所の庭園の池に配されていた大石のひとつとされている。

▲ 御所跡の様子。

▲ 茶々丸の墓がある願成就院。背後の山は伊勢盛時(早雲)に攻められた際に茶々丸が立て籠もったとされる守山である。戦国期には守山城として山城が構築された。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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