深根城
(ふかねじょう)

              静岡県下田市堀之内       


▲ 深根城は伊豆を平定しようとする北条早雲に最後まで抵抗した城として知ら
れる。この築山はかつて城の南側を回っていた土塁の名残なのかも知れない。

戦国無情、
     皆殺しの城

 深根城の創築及び築城者については不明とされている。一説には南北朝時代には存在していたとの見方もあるが定かではない。
 応永(1394-1428)の終わり頃、伊豆の守護でもあった関東管領上杉憲実の命により関戸播磨守宗尚が当地に城を構えたとも言われる。天城街道(下田街道)と松崎街道が交わる要衝の地であったのだ。
 永享七年(1435)、宗尚没して嫡男吉信が継いだ。吉信は長禄元年(1457)に関東公方として幕府から派遣された足利政知に仕えたのであろう。政知は鎌倉入りできずに伊豆堀越に御所を構えたので堀越公方と呼ばれた。
 延徳三年(1491)、足利政知が没し、長男の茶々丸が継母と後嗣となっていた弟を殺して二代目公方となった。伊豆国内はこの茶々丸の乱行によって乱れた。この乱れに乗じて伊豆攻略に乗り出したのが駿河興国寺城主であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)であった。
 伊勢新九郎は真っ先に堀越御所を襲った。この襲撃によって茶々丸は自害、家臣であった関戸吉信も自刃して果てたと言われている。
 しかし歴史はそれほど簡明なものではない。
 関戸吉信は伊勢新九郎の軍勢襲来の際に新公方となった茶々丸を伴って御所を脱出、所領地である深根城に籠ったと伝えられている。
 この深根城に伊勢新九郎こと早雲庵宗瑞の軍勢が迫ったのは明応七年(1498)とされる。早雲率いる二千の軍勢は西伊豆松崎に上陸、松崎街道を東進して深根城を襲った。早雲勢は付近の民家を壊して堀を埋め、城内に斬り込んだという。
 多勢に無勢、関戸吉信は自決した茶々丸の首を抱えて城を脱したが梨本(河津町)で自刃したという。吉信の妻尉奈の前(じょうなのまえ/上杉憲実の娘)も自刃して夫の後を追った。そして、城兵と城内にいた老若男女すべてが早雲勢によって殺され、その首は城の周囲に晒され、悲惨を極めた。その数、千人といわれる。
 現在、城址には民家が建ち、城の遺構は残されていない。土塁の名残と思われる築山の上には一本のしだれ桜が何かを語りかけるように立っていた。

▲ 城址西側、土塁が回っていたと思われる辺り。石垣となまこ壁は歴史を感じさせるが、城とは関わりないだろう。
 ▲ 「深根城址」の碑。県道15号の稲生沢川に架かる橋を南に渡った道端に建っている。
▲ 稲生沢川から眺めた城址。道の右側の森の中間辺りである。

▲ 城址への登城口。ここから5分ほどである。

▲ 城址への入り口。道の右側はかつての堀跡であろうか、深い沢となっている。

▲ 城址の私道沿いの土盛りは土塁を模したものであろうか。

▲ 私道沿いの景色。

▲ 城址への入り口にある築山。

▲ 稲生沢川を南に渡った県道15号沿いに建つ「茶々丸之墓」の石標。ここから沢沿いに山道を登ると茶々丸の墓がある。

▲ 茶々丸の墓。城址の西約300mの山中にある。御所の墓とも呼ばれ、茶々丸夫妻の墓と伝わる。
----備考----
訪問年月日 2011年1月3日
主要参考資料 「下田の歴史と史跡」
 ↑ 「静岡県の中世城館跡」他

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